Que Sera, Sera
起きたら19時だった。
脳の血管が詰まったような感じがして気分が悪い。考えることすらつらい。頭を働かせると血管がより収縮する気がした。寝そべるのも座るのもしんどかった。日は沈んでしまったが、このまま家にいると頭が爆発しそうだったので、外を歩いた。

外にはこれがあった。
7分くらい歩いて、立ち止まってしまった。今は、歩くのもつらいっぽい。歩かないとどこにも辿りつかないから、しかたなく引きずるように歩いた。
変な道を選んで進んだら、誰もたどり着けないような原っぱに着いた。上には高速道路が走っていて、車の通りすぎる音が騒々しかった。月明かり以外の照明がなく、暗闇が深かった。スマホのライトをつけると看板があった。説明書きを読むと、ここはカタクリの花を養生させるための野草園のようだった。植物園のように植物を飾って人を招くような場所ではなく、植物が誰にも邪魔されずに育つために作られた場所だった。人が見物するようなものは無かった。入っちゃってごめん。
連日の雨の影響で、原っぱは湿地になっていた。水の溜まった部分が暗くてわからなかった。だから勘でぴょこぴょこしていたら、かえって水分の多い窪みに着地してしまい、泥がはじけ飛んだ。僕は「ピエール瀧」と独り言をつぶやいた。
野草園を脱出し、右折や左折をし、帰宅した。歩いたことで、多少は頭がすっきりした。
タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を観た。3日前に観た『ゴーストライター』の監督であるロマン・ポランスキー役の登場人物が出てきていた。この映画の話は、ロマン・ポランスキーの妻であり女優のシャロン・テートが、チャールズ・マンソンによって惨殺された事件を参照しているらしかった。そうだったのか。その一連のことを、何も知らずに観ていた。知っていたら見方が変わっただろうな。
暴力があったりなかったり、知性があったりなかったり、麻薬があったりなかったり、成功と凋落があったりなかったりする感じが、パルプフィクションに近いものを感じた。たとえ劇中でめちゃくちゃ惨い方法で人が殺されても、映画のムードが動じないのだ。「人殺しましたけど、何か?」とでも言いたげなBGMが流れ出し、別の人がお気楽にドライブしているシーンに切り替わったりする。細かいドラマやカタルシスはあっても、映画そのものはあくまで等速で進み続ける。そういうドライさとクールさがある。あるなー。
レオナルド・ディカプリオって常に怒っているイメージがある。ないですか? 自分はそれがあって、少し苦手だ。でも『レヴェナント』のディカプリオは好きかも。レヴェナントでも怒っていたけど、あれは静かなる怒りだった。あと熊に襲われたり凍えているときは、「生存」の顔が優先されていたので。『ウルフオブウォールストリート』みたいにファックファック言いながら物を投げつけて壊すようなキレ方が、苦手だ。そうだ、あの癇癪の感じが苦手なんだ。自分の中でレオナルド・ディカプリオは、ファックと言いながら器物破損をしているイメージが強いのだ。もしかしたら、ディカプリオじゃない別の俳優の癇癪シーンもディカプリオのものだと思い込んでしまっているかもしれない。
この活動記録を始めて、1か月になる。
なんだかんだ毎日書いた。でも、別に毎日書くことを目標にしているわけではない。目標は、ゲーム開発のリズムをつくることだった。現状はといえば、目標を達成するどころか、書き始めてからほとんどゲームエンジンを触っていない。僕は1か月、何もせず腐り続けていたのだ。それを記録し続けていただけなのだ。
残念なことだけど、どうしようもない。こうなってしまったら、何かクリティカルな解決策があるわけでもない。体調に関しては病院で薬を処方してもらっていて、順次服用量を調整したりしているので、薬効をみながら改善を待っているフェイズだ。とはいえ、投薬ですべてがすっきり完治するようなものでもない。僕ができることはとにかく寝て、適度に身体を動かして、人と話す。ストレス源はなるべく避ける。このくらいだ。このルーティンのなかで、ゲーム開発できそうな隙があれば、ほんの少しでも手を動かしたい。そう思っている。まる1か月それが無理だったわけだけど、次の1か月もできないと決まったわけではない。
自分とは伊達に20年以上付き合ってないわけで、みんなよりも自分の心身のことには詳しい。今までに似た状況に陥ったことがないわけでもない。その時も、苦しみつつ試行錯誤したりしなかったりのなかで、徐々に持ち直していくように回復した。大事なのはケセラセラ精神だ。いつかどうにかなるといいな、と長い目でとらえる。
この活動記録も、役に立っていないわけではない。SNSと距離を置いて、ホームページを築いてそこに自分のアイデンティティを組み立てていくという試みはやってよかったと思っている。インターネット上に自分の居場所がある、という確かな感覚がある。その感覚は僕に安心を与えてくれる。noteを利用するとかではなくて、自分のサイトに書くという判断は良かった。日記を書くという行為には、ほとんどストレスを感じない。腐ってしまっている現状でも、何か綴れるものがある限り綴っておけば、いつか何かの役に立つかもしれない。
そんなふうに現状を分析している。目下の課題は、僕は就活生なので否応なく秋くらいからは就活を始めなければならないことと、Death the Guitarにはパブリッシャーがついたので、あまりいつまでも開発を先延ばしできる状況ではないことだ(パブリッシャーの方々には現時点ですでに色々ご迷惑をおかけしている)。この2つは避けて通れないから、完全にケセラセラで済ませられる話でもない。とはいえ、焦って自分を追い詰めても仕方がない。
正直、怖い。何もかもうまくいかず、ぐちゃぐちゃになってしまったらどうしよう。散歩中、足が動かなくなったとき、孤独を感じた。いま、逃げ込める場所や、話しかけられる人がいたらいいのに。等。
朝になったらどうでもよくなるんだけど。
生きるしかない。