つづりかたのつづりかた
寝ていない。起きている。寝るのは正午を過ぎてからだ。お餅食べてから寝ようと思って、待っているのだ。ここ最近はなんとなく15時〜17時に起床するサイクルが安定していたけれど、明日からはもっと目覚めるのが遅くなりそうだ。このような時期は、入眠時刻をなるべくばこばこと大股で後ろ倒しにしていって、早めに活動時間を日照時間と合わせたい。起きるのは苦手だけど、寝ないのは得意だから。こういう調整はできる。
もう睡眠薬さっき飲んじゃったから、うつらうつらしている。コーヒーを読みながら、買い物をしに外に出たら。

午前のひざしが面白い。夕方の光は、冬は特に一刻を争うので、午前の余裕のある感じがうれしい。

炎天下で困りたい。ぜんぜん馴染みのない土地の、照りつける日射をアスファルト越しに見ながら、わからなくなりたい。どうして俺はここにいるんだっけって思いたい。家への帰り方も複雑すぎて思い出せないくらい、遠くで困りたい。コンビニを見つけて飲み物を買って、縁石に腰掛けて一人で、途方に暮れたい。視界には入らないけど高速道路の気配があって、急な山肌を隠すコンクリート(「のりめん」と言うらしい)の壁の隙間からは細長い雑草の緑が飛び出していて、僕はそれを見て、それと自分の無関係さに果てしない思いを感じて、汗が垂れて、困る。
日記を遡ったら、2024年7月27日に多摩湖の周りを歩いていた。あの日は37度だった。今その日のことを思うと、あこがれる。

小さいショッピングモールの椅子に座って日記書いている。ここに来るまでの道も楽しかった。駐車場を通るたびに、看板を熟読した。僕はわりと午前に街を歩いて看板とか見てるだけで、満たされる。知らない場所に行けば、一日満たされる。こういうのだけで、僕の人生、回りそうだな。どのショッピングモールの椅子にも、半分お地蔵になったおじいさんが佇んでいる。たくさんいる。それぞれの姿勢(それぞれにとってもっとも楽な姿勢)で、並んで座っている。僕ってゆくゆく、あれになるんだな。

今は寝るまでの時間稼ぎのような時間なので、隠居みたいな心持ちで街を見渡して幸せな気分に浸っていられる。でも大抵の時間はこんな制約のない精神状態ではなく、社会に駆り立てられて焦らされている時間の方が多い。それをどういなしていくかが当分課題となるだろう。
炎天下に倒れることが幸福なのは、社会に駆り立てられていてこそかもしれない。何にも追われていない、自由な心の僕が、夏空で立ちくらみしていても、テーマがない。想像がつかない。切実に求めるテーマがない者の生活って、綴れるのだろうか。西村賢太の小説の景色が眩いのは、やっぱりかけがえのない欠乏があるからなのかな。食べて生きるために必要な手続きが果てしなく面倒で、快楽や恋を求めようなら自分の手で自分の手を掻きむしるようなことしかできない絶望、そんな欠乏に満たされた状況だからこそ、景色が輝くのかな。
フラットな観測者みたいな立場で世界各地を探訪して巡るのはどうなんか。ありなんか。
僕にとっては無いんだろうな。日記に書いていること自体が、僕の一つの切実さとしてあるから。フラットな観測者は日記を書かない。

割れた三角コーンの写真を撮ったのは、割れていたからだ。割れていないと三角コーンの写真を撮れないくらいには、僕の感覚は錆びていることがわかる。人々が物語を求めることにも合点がいく。
帰宅して、丸いお餅を食べた。
室外機が部屋によってあったりなかったりするマンション。が、いいなーと思っている。人と話すことや、インターネットには、今はあまり興味がない。
起きたらユメギドつくろー。明日はエクセルでの作業を主体として、かなり確定していく。ゴリゴリを、より細分化できるかもしれない。
寝る。