超人間空間デザイン論 三途のⅢ

17時に起きた。日が沈んじゃってる。
3年次の大学の成績が開示された。見た。唯一心配していた英語が取れていた。よかった。進級できる。計画通り、来年度はラボの必修授業だけになった。卒業制作に集中できる。理想的な単位の取り方だ。教職を取っていないしうちの学科はもとより楽とはいえ、1,2年のあいだに選択授業をほぼすべて取りきれたのは、我ながらえらい。僕は真面目なほうだと思うし、大学の授業も面白いものばかりでどのコマも熱心に取り組んでいた。しかしそのわりにはどれも出席日数がぎりぎりだったので、成績開示のたびに心臓が高鳴る羽目になっていた。
大学の授業、どれも面白かったな。現代美術、20世紀美術、西洋美術史、漫画文化論、サウンドアート、メディアアート、インタラクションアート、映像音響、電子工作、デザイン論、映画、情報システム、ゲームアート、詩、写真、色彩論、コミュニティやイメージの歴史的文化的考察とか、WebAPIとか……どれも面白かった。講評で講師から意見をもらうのも、他の学生が作った作品を見るのも楽しかった。美大に入り直したのは完璧な選択だったし、この学科を選んだのも正解だった。好きなことを勉強できるのってひじょうに恵まれたことだなと感じた。
面白いけど、地獄の授業もあった。1年次の英語だ。入学直後に英語の実力テストみたいなやつがあり、その成績に応じてレベル別の授業を割り当てられるのだが、僕は一番上のクラスに振り分けられてしまった。なまじ受験を二度経験しているだけに、高校英語は得意だったのだ。でも基本的にあほな美大生たちのなかで最上位のクラスに来るような学生は、そもそも母語が英語だったり帰国子女だったり教育水準の高そうな留学生だったりと、叩き上げ(?)の僕とは違うナチュラルな英語力がある人ばかりだった(ように、当時の僕には見えた)。
僕が受けた授業は、毎週異なる英語圏のアートやカルチャー関連の批評記事を読み、それを読解するというやつだが、まったく太刀打ちできなくて焦った。まず単語が知らねーし、文脈や前提知識が知らねーし、教養の高い文は文構造が複雑になりがちなのか、ポレポレみたいな文が続いて読解にも苦戦した。美術手帖みたいなアート関連メディア特有の、言ってるんだか言ってないんだかよくわかんないふわふわした言葉遣いがあったり、皮肉とかジョークみたいなものも入ったりして、こんがらがった。リルナズXに関するHIPHOPとセクシャリティをめぐる記事が一番わからなかったのを覚えている。文の教養レベルは高いが、HIPHOPの語彙や麻薬関連のDopeな用語、あとツイートの引用なども含んでいたので文法も壊れていたりして、インテリだけどカオスみたいな、本物のリテラシーが問われるようなテキストだった。僕は毎週あらかじめ通読してわからない部分には「?」マークをつけていたのだが、リルナズXに関してはすべての段落に「?」をつけた。
講師がパパっぽい人だったのが、未発達な当時の僕を余計に緊張させていた。授業中は巡回してよく覗き込んできて「調子どう? 見せてごらん。フンフンフン。おーすごいねここよくわかったね! 流石だね」などと言う。他の人が褒められると、相対的に自分が駄目な子みたいな気分になった。先生が僕のプリントを見て素通りしたり、呆れたりしたらどうしようと毎週恐れていた。幼稚園児みたいな精神形成だな。自力では太刀打ちできなかった僕は、英語が得意なパートナーのもとに毎週通い、あらかじめ全部解説してもらっていた。彼がいなければ僕は毎週、難解な英文テキストを前に手汗でプリントをぐっしょり濡らして固まる90分を過ごしていただろう。そしてパートナーという強靭な後ろ盾に頼っていたら逆に準備過多になってしまい、僕は毎授業ワークをオーバーキルし、講師から追加の問題を貰う優等生になってしまった。授業を一度でも休むと次週のプリントが受け取れず準備ができなくなるので、それだと優等生じゃないことがばれるので、いくら眠くてもこれには出席した。結局S判定を取った。今思えば、もっといくらでも手の抜きようはあった。毎週ヒーヒー時間をかけて人にも頼って準備して、パパからの期待に応えるために自分に鞭打つガリ勉だった。健気で愚かだ。同じく高校英語が得意だった友達は、初めの実力テストの時点でわざと低い点を取って、初級クラスの授業に行っていた。泣ける。でもまあテキストはどれも内容が興味深くて読み応えあったし、英語の鍛錬にはなった。
嫌いな授業もあった。チームでやるやつ全般と、立体工作。チーム制作は、僕に限らずチームメンバーみんな嫌そうだったな。発表の日に、一人は大幅に遅刻し、一人は最後まで来ず、一人は最初はいたのになぜか途中からいなくなった。すごかった。でも彼らの気持ちも大いにわかった。
立体工作は明確な苦手分野だった。木材を切るとか、アクリルを接着するとか、ドリルで穴を空けるとか、刷毛で塗装するとかが、できなかった。Ctrl+Zで戻らない作業が信じられない。友達に「なんでこんなこともできないんだ」と言われながらボンド接着をやってもらったりした。あと立体制作は、機材の音がうるさく、怖かった。木屑が出る機材を使う時は常にパイプ空調を回し続ける必要があり、ブォーンと騒がしい。自分が音を立てるならまだしも、背後の学生が急に爆裂な打撃音を立て続けに響かせたりするので、心が休まらなかった。みんな違う作品を作っているので、違うタイミングで違う音を出す。そして僕は道具類を恐れていた。木材カッターの刃の高速回転などは、見るだけで自分の指が切断されるような気がして直視できなかった。工作室って死に方が200通りある。レーザー加工機はときおり焦げた臭いが漂い、火災が起きてないかヒヤヒヤした。精密機器なので正しく使わないと簡単に壊れるのだけど、一度、前の使用者が適切に片付けなかったせいなのに僕の使用がトリガーとなってレーザー加工機が不調を起こし、研究室の人に必死に弁明したことがありストレスだった。他の美大生を簡単に信用してはいけない。そのような感じで、立体の授業は憂鬱だった。出席だけ取って、あとはキャンパスの散歩などをして、制作作業は自宅でやった。おかげでさぼることを覚えたし、向き不向きを自覚した。あ、あと立体は、作品プランを考える時に材料費も見ないといけないのが、苦しかったっすね。くだらない作品をつくるために5万円も使ってしまった。ここの店舗使うほうが安いよとか、運搬は人脈で何とかするといいよとかあるんだろうけど、そういうのも含めて苦手だ。
そのような、大学生活、回顧。楽しい三年間だった。苦しみの描写が多いけど、90%は楽しくて幸せな時間だった。図書館も好きだったし。昼休みはパン屋のパンを真っ暗で誰もいない講堂で食べていた。
回顧していたら、19時だ。大学はまだあと一年残っている。通わねば。こうして振り返ると、僕って本当に図体だけ伸びてて、心は幼かったんだなあ。三年間でものすごく成長した。
ご飯食べて、途中で終わってしまった片付けの続きをやろう。昨日の日記、なんかすご。
起き上がれないなーと思ってたら、祖母が扉を開けて、あんたどうしたのよと言った。「ご飯食べたくないの?」「今考えてる。起きるタイミングについては口出さないってこの前、真面目に話し合って約束したよね」「でも、異常よ。今までで一番遅いじゃない」「今までで一番じゃないよ。前もあっただろ。最近多いでしょ」「今までで一番よ」「いい加減約束を破るのをやめてよ。ネァ! 今話してるんだからなんでそっちいくの。おい。僕を見てよ」「約束ってどんな約束? もう忘れました。細かくて。箇条書きしてくれる?」「箇条書きしてもどうせ守らないでしょ」「そんなことないわよ」
ルールを箇条書きするなんて、ばかげてる。それをだしに、さらに僕と児戯に等しい諍いをやりたいだけだろ。
昨日も一昨日も、祖母のいる環境でサバイブする前提でお部屋づくりの計画を練っていた。でもその前提こそ早いところ卒業したほうがいいかもしれない。実家にいる限り、僕は子どもを卒業できない。祖母は故意なのか無意識なのかわからないけど、頑なに僕のことを「どうにかしないといけない欠陥人間」と思い続けていて、僕を修理しようとしてダメージを与え、結果として僕の発達を阻んでいる。
いや被害者意識はよそう。僕が実家に頼って、成長から逃げているのだ。祖母にご飯を作ってもらっている限り、生活が祖母の敷くフレームに制限されるのは当然だ。僕は自分が経済的に自立していないことを言い訳に、そのフレームに甘えていたんだ。ルールを箇条書きしてる場合じゃない。足元がおぼつかなくても「お世話になりました」と別れを告げよう。
今すぐお別れする方法はあるのだ。パートナーの家に居候させてもらうこと……ただ、あまり胸を張れる行為ではないし、彼の家は彼の家で適応するのに時間がかかるだろうと思って、なんとなく考えていなかった。あと、僕が彼に対して十分なリスペクトを払える自分でいられるか、自信がなかった。

だが試してみるくらいしよう。ムーミンがOKと言うているし。厳しかったら、また実家に戻ってみることもできるし。いったん祖母が背後にいない生活を試してみる。自立することと、人として成熟することの順序を、入れ替えてみる。大人になってから実家を出るんじゃなくて、実家を出て大人になる。彼に対してリスペクトを払える自分になるなんてことは、彼と一緒に住みながら練習することだ。
ということで
自室の環境調整を突き詰めた結果、僕は自室から出ることにした。
お腹すいたから、ひとまず祖母が作ってくれた晩御飯を食べよう。これが人生最後のおふくろの味になるかもしれない。献立はなんだろう。

生姜焼きだ。それっぽいな。キャベツを盛ったのは僕なので。祖母のせいではないので。
姉と通話をつなげて、一緒に姉のスプラトゥーン実況動画を見ながら食べていた。
僕が今からやることって、家出なのかな。実家を飛び出して、パートナーの家に転がり込む……というと、なんだか聞こえが悪いが。でもその通りでしかないな。京都にいた時は3年弱一人暮らしをしていたけれど、あの時は生活費の仕送りを父から貰っていたから、自立とは違う(京都での一人暮らし、最高だったなー)。まあ今回も、いまだに僕は大学の学費を父に負担してもらっているから、完全な自立とは言えない。でも、京都の時とは、決定的に違う。僕は祖母という”親”との訣別をおこなうのだ。さようなら。今までありがとうございました。と、言うのだ。完全な訣別はパートナーの家での生活の様子を見てからになるから、今日の話ではないけれど。
僕がこの実家を出たら、ここはどうなるんだろう。祖母は僕と父と猫の世話をするのが生きがいと先日言っていたので、悲しみそうだな。最近は身体が弱ってきているから、僕に力仕事を頼る日も増えたし。そのことを考えると胸が痛い。けどまあ、そのような悲しみは、人生を送っていれば、ある。ドンマイ。世話してもらうのをやめるだけで、絶縁するわけではないし、人生のよくあるやつだろう。それに祖母は僕の存在によって傷ついてもいた。共倒れするよりは、距離を置くほうがいいだろう。
父は特に何も思わなそう。
猫はどう感じるんだろう。僕が実家を出ていくにあたって、なによりつらいのは猫と会えなくなることだ。2010年に出会ってから、一緒に生活してきた。僕は猫を愛してる。猫は知らないことをたくさん教えてくれた。何を考えているのか、何に興味を持っているのか、何に怯えてるのか、いつも気になっていた。触れ合ったり触れ合わなかったりした。だんだんと猫の心地よいとする動きがわかってきて、僕たちは寄り添う時間が増えた。話しかけると返事をするようになった。最近は向こうから話しかけるようになった。父と祖母が寝静まった夜に、二人で寝そべったりした。猫が喜んでいると僕も嬉しかった。猫が苦しそうにしていると涙が出た。そのように心を重ねられる存在は、僕には猫しかいなかった。
2021年8月10日にうちの猫が、何の拍子に家から出てしまったのか、行方不明になった。僕はマンションの同じ階の扉のインターホンを、端から押していった。「すみません、同じ階の者なんですけど、うちで飼っている猫がいなくなってしまって、ベランダ沿いにもしかしたらお宅のところにいるかもしれないので、本当にお手間かと思うんですが、確認してみてくれませんか」と言って、「いませんでした」と言われ「わかりました。ありがとうございます。夜遅くに本当すみません、失礼いたします」と言った。それを続けた。ベランダ側でなかったら、玄関の方から出たことになる。そうしたらもう、お手上げだった。どこへでも行けてしまう。もっと悪い可能性もあった。ベランダ側から出て、柵の隙間から落下した可能性だ。うちは10階だった。
どの家に訪ねても猫は見つからず、僕と祖母と父はリビングで顔を見合わせた。二人が、どのくらい諦めているのかわからなかった。祖母は「もう済んだことはしかたないわ。お別れね。あーせいせいしたわ。これで餌も買わなくて済むし、ソファもボロボロにされなくて済むし」と言った。その言葉は祖母なりに現実を飲み込むための冗談だったのだと思うが、僕はそれを聞いて頭が熱くなり、何かを言おうとしたがそれは嗚咽になって涙が溢れた。僕はその涙を肯定したくなかったので、隣の部屋に移動してすぐに止めた。祖母は寝る準備をしはじめていた。僕は懐中電灯を持って家を出た。マンションの周りの茂みを照らしながら、猫の名前を呼び続けた。名前を呼ぶたび、自分がやっていることの途方もなさに呆れた。声の響く夜間のマンションの周りで、僕が名づけた猫の名前を叫ぶことに恥ずかしさはまったくなかった。
しかし見つからなかった。僕はうちのベランダに戻ってくる可能性を考えて、リビングに布団を動かしてきて寝ることにした。眠る寸前のようだった祖母が僕に話しかけた。「あんたがそんなに[猫]ちゃんのこと一生懸命探してくれるなんて思わなかった。嬉しいわ。[猫]ちゃん、大丈夫かな。他の野良猫たちにいじめられないかしら。きっとあの子自分の力じゃ動物も狩れないだろうから、今頃お腹空かせちゃって泣いてるんじゃないかしら」と泣き言を言って、眠りに就いた。僕もリビングに横になって寝た。1時間おきに目が覚めて、首を曲げて夜のベランダを見た。猫の姿はなかった。あまりに突然だったので、これが猫との別れになるとは信じがたかった。人生こういうこともあるのかーと思った。なんでだろう? と思った。
僕と祖母が寝ていた早朝に、父が一人起きて改めてマンション中を捜索してくれていたらしい。そして父は猫を見つけた。猫は、うちの一つ下の階の家の玄関扉近くの室外機の下で、姿勢を低くして震えていた。猫はうちに帰ろうとしてきていたのだ。でも、階を一つ間違えて、反応のない玄関扉の前で途方に暮れていたのだ。祖母が急いで水と餌の入った皿を持っていき、室外機の近くに差し出した。猫は震えて、ニャーン! ニャーン! と今までに聞いたことのない大声を出した。猫はなかなか動かなかったが、数十分後ようやく室外機から顔を出し、皿の匂いを嗅いでから水をガブガブと飲んだ。祖母はゆっくり猫を抱きあげ、猫は我が家に帰った。祖母は後日、下の階の家を訪ね、玄関前でうるさくしてしまったお詫びの品を渡しにいった。
僕が突然いなくなることで、猫は悲しんだりするのかな。あんまり悲しまない気がする。たぶんピンと来ないんじゃないかな? だとしたらいいんだが。動物の心の仕組みはわからない。猫にお別れを知らせることはできない。だんだんと僕の不在を自覚して、ある日ぽっかりしたりするのかな。でもなんにせよ、猫を一番必要としているのは祖母だし、猫が一番信頼しているのも僕ではなく祖母だ。祖母と猫は年齢的に寿命がどっこいどっこいで、どちらが先に死ぬのかわからない。きっと二人は一緒にいるべきだ。僕にはもとより、猫を置いていく以外の選択肢はない。
2010年、猫と出会うすこし前、姉二人が母親の家に移り住むことを決め、家を出ていった。二人は僕にその計画は隠していて、いそいそと段ボールに荷物をまとめて準備していた。僕が姉に「いなくなるの?」と訊くと、姉は涙を溜めて「うん」と言った。僕はなぜ出ていくのか意味がわからず、二人をなんとか引き留めようとしたが、タイミングの悪いことに僕はその日、船橋市の一日警察署長を務めるという仕事を任されていた。商店街で、警察官の服に身を包んで、船橋市民の皆さんの前で敬礼をしなきゃいけなかった。そんな場合じゃないのに。仕事を終え家に帰ると、姉二人はすでにいなくなっていた。急に姉二人が僕を置いて出ていったことが僕には理解不能だったが、少なからず泣くしかなかった。彼女らが二人で家出したことの背後にある複雑な事情を知ったのは、ずっと後になってからだった。
僕も今、何も理解できない猫を置き去りにして、家を出て行こうとしているのかな。
姉二人は僕のこともそれなりに大事に思ってくれていたとは思うけれど、それ以上に祖母の下での暮らしの辛さと、母親に対する思いのほうが強かったのだろう。それに、当時の祖母は僕のことだけやたらと贔屓していたから、姉たちから見たら、僕はここに残っても健康に育つだろうから大丈夫だろうと思ったのだろう。僕は物心ついた頃にはすでに両親が離婚していたため、歳の離れた姉二人とは違い、母に関する記憶も愛着もなかった。だから、姉二人が僕を置いて家を出ていったのは、とても自然なことだった。家出する前からずっと、二人は僕には知らせずに何度も母に会いに行っていたらしい。
僕視点では正直、もうちょっと事前に説明とかして欲しかったとは思うけれど……姉たちも当時は思春期で自分のことでいっぱいいっぱいだっただろうし、彼女らの目には、僕は祖母の寵愛下で不自由なく過ごしているくそ坊主に見えてたのかもしれないし……。この件に関して悪いのは、大人だ。父と母と祖母だ。そして父も母も祖母も皆それぞれ、彼ら独自の発達があって、巡り合わせがあって、手繰ってきた人生があってこそ、すべては起きたのだから、いまさら誰かを恨んでもしかたない。
僕も、猫を置いていなくなる。きっと祖母に可愛がってもらえるだろうから大丈夫だろうと、都合のいい言い訳を自分にしてる。姉たちが僕を置き去りにしたように、僕も猫を置き去りにする。
僕は猫を置き去りにする。
まあ、まだ荷物を移動させるのにしばらくは実家とパートナーの家を往復することになるだろうから、撫でるチャンスは残っているのですが。
さっきのLINEの後ただちにパートナーの家に移動しようとしていたのだけど、昨日Amazonで買ったスタンディングデスクが明日ここに届くことに気づいてよくわかんなくなった。届いてから、段ボール箱を抱えて向こうに行くか。
何を持っていけばいいのかわからないから、とりあえずいつものパソコンとiPadと、あと充電ケーブル類? か。Switchも持っていっちゃおうかな。その辺をカバンに詰めておいて、宅配が届いたら出かけよう。モニターや衣類などは、徐々に。
徐々に進行するから、いつ別れを言えばいいのかわからない。やっぱり戻るかもしれないし。よくわからないな。
