おもしれー親友

ブラシが毛でてんこ盛りになっている。猫をブラシで撫でているとき、あまりにたくさん毛が抜けていくので、これ止めずに続けたら猫は減り続けていずれゼロになり、僕の持っているブラシが猫になっているのではと思う。もしそうなったら、移動させただけじゃん。猫が消えたところに見知らぬブラシが一個残ってたら面白い。
さっき、祖母に対してグワアアアと声を張り上げてしまった。その怒りのまま、壁を穴が空くまで蹴ろうとしたけど、やめた。その後しばらくのあいだ、被害者感情でちょっと不貞腐れていた。でもやっぱり生きている人に怒鳴りつけたのはNo Goodだなと思い、謝りに行った。僕は祖母に「さっきは大声を出してごめん。約束したことをまた破られたと思って、自分が馬鹿にされているような気がして、感情が一瞬めちゃくちゃになって、反射的に叫んじゃった」と言った。祖母は「そう言ってくれたら私も浮かばれるわ」と言った。
自分が不服に感じたことについて、それを癇癪とか器物損壊などのフィジカルな方法で相手に訴えようとするのは、人付き合いの持続可能性の観点で良くない。怒鳴られた側からすると、怒鳴られたこと自体が強烈な印象として残ってしまい、主訴が見えなくなってしまうからだ。「そうか。私がしたことは、相手を怒鳴らせてしまうくらい良くないことだったんだな」とはならない。むしろ何がトリガーとなって怒鳴りだすかわからない得体の知れない獣だという印象が強化されて、コミュニケーションはよりこわばっていく。また似たようなエラーが続くだけだ。その応酬が続けば、関係性の歪みは大きくなっていく。
「私はこのような仕組みで感情や行動がおこるんです」と、自分の言動を相手が理解できるように、積極的に内側のシステムを明かしていく。この態度が誠実さの条件のひとつに思える。相手が同じ誠実さを返してくれるかどうかはガチャだ。囚人のジレンマみたいだけれど、「いつどんな反応をするかわからない」暴力的な態度で自らの望みを通していく立ち回りによって得られる喜びは、お互いに尊敬しあう関係性がもたらす喜びを上回るほどポイントは高くない。だから、相手が誠実型だろうと不誠実型だろうと、自分は誠実型であることを貫くことが、理に適った立ち回り(※※※※※)なのではないか……。僕と祖母は、二人とも不誠実型の態度を譲らず、共倒れを繰り返してきた。長い時間かけて、お互いの不信感ばかりを強めて来てしまったと思う。僕もたいがい自己開示をさぼっていたなと気づいて、最近はすこし目を合わせて、思っていることを話すようになってきている。それだけ衝突する頻度も高いけど。
(※※※※※(重要すぎて五個つけちゃった))理に適ったと書きつつ、これは半ば理想論のパターン構築かもな……とも思う。学校や職場での人間関係など、容易に関係を解消しにくい環境で誠実一本槍で行くのは、時に危ないかもしれない。信じられないくらい悪性の不誠実人間って、たまにいるから。そのような者に良いようにボコされ続け、ポイント稼ぎの肥やしにされるみたいなことが、ありうる……。そういうやるせないことは、起こる。そのやるせない下振れを秘めた人間関係の最たるものが親子だろう。自己分析や内省の甘い親が、自分の情動システムをブラックボックス化して暴力的なアウトプットを子にふるい続けると、子供は世界がどのような仕組みで成り立っているのか、理解しづらくなってしまう。親からは容易に逃げられないし、接する時間も多いから、いつしか誤った世界観をインストールして、明後日の方向に”理解”してしまう。そのような子は、長めに苦労する。誤った世界観を解体する機会のないまま社会にエントリーした者が、たまにいる「信じられないくらい悪性の不誠実人間」の正体かもしれない。彼らがなるべく早く良いきっかけに巡り会えたらいいな、と思う。
僕は今まであまり金持ちになりたいという欲求が無かったのだけど、お金が無いと募金もできないことに最近気づいて、それからちょっとお金のことが気になる。最近複数の知り合いがたまたま同時に被災地や戦地に募金をしていて、それを見て焦った。「僕はまだ自分のことに精一杯だ」とか言ってる場合じゃないかもしれない。僕は、親から虐待やそれに類する毀損を受けたりとかで、教育や生活に困難を抱えているような子供に、分けられるくらいの財産を得たい。
あー。
それなのに俺は
俺は、ゲームを一向に完成させず、快活CLUBに9時間滞在してベルセルクを読んで、ことが、急に、こんなことを自虐することしかできず、できずて、できずとか言ってまた自分で行動範囲狭めて、規定してなんなんなんだよ!
まあ、自分のペースでいこうかな。

腐れバナナ野郎。

君のことじゃないよ。ごめんね。
昨日の親友との会話の続きを書きたいと思ってたんだ。なんだっけ。僕が親友に「精神科行けば?」と言ったんだった。親友相手でなかったらめちゃめちゃ不躾だな。いかんせん、彼の話す悩み(らしき憂い)に対して、僕が提示できそうなカードが「病院でお薬をもらう」くらいしかなかった。僕は自分がお薬人間のため、普通の人よりも精神医療信仰の気が強い。ポジションありきの偏向意見を言ってるな〜という自覚はあったけれど、まあ人は自分の知っていることしかアドバイスできないので……(もっとも「俺がアドバイスして親友の人生を悩みから救おう!」みたいな大それたモチベーションがあって言ったわけではない。本当に真剣に精神科に行かせたいと思ってる人に対して開口「精神科行けば?」とは言わない)。
親友は、自分が精神科にかかったり心理カウンセリングを受けるのは違う、と考えているようだった。彼は「精神科って、病んでる人が治しに行くところだと俺は思ってるんだけど。俺は悩んでいるだけで、病んではいないから」と言った。僕は「じゃあカウンセリングは? カウンセリングは具体的な病気が無くても受けられるよ。保険適用外だから、整体やマッサージの精神版みたいなもんで、気軽に受けていいと思うよ」と言った。彼は「俺の悩みはカウンセリングに行かなきゃいけないようなものじゃないんだよな。俺は、自分の悩みの解決策はもう分かってて(解決策:自分の子供を持つために行動すること)目的地への航路は分かってる状態なのね。でも、進むべき方向はわかってるのに、どうしても船が進まないことに困ってるの。進もうとしても、進めない状態なのね。この違いわかる? 伝わってるか?」「なんとなくわかる」「精神科やカウンセリングにかかる人というのは、病気とかでその船のさ、コンパス? の針が壊れちゃってる人なんじゃないの? 針が変な方向にぶれちゃって、進むべき方向や目的地がわからない人のために、コンパスを正してあげるのが精神科医の仕事なんじゃない? だから俺は病院に行っても解決しないんだよな」
船の比喩を訊いて、親友が想定している「精神医療とはこういうものだ」と、僕が実体験的に把握しているそれとの間に、ギャップがあるなと感じた(僕の把握もn=1での理解でしかないし、カウンセリングは大昔にちょっと受けただけなので、僕の理解の方がより実態を捉えているという保証はない)。僕はそのギャップを船の比喩に則って伝えたいと思いすこし考えたけど、すぐには思いつかなかった。
親友が自分に精神科は必要ないと考える理由は、もう一つあった。彼はよくこのような感じのことを言った。「自分が変わるのが嫌だ。薬って飲むと別人になるじゃん? 意識の連続性が途切れて、別の性格の自分になるのが受け入れられないんだよな」この自己の連続性の途切れは精神薬、とりわけADHDの処方薬についてよくある議論だ。人によっては「自分が死ぬ」とすら感じることもあるだろう。Dr林のこころと脳の相談室の【3868】が昔Twitterでバズったのが流れてきて印象に残ってる。
僕は彼に「べつに薬じゃなくとも、新しいコミュニティに入ったり、新しい体験をしたり、新しい人間関係を築くことだって同じように自分の意識の回路が変容するわけだから『別人になる』って言えるんじゃない?」と訊いた。彼は「コミュニティとかは、入ってみて馴染まなかったら選ばないこともできるじゃん。その選択ができているところに”俺”は連続的に存在しているから、大丈夫と思う」と言った。僕は「俺の実感で言うと、精神薬もODしなければ、君が思ってるほどそんなパキッと突然別人になるわけじゃないよ。効いてるんだか効いてないんだがわからないものもあるし。正直気にしすぎだと思う」と言った。たしかにコンサータに関しては効き目が千差万別だし明確に頭が冴えるので、人によっては親友の言うように実存的な違和感をおぼえることもあるだろう。でもそれが耐えられない人は、別の薬に変えればいい。処方は少量から始めて徐々に増やしていくし、飲むことのリスクがメリットを上回る場合は適宜処方中止して、他に合うものを試していくのが普通だ。僕はやっぱり、薬を飲むことと新しい友達ができることの何が違うのかいまいちわからない。
ただそれは、僕の方が薬を飲むのに躊躇なさすぎという説もある……。書きながら考えてるけど、僕は二つの理由で薬を恐れていない。
一つに、僕は親友の言う意味での「自分」というものにあまり興味がない。「今からあなたの自己意識を断絶させるので、いったん存在論的に死んでもらいまーす」と言われても、はーいって思う。次の瞬間には別人として別のことを考えるわけだから、どこに怖がる要素があるのかわからない。怖がりたくても怖がる自分はすでに死んでいるので、怖がれないのでは。やれやれ、みんな流れる情報思念の澱みに過ぎないくせに、一体何を恐れているのだか……というラディカルバッテリーズフライドが、まず直感的なところにいる。
しかし、自己意識みたいなものに執着ない直感がある一方で、僕は別のところ、直感よりは処理順の遅い、もうちょっと考えている部分では、むしろめちゃくちゃ「自分」という存在を強く定位している。この「自分」くんは人生をずっと共にしてきたので、よくわかる。ただ、これが二つめの理由だけど、こいつはむしろ「自分」であることを辞めたがっている? のだ。僕は子供時代に愛着形成に失敗して自他境界がガバガバな青春を送ってきたので、この「自分」はものすごい自意識過剰で何でもかんでも自己嫌悪につなげて自分の首を絞めようとする。自分で自分を否定する癖が出来上がっている。自他境界が曖昧なために、他者からどう見られているかで自分を評価しようとするし、評価をつけないと自分の存在を見失いそうになる。また、これも自他境界が曖昧なために、自分に利する方向に他人をコントロールしようとする癖がある。コントロールできると思い込んでいるゆえ、色々と躊躇いがない。などなど……などです……。よくある話だ。自己愛がとても強く、自分を大事にしないことにも長けているのだ。文にすると矛盾しているようだけど、水商売に自分の身体を使ったり、何かに依存しがちな者の人格形成としては、標準的な仕上がりだと思う。SNSで病みがちな人も、おおかたこんな感じだろ。自分のこと好きすぎて自分のこと殺したいのである。このような意味で、やっぱり僕は「自分」が変わったり消えたりすることを恐れていない。
でも? ん? ちょっと違うかも。二つめに書いた理由は、自分を痛めつけるのに躊躇がないと言っているにすぎない気がする。自傷と自殺願望は違う。自傷癖のある人は、むしろ現実感(自分が今ここにいる感)を求めていて、現世から離れてしまう死そのものはむしろ恐れているイメージがある。だから↑の考察は、「自分」がいなくなる(意識の連続性が途絶える)のに躊躇がない理由にはならないかも。自殺願望はもっと疲れた状態から来るもので、「自分」が定位される程度にエネルギーがあるなら、なかなか自殺願望には至らない気がする。死にたいという感情は、正規ルートの思考で導き出されるものではない。話がぶれぶれになってきたけど、このパラグラフで言いたいことは、「『自分』は死にたいとは思ってない。やっぱ死にたくないかも」ということだ。
あと、一つめの理由についても。「次の瞬間には別人として別のことを考えるわけだから、どこに怖がる要素があるのかわからない。怖がりたくても怖がる自分はすでに死んでいるので、怖がれないのでは」という考えは、まるで急降下中のジェットコースターで毎秒「今俺はこの高さのところにいるだけだから、何を恐れる必要があるのかわからない」と言うようなものだ。それはたしかに変だ。連続的な動きのさなかで、人は微分係数にびびることができるのだ。とはいえ、これについては、僕は本当に直感が恐れていないので恐れていないと言い張るしかない。でもこれからすこし怖くなるかも。
そしてまた掌を返すようなことを書くが、最新のトロヤマイバッテリーズフライド状況はまた話が変わってきている。↑でごちゃごちゃ考えていた「自分」くんは、認知行動療法のセルフ適用によって、ほとんど解体されかかっているのだ。解体されるとは、死ぬとか消えるというのとは違う。客体化され、主人公じゃなくなるのだ。なので、やはりそういう意味で……もはやどういう意味か僕もよくわかんないけど……僕は自分がいなくなること、別人になることを恐れていないのだ。「われ思う、故にわれあり」派から「無我」あるいは「無為自然」派に転向した感じ……と言っていいのか?
なんかすごい書いたな。まとめると、2025年の僕は「薬によって自分が別人になることを恐れていない」とは言えない。でも「薬によって自分が別人になることを恐れている」とも言えない。なぜなら「自分」という存在をさほど重要視しない立場にいるからだ。僕は「薬によって自分が別人になる」という文の意味を理解しないのだ。ウーム。書けば書くほど、まだ書ききれていない感じがする。すごくいいね……。
でそう、話戻すけど、僕は親友にこう言った。「そんなに自分が別人になるのが嫌なんだ? 自己意識に執着するのってむしろ病んでる人、それこそ俺みたいな、が多いイメージあるんだけど。そんなことない? 君って結構サッパリしてる方なのに、そのわりに”俺”に固執しているのが意外な感じするんだけど」すると彼は「その固執は、もう宗教みたいなものかな。俺はこの宗教で行くって決めた感じ」と言った。
僕が彼に「精神科に行けば?」と言ったのは、親友は明らかに発達障害傾向があるので、精神科を受診して自分のことを話せば、ほぼ確実にドパミン関係の薬を処方してもらえる(認可されてるクリニックなら)と思うからだ。もちろん僕は医者じゃないので「お前は発達障害だ」と言う権利はないが、だからこそ精神科に行ってみてほしいということでもある。「お前は発達障害かもしれないから病院へ行ってみてほしい」と言う権利はある。明らかに呂律が回ってないのに本人にはその自覚がなく普通に喋っているつもりの人がいたら「あなた脳卒中かもしれないから今すぐ病院へ行ってください!」と助言すべきなように(権利どころか、責務?)。彼は今まで支障なく社会生活を送れてきたので、取り立てて診断や処方を受ける必要はなかったけれど、まさに今「子どもを授かるために行動すべきだとわかっているのに、行動できない。このままでは虚無の未来に包まれて、俺は終わる」と「悩み困っている」のだから、精神医療にかかる十分な正当性はあるはずだ。そしてクリニック教徒の僕としては、「行動すべきだとわかっているのに、行動できない」なんてのは、ドパミンを補強すればただちに改善しそうな話じゃないか? と思ってしまうわけ。
というか、そもそも誰だって「自分は精神病かもしれない」と言って来院することは許されているか。じゃあ親友は、自分が「自分に精神科は必要ない」ことの理由づけのために弁を弄したことについて、そこに何か固着した価値観あるいは思考パターンがあったかどうかを疑ってもいいんじゃないか。誰だって何か不合理な前提に囚われて思考をしているので、その前提がどんなものかについて思考をしてみる(自分が採用している宗教について、言語化して把握する)のは良い体操になりそう。僕が彼についてよく思うのは、彼は自分のことを語るとき、やけに自分の言うことに確信を抱きすぎているように見えるということだ。「俺ってこうなんだよな」という自己分析を、まるで「岩って硬いんだよな」くらい普遍的事実のようなトーンで言う。それが、なんか、おもしれー。自分については隅から隅まで知り尽くしていて、これ以上知る由がないぜ! みたいな気迫がある。まだ自分の知らない新しい概念を知ったら自己理解もそれに伴って更新されるはずなのに、それを信じていないというか。知らないことに対するリスペクトの無さが強烈なのだ。以前その性格について訊いてみたことがあって、その時はたしか「俺は狭量じゃなくて、むしろ謙虚な方だよ。俺はつねに反論されるのを期待してるんだよ。自分の考えを滔々と述べるのは、相手から言い返されてそこから議論を通じて新しい気づきを得ようとしてるから」みたいなことを言っていた。ウーム。たしかに彼は、謙虚といえば謙虚な気もするな……。僕は、彼の言葉の端々から感じられる変にこだわってる感じの思考パターンは、僕が親友だからこそ気づける彼の発達障害傾向のしるし(の一つ)だと思っている。けれど、もしかしたらそれは僕が親友だからこそ陥った妄執的な分析で、本当におもしれーかったのは僕の方だった、というオチもありうる。
ちょっと眠すぎて、もう書けない。本題を書けてないんだけど。嘘だろ、昨日親友と電話したことの思い出話が、まだ書き終わらないのか?
僕は、船の比喩について書きたかったのだ。それが一番、日記に書き残したいトピックだったのだ。
船の……比喩にわ、、、ついて……本当に
船の比喩を訊いて、親友が想定している「精神医療とはこういうものだ」と、僕が実体験的に把握しているそれとの間に、ギャップがあるなと感じた。
僕は本当は、これについて書きたかったのだ。親友が言った船の比喩に則って、このギャップを説明する方法が思いついたので、それを書きたかったの。自己の連続性云々は、サブトピックにすぎなかった。それなのに。
でも眠くて無理。今日、なんだったんだ。書いてたら終わってたんだが、ゆか
今日誕生日の人には、たいへん申し訳ない。
すえおそろしい。一日の短さ。眠くて続かざるを得ないです。、、やら湯、ユメギド。