意味なかったらすみません
起きて電車乗った。

LINEでお友達から写真が送られてきていた。「風情感じなかったらすみません」という奇異な予防線。どれどれ……トロヤは風情を感じるのか、感じないのか……。

感じまーす! イェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェーイェー
ほんとにトロヤさんが好きな感じの画だ。自分で撮ったのかと思った。最近リズムを崩しがちで散歩をしてなかったから、その栄養分が与えられた感じでうれしい。散歩のサプリメント。

渋谷に来た。知人のyさんとご飯。昨日会う予定だったが、コンディションが悪く一日ずらしてもらった。店の棚に『おおきな木』の英語版が置いてあった。村上春樹訳のやつが家にある。持ってきて、yさんに見せた。原題は『The Giving Tree』なんだ。個人的には邦題の方が好きだ。
一緒にページめくりながら読んだ。やっぱり素晴らしいな~。なんて良いんだ。悶えtyatta。僕はこの本のテクニカルな部分が好きで、木の持つアフォーダンスに対する焦点を、人間の一生と絡めて手前奥と操作していくストーリー構成がビデオゲーム的な発見があって面白い。その観点でいくと終わりかたがもうなんか、完璧以上なんだよな。泣いてしまう。
yさんは物語のテーマ部分に疑問符をあげていた。木が都合よく搾取されているみたいで、良くないものを感じちゃいますと言った。たしかにと思った。今読むと、少年に与えるばかりの木と、木から実益を得るばかりの少年という構図に、今でいうパパ活的な匂いを感じる。

このページとか惨いかも。パートナーに性処理の道具として良いように使われる人みたいだ。
見返りを求めず、ただ無償で与え続けるだけの存在と捉えると、木はとても徳が高いように感じる。子に対する親の態度は、この木のようであるべきだと僕は考えてしまう。しかし地の文はつねにthe treeがhappyかどうかも描出している。そこを追っていくと、この木が「他者に益を支払うことでしか幸福感を得られない」ようで、不健全で苦しくも見えてくる。そのような精神形成は貧しいし、与え続ける行為によってある種少年を堕落させているという見かたすらできる。実際、自らの心が満たされているかどうかを度外視して子に与え続けられる親などいない。親だって、子から栄養分を補給せずにはいられないのだ。木の生きざまに崇高さを見出せるかどうかは、現実のどの関係性と対比するかで大きく変わってきそう。
それでは恋愛、友情、親子など様々な関係性のあるなかで、ギブやテイクの重みをどう位置づけるべきか、人は幸福をどのように得ることが理想かを考えると、僕としてはネットワークを考慮することが不可欠だと思うので、『The Giving Tree』の二者のモデルでは答えを説明できない。そもそも、木が根を張った存在であり、動けないことが定点カメラ的な語りを作ってこの話を成立させているけれど、それ(動かない存在)って現実の何のメタファーになるんだろう。キリスト教会とか? あるいは、家で子供や配偶者の帰りを待つ親とかだろうか。むずい。
とか! 名作だなー!

美味しそうなハンバーグ。味つけのための調味料が三種類あったが、存在に気づかなくて何もつけずに食べちゃった。話に集中していて、味を覚えていない。2025年に入ってからまだ酒を一滴も飲んでいない。いいぞ。アルコール類を除外するとドリンクメニューを開いたときにアクセス可能な範囲がすごく狭くて、そのときに一番断酒の苦しさを実感する。だから、選択肢の狭いなかに「何県産の特別っぽいフルーツ」のジュースとかがあると、めちゃめちゃ嬉しくなる。産地が書いてあるだけで、胸が躍る。何県でもいいです。
近くのテーブルの客が離席し静かになったタイミングで、yさんが「ちょうどお客さん少なくなってきたので……言いますね……あー緊張するな―……」と言ってそわそわ動いた。そしてyさんは、自分には同性のパートナーがいる、ということを僕に言った。「yさんはゲイ? なんですか?」と訊いたら、yさんは「あっ、先に言われちゃいました」と言って、首肯した(日記に書いていいよって許可もらった)。
今日の席は、yさんが僕に自身のセクシャリティを明かすことが目的のひとつだったっぽい。彼は今まで他の人にはあまり言ってこなかったらしく、とても緊張していた。トロヤさんは日記の内容的に同性と付き合っていることが明らかだったため、僕に打ち明けてくれたみたいだ。「トロヤさんって全然隠したりしてないですよね。かっこいいと思います」と言ってくれた。セクシャリティを人に明かすときの緊張は、すごいわかると思った。僕は今でこそもはや誰にも隠していないけれど、中学時代に親友に伝えたときはすごかったらしく、親友には「お前あの時めちゃめちゃ声震えてて面白かったよ」と言われた。震えるんだよな。yさんも脇汗をかいて、トレインスポッティングの体勢でわしわし動いていた。
僕が自分のセクシャリティを隠さないのは、あまりそこにアイデンティティを感じていないために自分がどうこうというのをほとんどどうでもいいと思っているから、および、僕自身がいかんせん自分の性愛やパートナーに関する話をしたくてたまらないので、隠すほうが難しくなっちゃっているからだ。
セクシャリティについては、今日日それを理由に危害を加えてくる人は(僕の周りには)いない。十年くらい前まではまだ奇異に見る風潮があったし、僕も高校時代に仲の良かった友達に言ったら絶交されて悪口を回されたことがあったけど、困った経験はそれくらいだった。最近はことさら話題に上がることもなく、特に何も起きない。今は相手のセクシャリティについては断定しないで話すことがマナーになってきてる印象がある。yさんとは世代が一回り違うので、この感覚には違いがあるかも? いや、セックスや恋愛やパートナーなどについての話をするかどうかは、世代よりもコミュニティによる振れが大きいか。こういった類の話を当たり前にする且つ異性愛が前提とされたコミュニティに参加している場合、一旦カミングアウトという謎の儀式を挟まないと話に参加できないのは、面倒くさいっすよね。
ゲーム制作関係の人とは、あまりこの手の話をしないイメージがある。オタクだからか。オタクも多くは一般人(?)と同じくセックスも恋愛も好きだけれど、一般人よりもそれを当事者性と切り分けて話すのが上手いと思う。話し相手や自分の生身の属性には触れないまま、創作世界のエロとか観念的な恋愛観について語り尽くすことができる。彼らのそのような、お互いの境界を侵犯せずに性愛に関する交流を行うマナーは、めちゃくちゃ高度だよなと思う。コミケ等のイベントを訪ねると、ものすごいネチョネチョヌルヌルの表紙の漫画を並べているのに、その作者はまるでこんなもの知りませんけどみたいな表情でスーンと座っているので、いつもすごいなあと思う。僕はどうしてもその場面を見ると、なるほど、この人の頭の中はこのようにネチョネチョヌルヌルしているのですね……それはそれは……と思ってしまう。この感覚のギャップも、コミュニティによる違いなのだろうな。『げんしけん』を読んで何となく温度感がわかった。あと最近そのへんの友達もできた。今の僕はもはや何のコミュニティにも属していないっぽい感じなので、標準らしきものがもうないかもしれない。美大に在籍していることも大きいかもしれない? 性愛を作品のテーマにする学生は多いし、かつそのような人は既存のラベルで説明できないパーソナルを持っていたりするので。

なんにせよ、yさんが新情報を明かしてくれたおかげで彼のパートナーの話とか聞けて面白かった。会話中、yさんは立ち上がってお店の壁にあった鏡を見た。どうしたんですかと訊くと「笑顔が引きつってないか確認しました」と言った。
それから、自意識の話をした。yさんは最近それで落ち込みがちらしい。僕は自意識過剰のスペシャリストとして、yさんの話を聴いた。
「SNSでどういう内容を投稿をするか、語尾をどうするかみたいな細かいところで、周りからどういうイメージを持たれるかを想像しちゃって時間を使っちゃいます」
わかる
「知り合いのフォロワー数と自分のフォロワー数を比べて、コンプレックスに感じちゃいます」
わかる
「頭が良さそうな人と話す時、へたなふるまいをすると自分が馬鹿なことがばれて見下されるんじゃないかと気になってしまいます」
わかる
わかるな~
僕も昨年までyさんと同じふうに悩んでいた。2023年にDeath the Guitarが変に賞獲ったせいで「トロヤマイバッテリーズフライド……新進気鋭……才気あふれるクリエイター……」みたいな自己像ができ、それと現実の自分のスペックとの違いに、日々恥ずかし~と思っていた。実際の僕は、やる気なくてDeath the Guitarぜんぜん作ってないし、デンパトウもぜんぜん売れてないし。僕が思っているほど周りは僕に興味を持っていないのに、周りからの目線で自分の輪郭を明らかにすることでしか自分を確認するすべを知らかった僕は、無駄に苦しんでしまった。
今の僕がそのへんの自意識をかなり整理できたのは、2023年に長年の自意識の苦しみと忙しさの蓄積がピークを迎えて(就活を意識して自己像へのこだわりが強まっていたのもある)、うつ病になったからだ。お薬に頼らないとどうにもならないメンタルになったので、自己分析や認知の歪みの解体作業も、急ピッチでおこなう必要があった。2024年はそのためにさぼり倒して寝まくって、今の僕になっている。依然として生きるのには苦戦しているし認知はヤバイけれど、この人から見下されているんじゃないかとか、フォロワー数がどうだとか、ゲームの売り上げがどうだとか、社会的地位がどうだとか、センスがどうとか、頭の良さがどうとか……種々の「トロヤマイバッテリーズフライドって誰? 頭おかしいって本当? 才能はある? ない?」的な自意識過剰に苦しむことはほとんどなくなった。変な自意識を持たずさっぱりと生きているみなさんの頭の中がどうなっているのか、はじめてわかった。そして就活を諦め(ウワー!)、売れるゲームを作ろうとするのを諦めた(ウワー!!)。
yさんは、現時点ではものすごく病んでいるようではなかったから、僕のような思想の急旋回と諦めは要らないかもしれないし、無理のない範囲でフォロワー数や売り上げを意識した努力をできるかもしれないけれど、気づかない間に良くない思考の癖ができて何かをトリガーに急に身体が動かない日が来たりするので、気をつけてほしいなと思った。話していてそれなりに知っている脆弱性を感じたし、いわゆる同類みたいな人だぜと思ったので。僕が勝手に親近感を抱いてるだけかもしれないけれど、とりあえず僕はyさんをしくじった側から心配しておこうかなと思った。トロヤマイ老婆心……ちょっと偉そうな書きかたになってしまった……。

僕も知っていることと思っていることしか書けないけれど、過剰な自意識に悩んでいる人には、だいたい全部悩まなくていいと伝えたい。悩みがちな人は、周りからこんな人に見られたいという自己像にこだわるのはやめていい。自分らしく自分そのままを飾らずに提出するのが一番ヘルシーだ。それでさほど世に受けなかったら、ゴミめと思っておけばいい。自分の実力に不足を感じたら、いや無理なものは無理ですしと思えばいい。自分らしさを受け容れられず誰かに嫌われたり見下されたら、ウピョピョーイと思えばいい。
自分らしさを堅持した結果、お金に困ったら……それはわからないです……。ひとまず生活保護や障害年金は調べておくといいということと、あと生活費はその場その場の巡り合わせみたいなやつでなんかなんとかなるパターンもあるらしいです? すみません、本当にわからないです。経験不足なのと、僕は環境的にすごく幸運で恵まれている方だから、わかるふりはできないな。
適度にマス受けする自己像の創造や作品制作をストレスなくやれるバランス感覚とタフネスがある人もいる。彼らはフォロワーやお金を上手いこと稼げる。健康な状態であれば、悩みがちな人もそれを目指していいと思う。ただ、諦めるという選択肢はいつでもあるから、頑張りの途中で健康に不安を感じたら、一時的にでもウピョピョーイの状態に逃げ込むといいと思う、
思う、
これ、
自分に言ってるだけだな。
僕が僕の経験を通して見つけたprincipleを結果だけトリミングして書いても、他の人にとっては意味がないよな。各々が自分で納得できる経験を経て、自力で導出したものでなければ、principleはほとんど空虚だ。自己啓発本の本質的な中身のなさと同じだ。他人が他人のリアリティでたどり着いた人生訓を読んだとて、ぜんぜん役に立たないですよね。
そう、すね。意味ない すね
まあ
自分に言ってるだけでいいか。
自分が読むし。
。
ウピョピョーイ
缶