it’a true wolrd.
1999年 生まれた
2000年 特に何もなかった
2001年 千と千尋の神隠しが公開された
2002年 特になかった
2003年 一番なかった
2004年 記憶はないけどなんかこわい
2005年 他の幼稚園生が馬鹿だった
2006年 つぼいえなちゃんは隣の席だったはずだが、前の席にいたつぼいえなちゃんの背中にゲロを吐いた
2007年 世にも不幸なできごとを読んだ
2008年 家のテレビが液晶になった 少し遠くにあるショッピングモールや、少し遠くにある体育施設、少し遠くにある自衛隊駐屯地、少し遠くにある中学校などが気になった
2009年 つかさくんのポケモンレンジャー盗んで全クリした
2010年 姉が家からOUTした 猫がINした
2011年 東日本大震災にびびったのと引っ越した 初めての大阪は雨で、親友ができた
2012年 中学生になりヤンキーの存在にびびってた
2013年 進撃の巨人がめちゃくちゃ面白かった 毎日ニコ動見てた
2014年 世の中がネタだらけだった 引っ越しと失恋と反抗期でごちゃごちゃしてた
2015年 高校が楽しすぎてびっくりした 最初の数学のテストで0点取った
2016年 苦労が無さすぎて人生を舐めていた
2017年 名作アニメが多かった 勉強を頑張っていた
2018年 大学に入学し、大学に行かなくなった パンの田島で本読んでた
2019年 Twitterの面白さがピークを迎えた 休学してパンの田島で本読んでた
2020年 パンの田島で本読んでた 焦ってウーバー配達員になった
2021年 美術予備校通いながら鬱になってた パートナーできた
2022年 美大入ってドキドキしながらゲーム作った
2023年 ゲームクリエイターみたいな感じになって頑張ったが、実質そんな頑張ってなかった
2024年 いろいろ無理になって寝てた
2025年 寝ながらこの日記を書いている

14時に起きた。すごく気分がよかった。こりゃ散歩行けるナリと思って、美味しい朝ごはんを食い、太腿の肉が昔に比べて張りがなくなった猫を撫でていたのだが、その時間にあまりに多くのことを考えてしまい、着替えに向かう廊下で寝込んでしまった。頭の中で日記を5日ぶんくらい書いた。穏やかな目覚めで玄関扉を開けるくらい軽くできそうな気がしていたので、薬も散歩の後に飲むつもりだったけど、そのように一日のプランを編成することがもはや僕の体質にミスマッチだなと思い、「つもり」はやめた。散歩は諦めた。薬を飲んだ。こんなことではユメギドの開発なんて夢のまた夢だ、みたいな心境でなかなかに絶望的だったけれど、「つもり」につながる思考はなるべく打ち消して、「どうしようもないぜ」という戦略的厭世観に心を漬けて外気に触れないようにし、僕は布団に寝そべった。考えごとをやめることだけ考えていたら、寝た。
16時半に起きた。あー、なるほど。すごく気分がいい。こりゃ、散歩もできるしユメギドつくれる。ユメギドつくりますかね。
コーヒーを飲みながら、一昨日「手伝って」と言ってきた祖母に対し「やらない」と突っぱねてしまったことを、祖母に謝った。まず仕事内容を聞いてから返答すべきだったことを反省していると言った。そのあと僕が「やらない」と言ったことについて、その日自分なりにプランを厳密に決めていたからそれを崩されることが嫌だったこと、前日に机を運ばされてその疲労で何もできなかったために力仕事に対して過敏になっていたことなど、いくつか理由を説明した。祖母は「そうや。わたしあんたに断られてホンッ!トに腹が立ったんだから」と怒りを再燃させつつ、僕の謝罪については受け取ってくれたっぽい反応をした。僕は誠実ポイントを得たぜと思った。

このスケジュール、どういう意味?
ごんぎつねがTwitterで話題に上がっていたのが気になって、青空文庫で読んだ。
そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
『ごん狐』新美南吉
「お前だったのか」と言われて、ごんがうなずくの、良いな~。
「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下さるんだよ」
「そうかなあ」
「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいいよ」
「うん」
ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。
『ごん狐』新美南吉
撃たれる前の節で、栗や松たけの差し入れは「神さまのめぐみだ」と兵十と加助が話している。それを盗み聞きしたごんは「引き合わないなあ」と感じる。ごんから兵十への差し入れは、いたずらへの贖罪や、兵十の母を悼む気持ち、独り身の兵十への共感などが理由で始まったわけだけど、習慣化するとこのように「引き合わないなあ」と濁った思いが湧くのも自然に感じる。でもその次の日も引き続き栗を差し入れに行っているのが健気なのだが、ラストで「うなずきました」としたところに、「自分が差し入れしていたことを知ってほしかった」という、ある種あざとい、生っぽい感情の存在の肯定を感じて、滋味があるなあ~と思った。人によっては「うなずきました」をキモイと思うんじゃないかな(僕は思った)。だからこそいいな、と思う。
物語ってさ? 登場人物に襲い来る運命に対して、その人がその喜びや苦難を味わうことを読者が納得できるよう、前後で細かなヘイト調整が行われますよね? その調整のおかげでうまく読めるときもあるし、明らかに調整が不適切であるように感じて、そこが発疹のように気になってしまう時もある。作者が行っている調整とは別に、鑑賞している僕の中でも個別に「因果応報度の計算」がおこなわれているのがわかる。ギブしたぶんのテイクを求めてしまう精神が、ごんと同じように僕もある。
関係あるようなないような話だけど、ディズニーの『ノートルダムの鐘』を初めて見たときの感情を覚えている。終盤、悪役のフロローが襲ってきて主人公は絶体絶命になるが、フロローが飛び乗った足場がたまたま崩れ落ちて死ぬ(あ、あの足場ガーゴイルだったのか)。そして物語はハッピーエンドに終わる。子供の僕はそれを見て「なんやそれ」と思った。たぶんジャンプ漫画的な思考で、主人公であるカジモドがいい感じに機転を利かせてフロローを打ち倒すみたいな構図を期待していたんだと思う。それなのに敵がバナナの皮に滑ったみたいな感じでリングアウトしたので、気持ち悪かったのだ。今としては、あの死に方はひじょうに納得感あるものだったと思うし、物理法則を超越する物語法則のようなものが、フロローの落下死を導いたことが自然に納得できる。あん? あと、「カジモドの方が塔の構造を理解し、塔の空間を自由に動き回れる身体を研ぎ澄ましていた」という意味で、バトル的な納得感も十分あったとも言えるか? どうでもいいけど。今思った。今思いました。また見よう。
実際のところ、納得感よりも「なんやそれ」と思う気持ちのほうが大事にしたい。湯加減が調整されすぎた作品は、作者と自分の価値観のマッチングに満足するだけの接待マッサージになっちゃうので、豊かとは言えないよね。純文学や不条理文学はこのへんをまったく接待してくれないので、読んでいて背筋が伸びる感じがする。あと古い文学や海外の文学は、当時/現地の文化的・宗教的基準にもとづいた因果応報計算がなされているので、現代日本人としてはギャップを感じて読みごたえがある。「?」としか思えなくて打ちのめされることも多いけど。カラマーゾフの兄弟を読んで自分がどう感じたのかといえば、ほとんど何も感じなかった気がする……。
作品における「善」についての話のつもりで書いてたけど、なななななななななななななななななかもしれない。
ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向ってかけもどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えました。
ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。
(中略)
「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし屋のやつに、ひどい目にあわされた」と、ぶつぶつ言っています。
ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんな傷までつけられたのか。
ごんはこうおもいながら、そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。
『ごん狐』新美南吉
ごんは兵十への差し入れに、最初は店から盗んできたいわしを贈った。でもそれは裏目に出たため、その後のごんは自分の力で調達した山の幸を贈ることにする。このくだり、ちょっぴし優等生ぶってやしねえすか? さすがの教科書適性を伺わせます! みんな気をつけろ(血)!
ゲーム開発しようよ!
―――大衆小説と純文学の違いは?
吉田鋼太郎が大衆小説で、リリー・フランキーが純文学です。
―――でもリリー・フランキー地面師たちとか出てますよね?
両者の区別は曖昧であり、簡単に線引きすることのできないものなのです。
―――大塚明夫は?
吉田鋼太郎です。
終わりました。
『検索してはいけない言葉wiki』が近く閉鎖するということを知って、別にもともとそんなに読んでもなかったのについ気になって、wiki内のページを丹念に読み漁ってしまった。危険度の高い順に読んでいった。やってることがインターネット覚えたての中学生。中東やメキシコの人が生きたまま皮を剥がされてゆくさまとか、想像するだけでも胸が痛くなるのに、それらを露悪的でナルシスティックに解説するwikiの説明文を読み込んだり、実際に検索してみたりした。そのたびに後悔した。今これを見る意味って、本当に無い。僕、なんでこんなことしてんだ?
人の死が、その前後の文脈を剥ぎ取られ、ただグロいことだけで訴求するコンテンツにされ陳列されていることが、もう笑えないし重すぎる。今はインターネットの形が変わっている。検索エンジンに文字を打って調べて出てきたサイトにアクセスするという行為に、現実世界を対置するオルタナティブな広がりは感じられないし、冒険や救いのようなものの気配もない。検索してはいけない言葉はもう要らない。電子の砂漠もない。「検索してはいけない」ことの神秘はもう寂れて、あとはただ現実と地続きの最悪が残ってるだけだった。
危険度5以上のグロ動画あるある、マチェーテ使われがち。
なんつってる間に8時すよ。あ〜あ。朝ごはん食べちゃった。
人として恥ずかしい。25歳で、ゲーム開発をさぼって、ごんぎつね読みながらグロ見てる腐れ野郎。どう頑張っても誉め言葉にならない。
日記を書いて、自分が本当に尊敬に値しない人間であるさまを晒している。現実が重たい。