Patterns of Passage: Traffic and Thought

2024 - 08 - 07

長野県安曇野のわさび農場。

奥と手前で水の様子がちがう。万水川と蓼川という2種類の川が合流したところ。二つの川は水質が異なり、しばらくは混ざりきらないまま流れていくのだ。面白い。

ヒョオ”! 痛い。冷たすぎて。内側から罰されるような冷たさ。夏にこの冷たさがあるのがすごい。長野はすごい。

わさびソフトクリームを食べた。わさびが美味い! つぶつぶで、上品な辛さだ。良い日本酒を飲んだときみたいな舌の喜びだ。

城。

中央自動車道で東京へ向かった。今日は現実に戻る日だった。この3日で、車の運転感覚を少しは身体に馴染ませることができた。高速道路では、点在する物流トラックが視界でチェックポイントのように浮き上がってくる。トラックを一つずつ追い越していく作業が、高速走行の基本だと思った。あとは基本的に左側車線を走っていればいい。たまに左側から追い越してきたり、後ろから至近距離に詰めてきたりする車がいて、そういうのはオゲゲって思う。

滋賀や新潟の普通道路は楽ちんだった。東京の交通とは大違いなのだ。東京での路上教習でさんざん苦戦させられた予測不能な動きをする子供や予測不能な動きをするおじいさん、切り替わりの早すぎる信号機、予測不能な動きをするおばさんなどがなかった。一区画の直線もとても長くて、建物も低く視界良好で、走るのが楽しかった。

車を運転していると「ここ嫌な道だなあ」とか思う。今まではそんなこと考えたことがなかった。散歩するときも好きな道や嫌いな道はあるけど、それは面白いオブジェクトがあるからとか、騒音がうるさいからとか、自分の審美的な価値判断で決められていた。でも車を運転するときの「嫌な道」は、普通にあぶねえ道だ。運転者でいるとき、地図にあるすべての線が道というわけではなくなる。安全に走行が可能な限られた一部の道しか選択肢に入らないのだ。また、右折で入るのが実質不可能な駐車場とかがあって、左折にするためにあえて区画をぐるっと回る道を選んだりすることもある。道路網を単純な点と線のまとまりではなく、始点からくねくねと伸びる動きの塊として認識するのだ。そしてそれは一定のスケールの上で知覚される。そのスケールでは、無数の道未満の線が認識の外に追いやられている。

あと、ハンドルは勝手に動く。ハンドルは僕が動かすものだと思っていた。アシスト機能なのかタイヤのコンディションが不完全だったのかよくわからなかったけど、ハンドル側から勝手に動くこともあるのだ(車種にもよる?)。乗馬してるみたいだった。ハンドルが変な方に動くと「どうどう」と思いながら腕に力をこめて主導権を取り戻した。僕と車のあいだには完全に一方的な主従関係ではなく、お互いに利用し合うかような緊張状態があった。車が僕を殺そうとしている気がするときもあった。それはたぶん僕のハンドリングが下手なだけだけどな!

帰りの高速道路で激しい夕立が来た。めちゃくちゃ焦った。雨音が銃撃音だった。前車の転がすタイヤが飛沫をあげて、それが視界一面を覆って、ワイパーが追いつかなかった。その時の運転者は運転に慣れた友人だったので、助けられた。自分が運転していたら、無事に走行できたか自信がなかった。

信玄餅ソフトクリームを食べた。1日に2個ソフトクリームを食べることができる。コーヒーに合う素直な甘さだった。

車を返して、ぬるっと東京に帰った。東京は現実すぎる。最悪。LINEが21件、メールが16件溜まっている。Discordもなんか来てる。現実すぎる。

遠くに出かけるのは心底楽しいけど、結局東京での現実の暮らしを自分のものにできなきゃ、自分の時間を生きられているとは言えない。そのためには、LINE21件、メール16件、Discordのなんかを片づけることを、自分の身でこなさなきゃいけない。

あー