スーパー木登りフォーエバー
起きた。
今日は散歩の日だった(散歩の日というのがあります)。僕はでかけた。かなり元気があった。

狛江ショッピングセンターが左手にあるそうだった。「ショッピングセンター」って何? やけにショッピングに自信があるようだが。僕はお手並み拝見と思い、左折した。

狛江ショッピングセンターは、団地近辺に作られた4つの商店の集まりだった。そのうち一軒は美容院、別の一軒は床屋、あとの二軒はシャッターが下ろされていて、なんの店か分からなかった。これが狛江ショッピングセンターだった。イイネ!

不思議な壁。

木、乙。
元気よく歩いた。僕はインターネットで「しめ縄の味がする」と話題のベースの完全食カップ焼きそばを、ずっと食べたいと思っていた。コンビニの前を通りがかる度に、入店して陳列棚にないかチェックした。でも、どこにも売ってなかった。もうコンビニでの販売は、終了してしまったのかな。
公園を歩いた。

木が切られて、切断面があらわになっていた。たぶん、ギリギリよじ登れそうな高さだった。僕は助走をつけ、木に飛びかかった。跳躍力が思ったより出なくて、上面に腕しか引っ掛けられなかった。それでもなんとか身体を張り付け、腕だけで耐えた。諦めそうになったが、筋肉を振りしぼり、腹這いの状態に持っていった。重心が安定したタイミングで、じりじりと脚を一本ずつ引き寄せてみた。

こういうこと。あまり僕を舐めない方がいい。木には、座るぞ。常識にとらわれない子供は、どんな険しい形の木にも果敢に挑戦する。しかし大人になるにつれて、公園の行動可能空間は無意識に舗装された道のみに絞られ、樹木は背景化されてしまう。公園はこんなにも無数のアフォーダンスに満ちているのに、大人たちはそれを忘れてしまっている。豊かさを諦めるな。世界に目を凝らせ。ここであなたを待っています。

わたしは、わたしを冷やさない。着る岩盤浴。BSファインはじめます。

電車に乗って、下北沢に移動した。映画館に行った。散歩の締めに映画を見るのだ。
映画を「観る」ではなく「見る」と書く、という、選択。映画というメディアに相対した時だけ肩肘張って「鑑賞的態度」という謎な状態になるよりも、映画をみることは私たちが生きる周りの世界に対して目を向けるのとなんら変わらない極めてナチュラルな営みだと考えるほうが、よっぽど真摯に作品に向き合えるのではないか……どう? 尊敬している人の受け売りなんだけど。話を聞いてその考えに少し憧れたので、今日はそう書いてみる。
五十嵐耕平監督の『SUPER HAPPY FOREVER』を見た。5年前に死んだ妻の凪と、夫の佐野が観光地の島で過ごした時間を描いたもの。ほんとうによかった! 見てよかった! ほんとうに。ほんとうだった。物が移ろいゆく感じ。物は思いを背負っているわけではなく、ただ時間をさまよう。でも、その時々で、人々の人生に寄り添う。アイテムの使い方がすごい。人から貰った帽子を無くしてしまった凪が、ホテルをチェックアウトしてしまったために、スーツケースを引きずりながら砂浜を歩き回って捜索するシーンが、とても美しかった。スーツケースが普段触れることのない砂粒というマテリアルに出会い、浜辺には轍が刻まれる。しかし、キャスターは空回りしている。スーツケースと砂浜はぎこちない関係性にある。重いスーツケースを引きずりながら、足を取られる砂浜でものを探すという状況は、いろんな感触を味わわせてくれる。僕はこの作品に本当に感動したため、その後余韻でじんわりしていた。身体がじんわりしていた。肌が、きれいになった。死の気配が常に漂う世界の中で、それぞれの個別の幸せが光って見えた。僕は幸せな気分になった。
SUPER HAPPY FOREVER、本当に名作だったので、ぜひ見てください。
iPhoneの「ヘルスケア」を見ると、今日は37,000歩歩いていた。
帰ったら、祖母が怒っていた。帰るのが遅すぎたためだ。夕飯のカレーは、凍らされていた。僕はそれを解凍した。カレーを解凍する作業も、今はやぶさかでなかった。だって、すべての物は移ろいゆく中で、さまざまな人の人生に寄り添ってきたのだから。僕は今、どんな温度のカレーも愛することができる。
どんな温度のカレーも愛することができる。これが何を意味しているか。
眠いということです。