悪
目覚めたら身体が電子レンジになっていた。
濱口竜介監督の『悪は存在しない』は素晴らしい映画だったけど、実際のところ悪は存在しないのか。それは、わからない。僕は人と話すとき、たまに自分のことを「本質的には悪玉の人間」と言っている。
起きてから、パートナーとそれ関係の話をしていた。「悪玉」とは具体的にはどういうことかみたいなことを訊かれて、僕は「自尊心を保つために、人を利用する、人に迷惑をかける、人を否定するようなことを言う。自分にはそういうことをする素質がある気がする」などと説明した。相手との関係が親密になるほど、僕の行動や言動は粗雑、露悪的になっていく傾向があると思う。いつしか自分の気持ちを優先しすぎて、相手を振り回したり、のべつまくなしに語り続け、モラハラや洗脳まがいのことをしだすんじゃないか……という不安。
パートナーには「トロヤくんには潜在的な自己中心性があるかもしれないとは思う」と言われた。人との会話において、相手に問いかけているようにみせて、実は自分が言って欲しい正解があって、それを引き出すまで問いを繰り返していることがある、と指摘された。そうだなと思った。今までの彼とのやりとりを振り返ると、思い当たる点は多かった。オモコロチャンネルの永田さんが「コミュニケーションをクイズにするな」と言っていたのを思い出した。パートナーには「自覚はしておくといいと思うよ。僕自身は別に、そういったコミュニケーションによってトロヤくんに傷つけられているつもりはないけど」それに堪えられない人もいる、と言われた。
潜在的な自己中心性。その自覚。
この前、生まれたての0歳の甥のところに行った。そこでは、姉たちも義兄もみんな甥っ子を可愛がっていた。当たり前のことだった。しかしそのことに、僕の心はざわざわした。僕は、みんなの矢印が赤ちゃんじゃなくて自分に向いていないと、不満を感じるタチらしい。なんて未熟な精神なんだ……これから就職活動に臨む人間の仕上がりとは思えない。
でも僕は、僕より一回りや二回り年上の大人で、そういう性質を持っていて、なおかつそのことに無自覚なまま他人を利用して陥れている人間を何人か知っている。自覚することは、結構難しいのだ。生きた時間が長くなればなるほど、マインドセットは固定化されていく。たくさんの偏った思想が、思考の前提として固着している。それまでに出会ってこれなかった価値観や感情の種類は、その人にとってはまるきり発想の外におかれ、それによって無数のアイデアが除外されている。
僕は自分のことを、「悪玉の要素を備えている。もしも思考の偏りを処理できないまま『自分だけの当たり前』に安住してしまったとき、無自覚に呪いをまき散らす怪物になってしまうだろう」と評価した。当座の自己分析が終わったので、着替えて大学に行った。自己分析に明け暮れていたせいで、2時間30分遅刻した。友達に「遅刻ってレベルじゃねーぞ」と言われた。ネットミームで喋るオタク、発見。
授業のあと、教室に残って作業をした。ポートフォリオの制作を続けていた。終わらねー。情報の配置やフォントや画像など、これだと決めてゴーサインを出すべき工程がたくさんあって、そのいちいちに時間をかけてしまっているのだ。もっと、全部暫定でざくざくと置いていって、人に見せてフィードバックを貰ってから修正するのが早いのに。わかっているのに、それができない。なぜできないかというと、それはわからない。ネガティブな完璧主義に囚われているからとか、心身ともにコンディションが悪いせいで認知・判断・行動が鈍っているからとか。色々言いようはあるけれど、whyはさかのぼっていくほど反省のしようがなくなってくる。僕からすれば「わかっているのにできない」ことは、台風に巻き込まれるのと同じくらい自然なことだった。それなのに、提出の締め切りだけは我関せずと等速で迫ってくるからつらい。
19時55分に、研究室の人が「そろそろ閉めます」と言いながら入ってきた。その人はカーテンを閉めていった。その後、プロジェクターが正常に使えるかどうかを確かめるために、それを起動して壁に投影した。投影された真っ青の画面の下部が、僕の頭の形だけくり抜かれていた。僕は荷物をまとめ、キャンパスを出た。
今日も終わらなかった。雨が降っていたので、紫のパンジー柄の傘をさした。ワイヤレスイヤホンをつけた。昨日すっぽかしてしまったオンラインミーティングの振替が20時からあったので、それに参加した。僕は喋りながら帰った。喋ることに集中していたので、水たまりを避けられなかった。帰ったら靴を干さないといけないと思った。
帰宅したら身体が鉛になっていた。僕は床に横たわった。祖母に「シャワー浴びなさい」と言われたが、30分動かなかった。祖母がまた来てふたたび「シャワー浴びなさい」と言ったタイミングで起きあがって、シャワーを浴びた。ご飯を食べて、そのまま寝泊まりした。寝泊まりした?
僕は、甥にはもう会わないと決めている。もし僕が自分の悪性を本格的に発現したとき、甥を無意識に利用してしまうかもしれないと思うからだ。それはもしかしたら、彼の発達に瑕疵を与えるかもしれない。僕は、彼の幼少期に関わりたくないのだ。ずいぶん中二病的で極端な想定だとは思うし、なんだか悲しい機会損失の道を選んでる気はする。でも子供というのは守られるべき存在だから、最悪の場合を想定するくらいでもいいだろう。僕がはじめから登場しないことに(少なくとも甥っ子に対する)加害性はないから、マイナスな判断ではない。
ただの三親等の分際でこんな誇大妄想的な心配をしている時点で、僕の心はどこか彼に尋常でない意識を向けていることがわかる。なんというか、”手が届く”という感覚がするのだ。これがきっと「潜在的な自己中心性」だ。さらにいうと姉の息子に会わないという決断自体も、決して利他的な思いからではなく僕の自己中心性が導いた選択だと思う。こんなありさまの僕には「悪は存在しない」とは言えない。存在しないなら、この文章も存在していない。こんな文章は要らない。もっと豊かなことを考えたいのに。
僕の方は、子供の代わりに電子レンジなどを愛でて生きていこうかな。血のつながりというくそだるいシステムにからめ取られる前に、無機物と駆け落ちするのだ。もう、おやすみとしか言いようがない。