壊れない程度にかき混ぜる
最近、よくある猫の可愛い動画に対し同じ構図・同じ手の形で猫だけが不在の状態を撮影したものを投稿するアカウントが注目されている。いいな。
「猫が存在しないこと」には僕も興味があって、1年生の時に猫が見えない人のVlogみたいな映像を作ったことがある。見返すと拙くて恥ずかしいけど、良い作品だと思った。
猫のシルエットはすべて自宅にいる猫だ。外に出て風景の動画を撮った後、同じような構図で自宅の猫を撮影した。After Effectsのロトブラシという機能を使い、ひたすらに猫の輪郭のマスクを取った。ロトブラシは自動で輪郭を認識してくれる機能だが、うまく認識してくれない部分があるので結局はほとんどのフレームを手で微調整した。映像制作は肉体労働だ。
上の不在猫アカウントみたいなツイートばかり流れてくれればいいのに、最近のTwitterはくそだ。人工的につくりだされた憎悪が反響している。パクリがあたりまえに横行している。バズに最適化されたような喋り方をする人が増えた。「ここは元からそういうドブ川だったじゃないか」と言う人もいるけど(ドブ川という自虐で連帯を示すのもつまんないクリシェだ)、たとえばいいね非公開化の以前と以後でタイムラインの質が明らかに低下したのは確かだし、段階的に汚染量は高まってきているのだ。
そういった環境下で積極的な発信をしてサバイブできてる人がうらやましい。僕はずっとうっすら辛いな~と思いながらやっていた。創作活動をする以上SNSを活用しないわけにはいかないので運用は継続しつつではあるが、最近は以前よりある程度距離を取ってみている。このサイトを作った理由の一つにも、ソーシャルから距離を取りつつ自分の居場所を確保しようという意図があった。
しかしいざ距離を保とうとすると、自分はしっかりSNSに依存していたんだな~とも実感する。タイムラインを見ないと、急速に世界から取り残されたような感じがする。人生の手がかりがない気がする。発展を感じない。ケミカルな刺激を避けてあずま屋に入っても、それはそれで腐っていくのだ。刺激は必要だ。ただ僕は、その刺激の源としてSNSに軸足を置きすぎていたのだ。そこが貧しいんだ。
だから、人と話したり、外に出かけたり、勉強しないといけない。もっといろいろやらなきゃいけない
とか
考えて
勇気を出してどっかコミュニティみたいなところに踏み込んでみるも
上手く話せなくて、悲しくなって帰って来る。みたいな
こと が
去年はいっぱいあって あーてあーてあー
難しいなと思う。去年は自分の尻を叩きすぎたか。
とはいえ、今年も諦めない。またどこかに飛び込むつもりだ。体力がある時にだけど。どんどん言い訳の効かない年齢になっていくので焦っている。焦っているけど、自分は4年前よりもずいぶん成長しているのは確かだ。なんだか毎年同じ分量だけ傷ついている気がするが、傷の質は上がってきてる。3歩進んで2.9歩下がる具合だけど、自分が目指すべき豊かさの像がくっきりしてきて、思想もクリアになってきた。
そして思想がクリアになったら次にやるべきは、新たな刺激を取り入れて思想を再びぐちゃぐちゃにすることだ。
今日は深作欣二の『バトル・ロワイアル』を観た。先日観た同監督の『県警対組織暴力』がなかなかにぐちゃぐちゃしていて良かったので、そのつながりで。バトルロワイアルも良かった。たまにすさまじく美しいカットが挟まる。藤原竜也の回想シーンで父親が飲食店でうまく振舞えず怒鳴ってしまうところとか、ビートたけしが無人の校庭でラジオ体操を踊るところとか。どうしようもなくなってしまった大人のどうしようもなさが痛々しく伝わってくる。この作品を草分けにバトルロイヤル形式のジャンルが流行ったのだと思うけど、そういうフォーマットの根っことなった原初の作品は、フォーマットを飛び越した良さを持ってる(『ジョーズ』とか)。山本太郎が出ていてびっくりした。あと栗山千明がキルビルの主人公みたいな恰好をしていてびっくりした。タランティーノは本作に影響を受けたらしい。
明日滋賀に行く。これも刺激だ。