▶︎コンティニュー
エメラルドのバトルファクトリーBGM、いかしすぎてる。クラブで流してください。この動画、音声データの吸出しとかじゃなくて普通に映像をキャプチャしたものを載せていて面白い。NPCが、歩いている。24時間配信のアンビエントミュージック動画みたいな湿気を感じる。
12時くらいに起きた。
池袋に向かった。今日はゲームの展示会や就活支援などでよくサポートしてくださっていたMさんと、二人でサウナに行くのだ。この前の飲み会で彼が「サウナが好き」と言っていたのを聞いて、思いきって誘ってみたのだ。僕はサウナを知りたかった。
Mさんの甥っ子(赤ちゃん)は、LINEスタンプになっていた。僕もそれを購入し、我々は同じ赤ん坊のスタンプを交えながらコミュニケーションした。

池袋のスーパー銭湯に到着した。
入って館内着を借りた。「黙浴、黙サウナをお願いします」という注意書きを見つけ、身が引き締まった。黙サウナ。
浴場で全裸。Mさんにひっついていく形で、一連の流れを説明をしてもらった。「これお尻に敷くシートね。これは僕のマイサウナハット。結構いいよ。あ、それ取っちゃだめ。それも誰かの専用サウナハットだから。僕は毎回8分を目安に入ってます。8分経ったらサウナ室を出て、水風呂に入る。水風呂も入る前はかけ水をして汗を流してね。水風呂に入った後は、その辺の椅子に座って外気浴」外気浴用の椅子も、使い終わったら座面をお湯で洗い流すのがマナーのようだ。
サウナ室に入ると、びしょびしょのおじさんたちがひな壇に並んでいた。僕も空いたスペースを見つけ、お尻シートを敷いて座った。室温は90℃だった。暑い。とりあえず僕も8分を目標にした。呼吸のしかたに気を配りながら、目を瞑って熱気に耐えた。サウナ室のテレビでは、お昼のバラエティ番組が流れていた。芸人がちょっと面白いことを言ったときに、サウナ室のおじさんたちはハハハと笑った。みんなテレビ見てるんだな。僕は時々目を開けては、12分時計の針を見つめた。苦しい、あと何分か、うわ〜まだ半分か、などと思いつつ、ぼんやり耐えていた。気がつくと8分が経っていた。僕はサウナ室を出た。たしかに8分がちょうど良いかもしれない。無理なく耐えられる苦しさだった。
水風呂は、すんなり入れた。かけ水をするときに心は「キャー!」と悲鳴をあげるけど、その叫びは無視して、さっさと全身を浸けてしまおう。心はすぐに順応した。首の筋肉が急激に収縮し、ギュッとなった。たぶんこれで死ぬこともあるんだろうな。不安がかすめる。
椅子に座り、外気浴(屋内でも外気浴という言いかたでいいのか?)をした。目がまわっている。浴場の壁と壁の境界線、天井と壁の境界線などがくっきりと浮き上がり、視界を分割する。浴場には長さや交点の角度、面積比などが無数に漂っている。頭がいっぱいになり、普段使いまわしている思考のレベルが途絶した。現実に目を凝らすことができなくなった。僕は思考についてしか思考することしかできなくなった。めまい。

天井の線が、動いていた。この線の動きが止まったら、次のセットに行こうかな。
次のセットも8分間サウナ室に籠もった。耳の先端が、火傷みたいになって痛くなった。耳の位置を下げようと前傾姿勢にしてみたが、すると汗が下段の上面にポタポタ落ちてしまうので、困った。サウナハットが欲しくなる理由がわかった。さまざまな姿勢を試した。あぐらをかくのは隣のお客様の迷惑になるのでだめと書いてあった。
水風呂に浸かるときやその前のかけ水のときは、近くにいる人に冷水が撥ねてしまわないよう注意しないといけないと学んだ。
外気浴の時間が一番楽しい。楽しいというか、楽しいとか苦しいなどが、どうでもよくなる。どうでもよくなるのだ。この放り出される感じが、僕がサウナに求めていたことだった。一定のリズムでサウナ→水風呂→外気浴と動きをこなす。動くけど、自分の意志でというよりは、操られるように動く。この循環が、安息をくれる。僕は鏡に映る自分を見た。

両方の眼に、水滴が重なっていた。
もうワンセットして、僕たちはサウナを終えた。

休憩室でMさんと、コーラを飲みながらお話しした。エヴァンゲリオン旧劇場版のすばらしさ、『ボーはおそれている』の終盤の是非、クリストファー・ノーランに我々は何を求めているかなど映画の話で盛り上がった。Mさんは作曲好きで、インターネット・ミュージックなどが根差しているオタク文脈、サイケデリック、サンプリングなどの美意識を語ってくれた。あと彼はマグリットの絵画も好き。僕は音楽の趣味はゲーム音楽かポピュラーどころに収束しがちだし、絵も詳しくないので、参考になった。インターネット・ミュージックにあたるのかよくわかんないけれど、僕も知ってるそれっぽい一曲をMさんにおすすめした。
これ。
Mさんに、就職にかかわる今後の話をした。会う人会う人に進路相談をしているな。今年度は就活をやらず、来年度Death the Guitarの開発に力を注ぎ、発売が終わってから二卒などでの就活を考えるという現状のプランを話した。Mさんは「トロヤくんはもう、新卒カードを使って面接を受けるとか、そういう枠で考える段階じゃない気もするけどね」と言った。活動を続けていれば、そんなに心配せずともどこか拾ってもらえる口はある、と。
僕とMさんは「わたしたち、お友達になりましょう!」みたいなことをお互い確認しながら着替え、山手線に乗って別れた。楽しかったな。
僕は三軒茶屋に移動した。このあと親友と会って、ご飯を食べる約束をしていた。一日にふたつも予定を入れるなんて、異例だ。最近やけに、人が恋しい。なんだァ? 話したいです。人とさ。サシでね。ア? 寂しんだよォドォドドドドド。
親友と合流した。相合傘を差しながら、僕たちは三軒茶屋を歩き、どこで食べるかを悩んだ。
僕たちは毎度、飯屋を選ぶのに時間がかかった。二人の食べたくないものを重ねると、結構な店がNGになるのだ。僕はまず焼き肉と、にんにくを使う料理が大嫌いだった。もつ鍋・粉物・アジア料理が苦手で、辛いものも食べたくなかった。そしてエビ・カニ・タコ・イカ・貝類はアレルギーだった。親友の方は、アメリカ大陸の料理が嫌いで、香辛料や薬味を効かせたものも食べられなかった。ルイボスティーを除くほとんどのお茶と、コーヒーも受けつけなかった。パンも気乗りしないようだった。
上記のNGに引っかからない飲食店を見つけても、二人でお店の外観を数秒眺めたあと、無言で通り過ぎることが何度もあった。おそらく僕たちはそれぞれ、言語化しきれていない「嫌」をまだまだ忍ばせているようだった。
歩き回ったすえ、お造りが主体の居酒屋を見つけた。今晩はここで食べていくことにした。雨は止んでいた。

食べ物を食べた(↑これ何)。酎ハイを飲んだ。今日は、飲み物はこの1杯だけにすることにした。これ以上飲まないことにした。
酒。自宅に常備するようなタイプではないけれど、目の前にあったら飲む程度にはお酒が好き。そもそもbeverage(水以外の飲料)に対する興味が全体に強く、僕は飲み物が結構気になる。ほとんどの飲食店ではドリンクメニューを開くと、アルコール飲料の方がバリエーション豊かにそろっている。それゆえ、どうしてもお酒を頼んでしまうのだった。
しかし今日は酎ハイを手にとったとき、自分がサウナ上がりであることを思い出した。サウナとアルコールという組み合わせに、僕はなんか「役がひとつ出来上がりそうだな」と思った。なので、今日はもう飲まないことにしようと思ったのだ。
今日、有名な女優が入浴中の事故により亡くなった。SNSでは、ヒートショックの危険性が騒がれた。その余波で、サウナに対する批判も起こっていた。サウナなんてのは自らヒートショックしに行っているようなものだし、指摘されるリスクはもっともだった。煙草や酒と同じく、おいそれと人に勧めるものじゃないなと僕は思った。いまさっき、親友に「サウナとても良いよ」と言ったところだ。「俺はサウナはやらない」と普通に断られた。これをもって、人にサウナを勧めるのはやめるとするか。
親友は「子供が欲しい」と言っていた。就職したことで、急に今後50年の自分の人生の行く末が見えてしまったように感じたらしい。「俺の人生、こんなものなのか」というやるせなさを前にし、子供を育てるという希望の選択肢が浮かんだんだって。
僕は子供が欲しいと思ったことがないため、多くの日本人がいったい何に突き動かされて子供をつくってるのか、よくわからない。でも周りの人々から話を聞く感じ、「自分の子をつくり育てることは、自己実現の達成手段としてすごく魅力がある」というのがひとつ大きな理由としてあるのだろう。
ところで彼は、子供が欲しいという強い願望を持っていながら、他方で恋愛についてはとてもネガティブで、まったくやる気がない。性的なやりとりも、人を愛するということも、嫌なのだとか。「だから俺は、終わっている」彼はそう言ってワハハと笑った。
「終わっている」などと自虐はするけれど、実のところ親友は、そんなに自身のlife(生活/人生)に不満を感じていない。大体いつも、彼は僕よりも幸福度が高かった。悲観はしても、悲嘆に暮れることはないのだ。「子供は欲しいけど人を愛せない」なんて結構えげつない悩みに見えるけど、それはそれとして彼は基本的にウェルビーイングを保っているのだ。あこがれる。そんな彼とは対照的な雲行きの、僕……。トロヤさんは、どうなんですか。隙あらば死にたいとつぶやく、トロヤマイバッテリーズフライドさん。幸福の最大値は人それぞれ異なり、生まれつき決まっている———そんな俗説もある。親友と話すたびに、俺にはずいぶん幸せの才能がないな、と思わされる。
「死にたい」もサウナも薬も酒も日記も、どうにかして「僕」から脱出しようともがく僕の出家願望のあらわれである。ちなみに今度、宿坊体験に行ってみる予定です。あるいは本当に出家するかもしれないですね。
僕たちは、でかいため息をついた。まあ、まあまあ。人生なんぞ、急に予想外の展開に転がっていったりするものだ。僕も彼も、まだ知らないことだらけなはずだ。
知らないことだらけ。
先日、中学1年生のゲーム開発友達と話してきたとき、彼から「学校で興味もない勉強をやらされるのが嫌だ。勉強のための勉強みたいで、意味が感じられない」という思いを聞かせてもらった。このことについて、親友と話してみた。僕たちはなんだかんだ、義務教育の指導要領くらいまでは勉強しといた方がいいんじゃない、と考えた。
興味がない領域について学ぶのは、たしかに時間の無駄かもしれない。しかし学校教育をなおざりにすると、そもそも「そこに学びの領域がある」ということすら知ることなく大人になってしまうおそれがある。我々は何かアイデアや悩みの壁にぶつかりそれを乗り越えねばならないとき、時として新しいことを学び成長する必要に迫られる。調べたり、人に尋ねたり、本を読んだりしてみる。しかし、調べるにしても、尋ねるにしても、本を探すにしても、出発点にはひとつ以上の語彙が必要となる。その語彙は結局、自分がすでに知っているものでしかない。何か新しい知にアクセスするためには、その手前にあるなにかをすでに知っている必要があるのだ。学校教育は、その最も手前である知見———すなわち「この世には、これこれこういう学びの系が存在する」という事実を多く教えてくれる。地形と気候の関係を分析する系や、角度と長さの関係を考察する系、昔の人の思想を読み解く系、墨と毛筆で字を書く系など。これらの領域の存在をあらかじめ知っておかないと、大人になって救いとなる知見を探そうにも、そもそもの検索空間から除外されていて、視界に入らないということになるかもしれない。
お冷を飲みながら、親友とそんなことを話した。やりたいこと、追究したいこと、夢……を選びとるにしても、それは自分の知っているものの中からしか選ばれない。それならば、あらかじめたくさんの系を知っておくべきだ。早いうちに知っていることを増やすには、自分の意志の及ばない偶発性の場に身を置き、自分の語彙では辿り着けなかった体系にたまたまエンカウントする必要がある。そしてその「エンカウント待ち」作業を、もっとも効率よくコスパよくおこなえる場が、他でもない学校という機関なのだ。
誰も彼も、自分の知っている範囲でしか、ものを考えることができない。僕はもうすぐ25歳になる……。そろそろマインドセットが凝り固まってきて、考えられることしか考えられなくなってしまうかもしれない。本を読んでも、すでに知っていることしか読み取れなくなってしまうかもしれない。幸せの系を見つけられず、一生幸福になれないかもしれない。
もしそうなったら……!
……!
……!
まあ、
いっか
一生幸せになれなくても、
別にかまわないな。
幸福というのは、テストの点数みたいなものだ。満月の夜のベランダや、同窓会の帰り道や、死亡する直前などの折々に振り返る、リザルトにすぎない。その結果を見て、喜ぶために生きるのか? やったーって思うために生きているの?
それはちがう。
本当に大事なのは、
今ここにいる自分が、1秒後の自分のために動くかどうかだ。生きるために生きるかどうかだ。1秒後へのコミットメント。1秒後へのエンゲージメント。
そしてなにより
1秒後のリアリティが、今のリアリティの延長線上にあること。
連続であること。