カメラからの脱出
新国立劇場に行った。父と合流した。

今日は父に誘われた。オペラ『魔笛』を見るのだ。父はオペラが好きらしい。知らなかった。帝国ホテルでアフタヌーン・ティーをしばいた翌日にオペラを鑑賞だなんて、ファビュラス。
僕に楽しめるだろうか。オペラは一度、高校の実習で『蝶々夫人』を見たことだけあった。特に思い出には残らなかった。昔、何度か親戚に落語に連れていかれたことがあった。でも一度たりとも面白いと思えず、落語を好きにはなれなかった。歴史の深い芸能メディアに感動するのは、なかなか難しいという意識がある。
待ち時間。ロビーでは客たちが、ワインとか飲んでいた。みんな、フォーマルな格好に身を包んでいる。ユニクロとGUで構成されたファストファッションに身を包んでいるのは、僕だけのように見えた。父に「魔笛は知ってる?」と訊かれた。
「うん。音楽の授業でやったから知ってる。『お父さんお父さん! 魔王がいる〜怖いよ〜』ってやつね」「違うそれはシューベルトの『魔王』。オペラじゃなくて、歌曲やな」そうなんだ。僕はてっきり今から「お父さんお父さん!」を鑑賞するのだと勘違いしていた。
「魔王と魔笛って別物ですか?」「『魔笛』はモーツァルトね。トロヤ、あれは見た?」「『アマデウス』?」「そうそう。俺あれ、中学の時に見てな」『アマデウス』は『カッコーの巣の上で』と同じミロス・フォアマン監督の映画で、モーツァルトの人生を描いたものだ。実は昨日の夜、パートナーがDVDを持っていたので、予習がてら視聴していた。でも時間がなくて、冒頭だけしか見れなかった。普通に面白そうだった。
「今度、ちゃんと見ようかと思ってる。ちょっとだけ知ってる。モーツァルトってすごい遊び人だったんだね。対照的にサリエリは、ずっと勤勉で貞操を守ってた、みたいな」「ああ。冒頭のシーンな」冒頭のシーンだ。

席についた。わくわくした。アナウンスが流れ、ホールの照明が落とされた。指揮者があらわれ、会場は拍手に包まれた。指揮者が楽団の方を向き、手をかざした。Aから始まるチューニングがおこなわれた。
『魔笛』が始まった。
『魔笛』が終わった。
面白かった!
オペラとして感動したというわけではなく。今回の『魔笛』はまったく普通のオペラではなかったのでした。オペラという基礎にプロジェクションなどを加えた舞台美術になっていて、そもそも僕が好きなタイプの作品だった。とても良かった。パンフレットを読むと、アーティストのウィリアム・ケントリッジが監修していた。手描きの抽象アニメーションなど作っている人だ。
ウィリアム・ケントリッジ氏は南アフリカにおいておこなわれた植民地支配やアパルトヘイト政策に対する批判を、作品制作のテーマの一つとしている。今回は、『魔笛』の演劇が筋書きにしたがって行われながら、画面最奥のスクリーンには、魔笛のドラマとはまったく関係のない、狩猟される野生のサイの実写映像がプロジェクションにて投影されていた。すごすぎ。ものすごい尖ったことをしている。
舞台が手前から奥へと複数のフレームによって隔てられていて、何層ものレイヤーに区切られていた。それは、観客席を含めた会場全体を「カメラ」の構造に見立てるメタファーだった。プロジェクションによって劇を引き立てる抽象アニメーションも、レンズやカメラオブスキュラなどにかかわる光学的図法、測量、遠近法による拡大縮小など、カメラ技術史を示唆するドローイングアニメーションになっていた。
手前から奥へと区切られたレイヤーが、人間の世界と神の世界の隔たりを強調していたり、あるいはそこに遠近法という理知的な連続性が与えられることによって、「人が叡智の力によって神に近い存在になる」ことを示唆していたりした。消失点にはフリーメイソンのマークが描かれたりしていて(これは『魔笛』自体のテーマでもあるけど)、いろいろな読み取りの余地がある。演出家はこのような『魔笛』の諸要素を、自らのテーマである南アフリカにおける政治的課題に対応づけ、その相似性を舞台美術によってあらわにしたのだ。知や啓蒙思想に対する批判など、『魔笛』の称揚する思想とは逆行するような皮肉的メッセージすら込められているように見えた。熱かった。
よかった。
ご飯食べて、父といろいろ話した。クラシックとロックについて、色々と聞き込みをした。詳しい会話の内容は、いまちょっと精神的に余裕がないので書かない。
帰って寝た。
明日は何もないです。