きっと毎日が誕生日

2024 - 08 - 11

昨日は一日中活動していた。その反動か、今日は身体が鉛のように動かなくなってしまった。疲労で目が回ってる。いま外を歩いているけど、脚が重い。全身から汗が噴き出るので、肌が水面みたいだ。アバターの新作が発表されていた。

帰宅した。その後、おジャ魔女カーニバルの「パパママ先生ガミガミおじさん」の部分だけを繰り返し歌いつづけ、死んだ。

姉から子どもが産まれたという連絡を受けた。LINEで赤ちゃんの写真が送られてきた。よくみる赤ちゃんを保護する容器?に入っていた。

new arrival。新しく入荷した商品みたいだな。

自分は叔父になってしまった。いつまでも未発達な僕に比べて、姉という存在は大人だな~とよく思っていた。しかしまさか、子どもまでできるなんて。あるんですね……そんなこと……。

おジャ魔女カーニバルの「パパママ先生ガミガミおじさん」の部分だけを繰り返し歌いつづけ死亡しているようなヤツが、叔父になっていいの? まあいいか。叔父という続柄自体は大したものではない。自分から接触しにいかない限り、子どもから強く認知されることもない。もともとそんなに姉と会う方でもないし。

でもなんだか胸が詰まった。いままで人間の子どもの誕生など、映画の中の話だった。実物を見てみたいと思った。赤ちゃん。ゲップをするだけで褒められる存在。自分と他者の区別のつかない曖昧な視線で世界をみている。さっきまで水中にいたらしいじゃん。気分どうだったっすか? 羊水中の胎児は生物の進化のようすを夢に見ると聞くが。もう忘れてしまった?

俺もゲップしていいか?

誰か褒めてくれますか?

俺としたことが、身近に突如現れたnew arrivalにびびっている。

時が怖いのだ。

さっきまで窓際で暴れていたセミが静かになった。

ショーン・タンの『セミ』という絵本は、素晴らしい。たくさんの人が読むべきだ。この子も、文字が読めるようになったら読むといい。でも僕からはあげない。そういう子供をどうこうしようと大人が振るう力は、おそるべき暴力性を持っている。僕はそれに与したくない。ガミガミおじさんになりたくない。姉に子供ができたからって即座にこういう欲求が湧き上がるとは、現金なやつだ! 僕は弱い人間! 恥を知れ。

僕は、この子がいつかショーン・タンの『セミ』に出会ったらいいなと祈るだけだ。祈りゲー。

爪がキーボードに当たって打ちづらい。切るか。乳児も爪切りをするのかな? 気になることがたくさんある。

今日は疲れがひどい。なんか映画観て寝ようかな。

森井勇佑監督の『こちらあみ子』を観た。今村夏子の原作を読んだことがあった。”風変わりな”女の子のあみ子の生活が、母の死産やいじめ、家庭崩壊などで破綻していく。小説で読むのと映画で観るので、感じ方があまり変わらなかった。あみ子の無垢な視点をいかに描くか、それと周りの環境とのずれをいかに描くかみたいなところが肝心だと思う。その操作が、小説も映画もどっちもすごかった。

いま「無垢な視点」と書くのに罪悪感があった。”風変わりな”というのは、身も蓋もない言い方をするならある程度の知的障害か発達障害とみなされるレベルのものだ。あみ子は何年もずっと好きでいつづけたのり君の苗字を、中学生になるまで知らないでいた。あみ子にとってのり君はのり君でしかなかった。他の子の存在は気づきすらしていなかった。まぶしいほど無垢だ。それが愛しくて仕方ないわけだけど……それを愛しいと思う僕の心は、あまりにも無垢とは真逆の態度な気がする。僕はどういう風にこの作品を受け容れればいいんだ。作者は○○障害といったレッテルを回避した。その態度にならって、すべての感じ方・世界はとらえ方はグラデーションの上にあると考え、僕もあみ子の視点に重なる部分を感じ、自分の中にある無垢を見出すべきか。それともより批判的に、あみ子にあのような運命をたどらせてしまった家庭や環境のあり方に、現実的な議題を見出すべきか。

どっちも違うな。僕はほとんど無垢ではない。むしろ僕はあみ子じゃないという現実の方が痛いほど胸に響く。そして、あみ子の人生に、何か象徴的・問題提起的なメッセージを見出すことも、気乗りがしない。今村夏子の小説は”普通じゃない”人とその周りのずれをよく描写するけど、そこに痛烈な叫びは見あたらない。ただ「そのような人が、いる」ということを淡々と書く感じだ。

目下の感想としては、僕はさっき兆した「無垢なものを無垢と言う罪悪感」を、感じ続けることにした。こういう気持ちが、ある。ということで。

爪、結局切るの忘れた。映画観て爪切るのを忘れる人が、いる。そいつは今から、寝る。