何時に起きたか忘れた。たくさん寝た気がする。
『人生というクソゲーを変えるための仏教』読んでる。仏教は諸法無我(この世のあらゆるものには固定的な実体がない)を唱えているように、基本的に意味とか存在への執着を否定する(執着のの虚無性に気づかせる)考えかたをベースにしている。のだが、そのわりに自殺は禁止していたり、初期仏教などを見ると自由意志も支持していたりするらしい。
仏教はよく(キリスト教に比べて)自然科学と相性がいいから受け入れやすいと言われるが、↑のような部分があるので必ずしも現代人が理屈で満足できる思考体系とは言えない。本気で仏道に入るなら、やはり「信じる」必要はある。一部の坐禅や瞑想、マインドフルネスなどのメタ認知関係の技術や考えをつまみ食いするくらいの付き合いかたが、現代の感覚にフィットしているので流行っているって感じかな。
諸法無我かつ一切皆苦(生きることはすべて苦しい)を掲げる仏教が、なぜ輪廻転生説(自殺すると生まれ変わったあと来世がもっと苦しくなるから、自殺しちゃだめ)などによって自殺を防止する必要があるのか、本ではいくつか考察されていて面白かった。
読みつつ僕なりに思ったところとしては、名のある宗教が自殺を防止する教義を備えてしまうことは、どうしても避けられないのではないか。なぜなら自殺を防止しない宗教は、ひじょうに存続しづらいからだ(信者が死んでいくため)。
Plague Inc.で初心者がよくやるミスで、ウイルスの感染力を高める前に殺傷力のほうを上げすぎて、人類全員にウイルスが拡がる前に感染した人が全滅してしまい、結果としてウイルスも途絶えて敗北するというのがある。↑に関連して急に思い出しただけです。微妙に違う話かも。
まあとにかく、進化論的な必然性として、大きく世に広がった宗教は自殺を否定していないとおかしいのだ。「宗教がなぜ自殺を否定するのか」という問いがそもそもナンセンスで、自殺を否定する宗教しか残らない現実があるだけ……ということなのかも。
逆に考えると、残らないだけで発生したことは歴史上無数にあっただろう。大乗仏教やチベット仏教などの現代に残っている本流の仏教とは異なる、様々に枝分かれした小さな流派の仏教のなかでは、もっとラディカルな思想が唱えられていたこともあっただろう。自殺はしてもよかったり、むしろ自殺すべきだったり。そういうのは無数に、カルトとして自然に途絶えてきたり、まさに途絶えてる最中だったりするのだろうな。
など。
東京ではぱらぱらとしか降ってないけれど、北日本ではいま雪が殺人級に降り注いでいるとニュースでやっていて、大変そうだと思った。雪の重みによる建物の倒壊や、雪かき中の事故などが相次いでいる。合掌造りってそのリスクを避けるための技術だと思うけれど、あくまで一部地方にある伝統文化という位置づけで、現代の建築には用いられていない気がする。実用的じゃないのかな? 雪かきに関係する有名なウミガメのスープの問題があった気がする。
21時半頃に作業を開始して、4時間ほどやった。テキストを書いて、ちょっとUIの調整。
その後、久しぶりにNotebookLMを触っていた。またはまっちゃった。一昨日録ったpとの会話音声を読み込ませて、それについてAIパーソナリティーに議論させてみたり。飽きるまで遊んでいたら、5時くらいまで起きつづけてしまった。うー。
もう飽きたので大丈夫です。
今日短かったな。何があったのかあまり覚えていない。パートナーに「鶴瓶がもしうちに来たら、見えないふりしようよ」って言ったのを覚えてる。