強くなりたい
会社見学に行ってきた。自分も就活生なのだ。
社内の方とお話させてもらった。非常に言語化が巧みな人だった。その人のしゃべりは、誰にでも伝わる語彙で構成されていて、かつ耳に届きやすい太さがあった。チームでプロジェクトを回すために求められるコミュニケーション手段として最適化されたようなしゃべり方だった。人と話す時に僕がつい意識してしまう「自分がどう見えてるか」だの「相手はどう思っているか」だの、そういう目線はなかった。その人は仕事の話をするためにその場にいたから、仕事のための必要十分の話法をアクティベートして使用しているみたいだった。
社会人ってこういうことか。僕にもこんなしゃべり方ができるだろうか? 切り替えができるだろうか? これは本音を隠すかとか正直になるかとかTPOを守るかとかそういうレベルの技能じゃない。この会話が何のために行われているか、その目的を把握すること、その目的に沿った語彙デッキを使うこと、声色やボディランゲージ等もその目的のために先鋭化させること、そういう技能だ。
もちろん仕事場で行われる会話のすべてに目的があるわけではない。だが僕が今までの人生でたしなんできた(たしなんできた?)ような、目的のない会話のための会話———どんな会話かというと、相手とぼんやり相互作用していくうちに発生する共有の靄によって場を湿気させて整うためのサウナ空間を作り、そこでお互いしっとりした目で見つめ合う、そういう会話———が許されない場をたくさん経験することになるだろう。
僕にもできる気もする。鍛えれば。現時点では、尊大な羞恥心が邪魔をしてしまうけれど。でも、この尊大以下略は近いうちに解体できそうな予感がある。自意識がどんどん薄れていくのを感じるのだ。なんでだろう。ここ数年、ある種自分に呆れ返っていることばかりだったからかな。自分の中の小鳥ちゃんの面倒を見るのがだるくなってきたのだ。ピーピー喚くわりには期待に応えてくれないからね。心に鳥を飼うのはおすすめできない。
今日だって、メールを返信するので手一杯で力尽きてしまった。
【自覚のコーナー】
今の自分は弱まっている。
休む必要がある。
でも、復旧の努力は忘れちゃだめだ。これを忘れたら、死ぬまで休み続ける自信がある。
しかし同時に、復旧を急ぎすぎても危ない。
3日前にいた福井県で足を小川に浸していたとき、足がどんどん沈んだ。自分の体が、川に埋まっていったのだ。足を持ち上げようと力を込めると、水底の砂はギュッと硬くなって、脱出を拒んだ。ダイラタンシー現象。
復旧を急ぐと、心身はむしろ固着して回復は遅れる。ゆっくりとねじるように持ち上げる。するとまとわりつく砂は流動的になって、案外すんなりと脱出できる。
できるだけシームレスに、横にローリングするように。重心が大事かも。
心の重心。
今日、何!?
アリ・アスター監督の『ヘレディタリー/継承』を観た。2回目。『ボーはおそれている』を観た翌日に観ると、あらためてアリアスターの進化を感じる。めちゃめちゃ面白かったけど、この作品はまだあくまでホラー映画としてジャンルの枠組みの中で戦っている感じがあったし、クリシェっぽいださい表現もあった。でも監督らしいエッセンスは無数に滲み出ていた。母と子の、お互いに殺される予感を帯びたような歪な緊張関係は唯一無二だった。終盤に畳みかけてくる、ホラーらしい温度感を一切無視した「???」な恐怖描写。あの置いてきぼり感。怖がったらいいのか笑ったらいいのかわからない表現のせいで、スクリーンから引き剥がされる。すごい良いね……。
本筋とは離れるけど、母親がミニチュア制作の仕事をしていて、個展の〆切に追われているなか粛々と作業をしているさまが僕には眩しかった。生計につながる創作活動として、かつ自身を見つめる箱庭療法としてやっているようだった。その仕事の描き方には、アリアスターの内に秘められた独自の仕事論が伺えた。あの母親が、僕にとってはすごくかっこよかった。こぼした塗料を拭き取るさまとか、材料の買い出し帰りでビニール袋をさげているさまが、強い人の生き方に見えた。そのような強い人のあり方に気づくことができた。
アリアスター作品は、いろんなことを気づかせてくれる。