温泉ビンタ

日本海のぬるさ。福井県の砂浜にいる。海岸のすぐ手前、ほんの2メートルくらい手前に琵琶湖から流れてきた淡水の小川があった。今日はそれを飛び越して日本海の方に足をひたしてみた。

「テトラポッド」は商標名(一般名は消波ブロック)。
友達のオタマトーンが壊れた。

でっかいマカロン。

東尋坊に来た。東尋坊に来るのは2回目だった。7年前の1回目は、商店街のようなところを通って来た。今回は商店街は寄らずに、海沿いの遊歩道を歩いてたどり着いた。
東尋坊は火サスで追い詰められた犯人がよく飛び降り自殺するスポットとして有名だ。しかし、ここを形作る無数の柱のように分離した岩々(柱状節理というらしい)は沖側から陸側に向かって若干立てかかるような向きで生えていた。だから、もし飛び降りた場合、海に落ちる前に一度か二度途中の段差にぶつかることになりそうだった。そんなふうに死ぬのはやだ。
でも逆に、もし崖が海側に向かって垂直かオーバーハングする形でできていたとして、飛び降りたらそのまま海にドボンと落ちるわけだけど、それって死ねるのか? 海沿いの崖から飛び降りるということが具体的にどういうことなのかよくわからない。ミッドサマーみたいに硬い地面に向かって飛び降りるのが確実だ(ミッドサマーは死ななかったけど)。まあ自殺の大半はよくわかるものではないか。生きることを辞めるなら、理屈からも降りていて当然だ。

来た時と同じ海沿いの遊歩道を歩いて戻った。戻りながら、友達と衝突?喧嘩?した。友達はしゃべらなくなった。

金沢を通り過ぎて、新潟県の上越市に来た。見渡す限りの田だった。田、田だった。「田」という漢字には田が四つ入っているように見える。我々が線で書いているのは、田そのものではなくそれらを囲むあぜ道なのではないか? 僕は今まであぜ道を書いてきたのか? と考えた。友達はまだしゃべらなかった。
現地の大戸屋で晩御飯を食べた。テーブルの向かいに座った友達にあらためて対話を試みた。僕が思う自分のよくなかった部分を謝ったり確認したりした。ぼつぼつとだけ思っていることを口に出してくれた。でも満足な対話ではなかった。友達自身、うまく整理できていない、あるいは、整理できたけどそれを口に出すことをよしとしない状態だったように見えた。
大戸屋のあと温泉に入った。すると温泉の中で、友達が「今からお前をビンタさせてくれたら、水に流す」みたいなことを言った。僕は承諾した。そしてビンタされた。お互い全裸でのビンタだった。浴場で、その音はさぞかし響いただろう(記憶ない)。それ以降、友達はまたしゃべってくれるようになった。
こんなこと久しぶりだった。
なぜ友達はしゃべらなくなったのか、なぜ彼は怒ったor悲しんだor傷ついたor呆れた(orその他)のか、なぜ僕はビンタされなければならなかったのか、なぜビンタによって事態は収束したような感じにまとまったのか、あまりわからない。彼が話してくれた内容や自分の経験則からある程度推察はしたが、それが的を射た考えなのかは確かめられない。そして、もしその推察が事実に近いものだったとしたら、僕は「そんな人って、本当にいるの?」と驚いてしまう。
でもたぶん向こうからしても、僕が彼に対してとった態度や発した言葉は、「こんな人って、本当にいるの?」という驚きものだったのだと思う。お互いがお互いのライブラリに無い人種だったのだ。長時間一緒にいたから、そのことが露わになったのだ。
と、思った。わかんない。
なんとなく懐かしい。お互い理屈や丁寧な対話を飛び越して衝突し合って、傷つくだけ傷つけ合う……そしてその結果など関係なしに、いつの間にか平常のコミュニケーションにケロッと戻っている。しかしその前後ではお互いの中で何かが変わっている。そういうのは、小学生のときとか中学生のときとかによくやっていた。
最近はそのような経験があまりなかった。喧嘩は相手に対して何かを期待するから起きる。最近はそんなに他者に期待してなかった。他者は一緒に時間を積み重ねなければ理解できないままならない存在であって、そこに至るより前の段階でのコミュニケーションにおいては、変に期待を持っていると傷つく。傷つくのを避けるためには、自分の発言に本音をくるむカバーやクッションを挟む必要があって、「場」の構築に貢献する発言が優位に立つ。その作業はどんどん無意識に行われるようになっていく。僕はそんなふうに育って今に至る。
友達にはこのような僕の存在が欺瞞的であると思われたのかもしれない。噓つきだと思われたのかな? わかんない。
わかんねー。
わからない。これにつきる。話さないと、話しつくさないとわからない。
衝突に至る要因となった話題がそもそも複雑な話で、「ユーモア」や「いじり」に関することだった。それは友情云々を抜きにして議論し合わないと答えを出せないむずい問題だ。しかしその問題をめぐる議論の途中でお互いに自尊心を刺し合ってしまったので、温泉ビンタという不思議な結末を迎えることになった。「ユーモア」や「いじり」はそれ自体「本質からずらす」ことを本質としている概念なので、すこぶる語りづらい。仲直りの代償として僕がビンタされたことも、ある種「ユーモア」によって起こっていることのレイヤーが無理やり別のレイヤーに落着させられたにすぎない。それは真っ当な解決とはいえない。
僕たちは温泉ビンタによって「我々は真っ当な解決を必要としない」という定義づけを行ったのだ。とりあえず。旅行中の間に合わせとして。この定義づけは合意のもとで行われた。なにせ僕はビンタされることを承諾したから。
僕は温泉で起こったことをそう解釈した。そうしたら98%の気持ちが晴れた。でも残りは、今も納得できない。なぜならビンタは暴力だからだ。僕は暴力は嫌いだ。こういう時には対話のほうがよっぽど必要だと思っている。しかし今回は暴力によって決着した。だから、しばらくは彼とは98%の気持ちで付き合うことになりそうだ。でもそれは全然おかしいことではない。僕には大切に思ってる友達が何人かいるが、その中に100%フルコミットできる人など、一人もいない。
そういうもんだ。今日のことで、彼の中でも僕の存在が何%かに低減しただろう。そういうもんだ。
書いてたら長くなった。書くと長くなるような友達がいてうれしいと思っちゃった。
明日は長野方面に移動する。