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2025 - 03 - 14

途方。

13時から心理カウンセリングがあったので、バスに乗って12時50分に快活CLUBに来て入室をおこなおうとしたら、ポケットの中にあるはずのカードケースがなかった。会員証もそこに入れていたので、提示できない。「すみません、会員証忘れちゃったんですけど……」「ご本人様の確認できるものはありますか?」

本人確認書類を取り出そうとしたが、そうか僕はカードケースを紛失したんだった。マイナンバーカードも運転免許証も学生証も保険証も、失くしたカードケースの中だった。クレジットカードと銀行のキャッシュカードもそこに入ってる。歯医者のカードも精神科のカードも図書館のカードもタイムズレンタカーのカードもそれに入れていた。全部失くしたのか。カードケースって下手したら、僕自身よりも貴重な存在なのでは。「すみません、どれもなくて、すべてなくて」「あーそれで、す、と……そうですね難しいですね……ハーイ」結局快活には入れなかった。

快活CLUB以外に人のいない喋れる空間が思いあたらなかった。自宅に戻ろうにも、PASMOもカードケースに入れてたのでバスにも乗れない(今気づいたけど、財布はあったから乗れましたね)。仕方なく、歩きながらスマホでズームを繋げてカウンセリングを受けた。道ですれ違う人々は、人とみなさないことにした。雲ひとつない青空を背景に、歩きながらカウンセラーの方とお話しした。

様々なことを話しました。おもろかった。

帰宅した。開け放した窓の向こうから「ドカドカドカドカ!」という轟音が飛び込んでくるなか、パートナーはテレビに集中してツインピークスシーズン3の続きを見ていた。意味不明な展開になっていた。画面がなぜか白黒で、メキシコの砂漠で一つの卵から昆虫とカエルのキメラのような生き物が孵った。「これは水だ。これは井戸だ」というラジオを聴いて失神した少女がいて、キメラは彼女の口の中に入りこんだ。バスに乗ったということは、それまではカードケースを持っていたことになるので、僕は十中八九バスに置き忘れたのだろうと思ってバス営業所に電話して、遺失物の相談をした。その後パートナーに「クレジットカードを紛失したときは、利用停止するといいよ」と教えてもらい、停止の手続きをした。

それにしても「ドカドカドカドカ!」うるさくて狂いそうだった。窓を閉めた。閉めても気になるな。近くで建物の解体工事がおこなわれているのだ。新しく図書館が建つらしい。図書館ではお静かにって早く言いたいけど、まだ図書館じゃない。難産。

窓越しに、工事の様子を見た。すると意外だった。「ドカドカドカドカ!」はてっきりコンクリートか何かを粉砕してる音なのかなと思ってたのだけど、実際はユンボ(油圧ショベル)が自身の腕を前後にガクガク振っている音だった。いわば腕を曲げ伸ばしした時に関節がポキってなるようなものを聴いていたのだ。解体作業は終盤なのか、現場はほとんど土と瓦礫の山になっていた。

先端がこのような隙間のある「スケルトンバケット」になっていた。ユンボはこれで土を掬い、「ドカドカドカドカ!」とアームを震わすことで、土をふるい落としていた。そうして残ったコンクリートの破片などの大きめの瓦礫を、それ用の山に棄てていた。そういう整地の工程があるんだな〜。

音の正体がわかると、以前より「ドカドカドカドカ!」があまり気にならなくなった。今、土をふるいにかけているんだな〜精が出ますねって思えるようになった。

ニトリに注文した棚が届いたらしいので、パートナーと一緒に貰いに行った。僕は商品を受け取る前にニトリのリクライニングチェアに座ってだらだらしようよと提案した。

だらだらしてたらバス会社から電話がかかってきて、カードケース見つかりましたので営業所に取りに来てくださいと言われた。パートナーが、先に歩いてカードケースを取りに行って、それからニトリに戻ってきて棚を回収しようと提案してくれた。僕たちはニトリを出た。

手に入れたーやった! お手数おかけした。パートナーが「よかったね〜!」と嬉しそうにしてくれた。彼は僕がカードケースを失くしたことに対し、僕以上に気を揉んでいた。僕の焦らなさのほうがおかしかったかも。ご心配おかけした。

ニトリに行く途中、僕はカフェに行こうと提案した。

カフェで過ごした。対面にパートナーが座ってコーヒーを飲んでいた。僕は、これからの僕の人生は、このような感じになるんだなと思った。基本的にお家で時間を過ごして、一週間に一度か二週間に一度かわからないけどたまにこうしてパートナーとカフェとかに出向き、テーブル越しに彼が飲み物啜っているこの画角を見る。これが生活のスタンダードになるのだ。今後、10年、20年と、この景色を見るのだ。会話とかぼつぼつしつつ、スマホもいじって何も話さなかったり。もしこれが続くなら、悪くない人生だぜと思った。悪くないどころか、叶うことなら死ぬまでこの生活を維持したいと思うくらいには良い人生だ。

これを続けるには、僕にはやらなければならないことがある。頑張るぞ。

そして棚を運んだ。今日は18,393歩歩いた。そして寝る。

カウンセリングでは、親友について話した。引っ越してきた大阪の小学校6年生のクラスで、親友と出会った。なぜ彼が転校生の僕に話しかけたのか、お互い当時のことをはっきり思い出せないけど「そのとき、近くに棒を持ってる奴がいた」という変なディテールだけ二人とも鮮明に覚えている。

僕たちはめっちゃ仲良くなった。頻繁にお互いの家に遊びに行った。「トロヤと[親友]は同一人物」というよくわからない揶揄われかたをされたこともあるくらいには、平均的な友達付き合いよりも一緒に行動する時間が長かったと思う。お互いにお互いが面白すぎて、親密になることに躊躇いがなかった。どちらもポケモン好きであったことと、話が気持ちいいくらい通じ合って、お互いに知的レベルが同じくらいだなと直感していたのが良かったのだと思う。彼に教えてもらった青い鳥文庫の本を読んだり、放課後に学童室でブラックジャックしたり、公園の汽車の屋根の上で将棋をしたりした。文庫卒業文集で書いた将来の夢がまったく同じだった。

今思えば、当時から僕も彼もクネクネしていて散発的で不規則な動きをするところがあり、それが共振していたのかも。僕は当時チック症で首を頻繁に縦に振る癖があった(水槽の魚を見ながら首を振っていたので、クラスメイトに「トロヤは魚と話せる」と思われた)し、彼のほうは貧乏ゆすりが強かったり歩き方が変だったりした。中学校では僕は首振りは治ったが椅子を後ろに傾けて座る癖があってよく転倒したし、今度は彼のほうがチックを発症して首を痙攣させるようにぶるんぶるん振動するようになっていた。そういう同類性も感じとっていたかもしれない。感じとっていなかったかもしれない。

中学に上がった僕は、自分が貧乏だとかセンスが悪いとか陰キャだと思われることを極度に恐れていた。そのため自宅の場所を誰にも教えず(経済レベルを知られたくないから)、私服を見られたくなかった(服が安物だったりセンスがないダサいやつと思われたくなかったから)ので「家が厳しいから」と嘘をついて、休日は誰とも遊ばなかった。たしか親友だけが例外だった。親友だけはうちに呼んだ。二人で人をダメにするソファに座り、膝の上にノートパソコンをのせ、ニコニコ動画を見たり東方をプレイしたりMinecraftをした。

中学2年生の終わりに僕は東京に引っ越すことになり、彼とは物理的には別れた。そこから僕たちはそれぞれ別の人生を蓄積していくことになった。とはいえ離れ離れになってもYahooメールで連絡を取り合ったり、Skypeを繋いでTRPGをしたり、LINEで頻繁に長電話したりと、関係性は続いていた。それぞれの友達を紹介しあって共通の友人が増えたりした。高校卒業後、僕たちは同じ大学に入って、大学で再会した。同じ大学に入った理由にも、仲良すぎたからというのが一つあったはず。その頃にはもうお互い趣味嗜好や興味関心はぜんぜん違うものになっていたけれど、僕の下宿に彼が週4くらいで泊まっていた時期があったりなど、なんだかんだ一緒に行動する機会はあり、それを楽しんだ。まあ彼は浪人して一年遅れで合流したし、その頃にはもう僕は不登校になっていたので、あまり僕たち二人でのキャンパスライフというのは無かった。それ、今思うとちょっと悲しいな。

あまり意識していなかったが、僕の人生において親友の存在はものすごく大きかったなと思う。他者からの目線に怯えていた僕に対して、あっけらかんとした親友やその周りの友達がいてくれたから、自分は持ちこたえた。それが無かったら中学生活はもっと灰色だった。

スクールカーストの中で値打ちが付けられることを恐れていた僕は、中学校に入って陸上部に所属した。陸上部短距離のメンバーは、ヤンキーと今で言う陽キャのハイブリッドのようなメンツ?だった。僕は主に彼らと仲良くした。家系的にヤンキーとして位置付けられていたものの当人はめちゃめちゃ格闘ゲームオタクの者がいたり、後輩はサバイバルナイフを持ち込む者とはちま起稿を信奉する者の二大勢力に分断していたりと、そんなにわかりやすくキラキラもギラギラもしていたわけでは無かったが、少なくとも彼らとつるんでいれば教室で見下されることはなかった。小学校のときに揶揄ってきたり蹴ったりしてきた者が、中学ではそれをしなくなった印象がある(彼らも彼らのほうで色々と変化があったのだろうけど)。ヤンキーはOBのヤンキーに揃って挨拶しにいくという謎の慣習があって、僕もそれに参加したりした。当時の僕は自分が欺瞞的な身の振り方をしている自覚がなかったので、ヤンキーの彼らと仲良くする日々も楽しかったけれど、ずいぶん抑圧的な生き方をしていたなと思う。陸上部の同学年に一人真面目な子がいて、僕とつるんでいた者たちは彼のことを執拗にいじっていた。今思えば、僕もそのいじりの空気に便乗して、彼を傷つけていた。

親友の存在は、唯一自分のありのままを受け容れてくれると安心できる特別であったと同時に、中学生以降の僕にとっては、自分のコンプレックスを託して自分を飾るための「だし」のような存在でもあったなと思った。親友は僕とは違って、「普通でありたい」「クラスで尊敬されたい」みたいな強迫観念のようなものに囚われていないように見えた。彼は陸上部ではなく技術部(という名のパソコンゲーム部)に所属し、放課後はいつもウォークラフトに興じていた。そんな彼と親友として友達付き合いを続けながら、当時の僕は、「俺は[親友]とは違うから、大丈夫だ」と思っていた部分がある気がする。そのように彼を見下した位置に据えて解釈することで、相対的に自分は社交的で、クラスにおいても畏れられる、大丈夫な側だというふうに、自尊心を定位していた。

テストの点で彼に負けるのを極度に恐れていたことや、彼とつるんでいるところを陸上部の面々に見られるのは避けたいと思っていたことなどが、その心の表れだと思う。テストに限らず、将棋とか、初めの頃は勝率五分だったけれど、次第に彼の方が勝つことが多くなってきて、あんまやらなくなった。僕は彼との勝負事を避けるようになった。親友とゲームとかで勝負するのはいまだに苦手かもしれない。まず僕より彼の方が初発のセンスが優っているので、僕の方がよく負ける。それだけでなく、彼は勝負を楽しむセンスもあったというか、ゲーム中の彼の闊達なふるまいは敗北を恐れる僕をいつも萎縮させた。親友と勝負すると、僕は負ける以上の精神的な打撃を食らうのだった。彼はメンタルが強く、僕はメンタルが弱いのが如実に出るのが勝負だった。

僕はよっぽど自尊心に瑕疵があったんだな。スクールカーストなどという、有ると信じる者の中にしか無い呪術的なヒエラルキーに囚われて、仮想の感情を本当の思いだと勘違いして、演技性の仮想人格ばかり磨いて、自縄自縛な青春生活を作ってしまった。もとより僕はどう頑張ってもパソコンオタクなのだから、技術部に入っても良かっただろう。そうすればもっと親友や近しい友達といちゃいちゃして、自分を認めてくれる人に囲まれた環境で、自分自身を愛することを学べたかもしれない(学べなかったかもしれない)。親友は、つねにおおよそ、自分を愛することができていた(彼は彼で色々あるけど)。僕はもっと彼を尊敬すべきだった。彼のように、自分にとって心地の良いものに対してだけとことん素直になって、それに時間や感心を傾けるという生活のしかたを知るべきだった。彼はスクールカースト的なものを、ほとんど感知すらしていなかったらしい。多少感知したにせよ、それを受けて自尊心が揺らぐようなことは彼の性格的になかっただろう。

僕もその認識で良かったのだ。別に中学校で、見下されるとか畏れられるとか、どうでもいいからね。住んでいた町は田舎ってほど田舎でもなかったが、学区には一部地域社会的な空気がほんのり存在しており、うちの学年では土地の地主の息子が序列上位にいたりしたらしい。最近友達から聞くまで、僕はそんなこと気づきもしなかった。言われてみればって感じ。共同体でのマウント争いなんてものは、自分の目に入らないところでいくらでも行われているのだ。逆に言えば目に入れさえしなければ、自分にとっては無いも同然だった。いじめのような実際的な問題が身近にあれば話は違ってくるけれど、僕の身の回りでは、少なくとも僕の心の中で勝手に行われていたいじめを上回るようなできごとはなかった。僕はずっと勝手に不安を作りだし、それに苦しんでいたようなものです。

そういえば

小学六年生のときに、教室のベランダに締め出されたことがある。隣のクラスの女子がトロヤマイバッテリーズフライドのことが好きみたいな情報が出回っていて、その女子とトロヤを二人きりにしてやろうぜ、という計画が元気な者たちのあいだで持ち上がり、ある日の放課後にそれが決行されたのだ。色々あって僕は、ガラス扉に正面衝突し、救急車に運ばれて縫われた。

思えばあれは、いじめだったかもしれない。

僕の記憶にはその出来事は、近くに親友を含め仲の良い友達がいたのもあり、特にトラウマとしては刻まれず、むしろ笑える思い出話になった。手首、中指、鼻がガラス片で切れて、見たことのない出血量とその止まらなさにびびった僕は、友達に向かって「誰か保健室の先生呼んで!」と言った。そしたら親友が「バカお前が(自分で)行け!」と言った。僕は「たしかに」と思った。本当にその通りだったので、僕はぼとぼとと血の轍を刻みながら保健室まで小走りして行き、そのまま治療を受けた。その手続きが面白かったので、良い思い出になっている。今も中指の腹にその時の傷のケロイド痕が残っていて、愛着が湧いている。

でも、あれ、あらためて振り返ると、いじめだったかもしれない。僕に対してのいじめではなく、僕と一緒に締め出された「隣のクラスの女子に対してのいじめ」だったかもしれないのだ。彼女が僕を好きだったなら、その相手と二人ベランダに締め出され、その様子をクラスメイトから見物されるというのは、彼女にとって自分の恋愛感情をおもちゃにされるような、不快な出来事だっただろう。しかも一緒に締め出された僕のほうは、彼女に気を払うようすもなく、ベランダから自分が脱出することしか考えていなかった。好きな相手が、自分の近くから逃げようと犬みたいに動き回っているところを見るのも、不快な出来事だっただろう。その後僕はガラスを突き破り血だらけになって救急車に運ばれた。不快な出来事だっただろう。行われたことを俯瞰して見るに、あれは彼女が受けたいじめ被害だったのかもしれない。

このことに今気づいた。

いかんせん僕が血まみれになって一番の被害者みたいになってしまったために、あのとき行われたことを矮小化して捉えすぎていた。翌日か翌々日、締め出し行為に関係した者たちの親御が僕の家を訪ね、ケーキやパイとかをくれながら僕の祖母に謝罪をした。その過程も見ながら、僕は「締め出した者たちも反省してるみたいだし、被害者の僕は怒ってないことだし、今回の件については一件落着だね」みたいなふうに簡単に片づけてしまったんじゃないか。でもそれは、焦点を勘違いしているんじゃないか。

僕が怪我をしたのは、結果の一部分に過ぎなかった。僕も、ケーキパイくれた者たちも、僕の出血にばかり注目して、おこなわれたことの本質的な邪悪さを見逃したんじゃないか。反省すべきことを反省できていないのでは。一緒に締め出されたあの女子が負った心のダメージこそ、一番に補償されるべきだったはずだ。女子の側でどういうやりとりがあったのか知らないから、僕目線で考えられることだけど。是枝監督の『怪物』を思い出すな。

そんな感じで、身の回りが平和だと思っていても、想像の及ばないところで、誰かが深く傷ついてたりしたんだろうな。そんなことが無数にあったんだろうな。何の話だっけ。自分が昔から人目を気にしすぎていたなという話だ。親友の存在が僕にとってどのように重要だったかということを、より深く確認したという話。心理カウンセリングを通して。気づきをうながされた。すごいなー。

親友は今インドネシア。時差2時間。