滝も登れるはず
14時に起きた。回復に必要なだけたっぷり寝た。
全身がよそよそしくなっています。昨日のダンスで普段使わない筋肉を酷使したのが効いている。一回でこれほど消耗してしまうようだと、今の僕には体力的に負担が大きいかな……と思う気持ちもあるけど、とりあえず向こう2ヶ月間は好きな日に好きなレッスンを受けられる状態なので、続けるかやめるかの判断は、今しなくていいか。
初めてのダンスレッスンはものすごく難しく、面白かった。僕は運動神経がよくはないが、多動的なところがある。癖のようにボールを手と胸のあいだで転がしたり、手首をクネクネさせて物のラインに這わせたり、目に入った川をジャンプしたり、錠剤をまぶたで持ち運んだり。そんな感じで意識的にも無意識的にも身体を動かすことには興味があったし、なんならこの天然の多動性に「僕ってダンスのセンスがあるのでは?」とすら思っていた(愚)。
実際は、レッスンはぼろぼろだった。ダンスの要求する動きは非常にアカデミックなもので、そもそもそれなりの筋肉量と体幹に関する理解が無いと、やろうとしてもできなかった。先生の動きを見て真似しようとするのだが、自分の身体はそのようには動かなかった。僕のやってきた多動的な身体の振る舞いは自由な動きでもなんでもなく、自分の少ない筋肉でできる楽な動きを「癖」として染みこませたものでしかなかった。僕の身体は今まで、延々と九九の暗誦だけこなれた手つきで繰り返していたようなものだ。知識はそこでストップして、先にある割り算のような新しい学びへとは進んでいなかったのだ。ダンスの習得はむしろ、自分の身体に染みついた「癖」にいかに自覚的になり、それを解体できるかの闘いだった。
ダンスってちゃんと難しいのだ。でもそのことがうれしかった。ダンス文化に蓄積してきた技術体系は、一朝一夕でたどり着けない身体への無数の洞察を含んでいる。学びがいがある。僕の身体はもっと面白くなれるってこと。うれしいことだ。もっと筋トレして、重心の位置に気を配って、裏拍をとらえて、反復練習しないと、僕はたとえ言葉で理解できても踊れないようだった。
レッスンの最後では復習用に自分の動きをスマホで撮るのだけど、その動画をあとで見返して驚いた。自分がすごくやる気なさそうに踊っているように見えたのだ。真剣にやってたのに。肘から下がぷらんぷらんしてる。頭で考えるとわかんなくなるからリズムをとらえて楽しく動こうとしていたのだけど、その結果身体が無意識に楽な姿勢を選んでしまっていたんだな。全体に脱力感がすごく、やる気が感じられない。周りからはこう見えていたんだ。おもしれー。おかげさまで、全身筋肉痛だ。
レッスン終わりに「今すぐ入会すれば、入会金免除および体験レッスン料のキャッシュバック、さらには一回レッスンを無料で受けられます! いつでも辞められるので、一度お気軽に入ってみては?」と言われた。僕は汗だくで「わかりました」と言った。入会してしまった。
入会手続きの担当者に「美大通われてるんですか?」と訊かれた。彼も美大の学生だった。彼は幼少期からこのスクールでハウスダンスを習ってきたらしい。僕もジャンルとしてはハウスが気になっていますと言うと、おすすめの講師やレッスンの枠を紹介してくれた。「この先生は、ハウスの中でも他のジャンルの動きを取り入れて面白くしていて、教え方もすごく優しいですよ。こっちの先生は、落ち着いた動きが多くて、スマートな表現が好きならおすすめです」など詳しく教えてくれた。「いや~ハウス、いいですよね~ハウス。振りを覚えるんじゃなくて、その場で即興で気持ちいい動きをするのが、自己表現って感じで。ハウスってやっぱいいですよね~ハウス」ハウスが相当好きらしかった。
昨日はそのような感じだった。
起きたので、開発を始めよう。

switchってこんなふうに式で書けたんだ。
数日前にDiscordで責められていた人から、今「2度とその顔見せんな」と言われた。僕はコーヒーを淹れた。飲んで心を落ち着けた。僕も僕で来年度からは彼と関わらないよう席を変えようと思っていたので、ちょうど良いと言えばちょうど良かった。むしろ相手からこう言ってきた以上、向こうが席を変えてくれたり? ないか。彼の方が先に着席していて後から僕が来た場合、立ち退いてはくれないだろうな。引き続きイヤミを言われて疲れることになりそうだ。やっぱり僕のほうが席を変えよう。なんでこんなくだらないこと考えないといけないんだ。ゲーム開発するぞ。

今日やったことは、基本のシステムづくり。部屋に正解の道と不正解の道を紐づけ、正解不正解それぞれの遷移を作れた。
構造体をクラスの外側で定義するか内側で定義するか、あるいはそもそも構造体じゃなくてクラスで定義するとか、それぞれのメリット・デメリットを調べていたら、そこから派生して様々なソフトウェア開発の原則(単一責任原則とか)が気になってきて、調べごとが楽しくなってしまった。自分の書いたコードを「善くする」もしくは「美しくする」工夫を凝らしたり、あるいは「善さ」と「美しさ」のトレードオフで悩んでみたりなど、プログラムの楽しいお勉強ができた。そのせいか(そのせいだ)ゲーム自体の開発はそんなに進まなかった。こういう学習フェイズでちんたらやっているの、良くない気がする。でも自分は、こういった作業過程で出会う学びの喜びが、大いに創作活動の燃料になってくれていると思う。今日は寄り道した自分を、あんまり責めたくないな。ゲームジャムのような緊迫感で作業に向き合っていると、今の自分は壊れそう。
ゲームジャムは、多くのゲーム開発者の共通感覚として「良いぞ」とされがちだ。学びの密度、短期で完成して形にするための工夫や軌道修正、時間との戦いのなかで高揚する意識が思わぬ発想を引き寄せたりなど、ゲームジャム体験が与えてくれる様々な恩恵は、たしかに僕も身をもって知っている。でもゲームジャムとは異なる、時間に追われない大らかな作業プロセスの中でしか得られない開発精神や知識みたいなのもある。と思いたい。先日爆死した3日間のゲームジャムで、時間に追われる状況による計り知れないストレスにすっかり打ちのめされたので。
とはいえ、一切タイムマネジメントをしないのもよくない。ゲームは、完成させる気がない限り永遠に完成しない。いずれはプロジェクト全体にわたるスケジュールを見渡す大局観を身につけないといけない。ただ、今の僕はそれをする精神的余裕がない。まずは毎日PCの前に座って、継続的に開発をする習慣をつけてからの話だ。まだ、自分の一日の過ごし方に対してケチをつけたくない。
早朝4時。また起床サイクルが太陽とすれ違う形になってしまった。これを維持し続けていたらきっと鬱が悪化するので、何とか少しずつ睡眠時刻をずらして、太陽を拝めるサイクルに戻さなきゃ。僕はこのような段階なのだ。
もうちょっと進めよう。やることたくさんあるけれど、どれから手をつけたらいいのかわからないな。タイトル画面からゲームを始めていく遷移を作るか。ゲームの最初から終わりまでの流れに寄与する実装を優先的にやっていけばいい。

タイトル画面からの遷移をつくれた。

今まで複数のシングルトンがあるとき、それらを参照する各スクリプトの冒頭で毎度毎度シングルトンの数だけ宣言と定義をしていた。今回は基底クラスを作って、各スクリプトでは継承だけすれば宣言も定義もしなくて済むようにした。効率化の喜び。デンパトウの時にこのやり方を実践していれば、いったいどれほどの時間が節約できたのか。デンパトウを開発していた時期は今より知識も思想も未熟だったので「クラスを自作するなんて、畏れ多い……」と思考停止して、泥臭い作業を受け入れてしまった。デンパトウのときの開発よりも意識的に、未来に発生する未然の面倒くささを省くために、今面倒くさい作業をする。カッコイイです。カッコイイ!
寝るか。