一昨日

2025 - 03 - 31

昨日の前の日って一昨日と書くんだな。イギリスの階の数え方みたい。

一昨日は、目覚めたら寝起きのパートナーが見た夢のことを話してくれた。「五目並べをしていたんだけど、先攻の黒に対して後攻の白は相手の攻めに対応し続けるかたちでしか手を打てないから、絶対黒が有利じゃない? って思って、五目並べのWikipediaを見たら、『黒が有利です』と書いてあって、やっぱりそうじゃん! と思った」彼は寝る前によくWikipediaを読んでいるけど、夢の中でも読んでいるのか。僕は彼に、三三禁止のルールを教えてあげた。

パートナーが夢に見たとおり、五目並べはフラットな条件だと先手がかなり有利だ。実際はその不均衡を調整するため、先手黒は「三三(三を同時に二つ作る)」が禁止とされている。他にも「四四」「長連」などの禁じ手がある。このようなゲームルールによって、五目並べは勝率格差を抑えている。

五目並べ、オセロ、チェス、将棋、囲碁などの二人零和なんとかかんとか完全情報ゲームは、ほとんどすべての条件が均されているがゆえに、「先手か後手か」が圧倒的な不平等因子として大きな影響を持ちそう。というか、だいたい先手が有利そう。あ、オセロはわからないかも。オセロは対称性から一手目が一通りしかないから、後手が実質先手みたいなところがある。でも一手目は一手目で自分の石の数が増えているわけで……よくわからないな。囲碁は複雑性が圧倒的に高いはずだから、チェスや将棋よりも先手後手の優位差は小さそう。

調べてみたら、チェスと将棋は確かに先手の勝率がやや高かった。でもどちらも、ルールには勝率を調整するような禁則などはないよね。純粋性を優先して、多少の勝率格差は開き直る方針なのかな。でもそれもわかる。禁則は後付けされていくほど、ルールによって存在するゲームとしては自律的な美しさが損なわれていく気がする。

調べたら、意外にもチェス将棋よりも囲碁のほうが先手有利が際立つらしく、その勝率格差を無くすための「コミ」という非対称ルールが設けられている。そのコミの数をめぐって、歴史的にさまざまな論争と微妙なアップデートが重ねられてきたらしい。戦局の場合の数が複雑だからといって、非対称性が薄まってくれるわけではないのか。パートナーは『ヒカルの碁』がとても好きなのだが、連載中に囲碁協会?の公式ルールが変更され、コミ数が変わったことがあるらしいと教えてくれた。作中のルールには、その制度変更は適用されなかったのだとか。

オセロについては、統計的な勝率はほぼ同じのようだ。なんだかオセロって解析されつくしているイメージがあるから、理論上黒と白のどちらかが必勝みたいなのが判明しているのかと思ってたのだけれど、そうでもないらしい。

世界のアソビ大全にも収録されていた「ヘックス」というボードゲームも、囲碁や将棋と同じ二人零和完全情報ゲームにあたる。このゲームも先手が有利なのだけど、その格差を埋めるために面白いルールが設けられている。先手が一手目を打ったあと、後手はその手を見て「先手と後手を交代する」かどうかを選ぶことができるらしいのだ。そのため先手はあまりに強い初手を打つと、後手の判断でそれを相手に打たれたことにされてしまうので、必然的に強くも弱くもない微妙な手を打つことになる。面白い! 公平性担保のための調整ルールだけど、野暮ったさがない。美しいな。

そういえば、いつかサッカーの試合をテレビで観たとき、屋外のコートで、太陽の位置が明らかに不平等を作っていたことがあった。前半は昼下がりで太陽の位置が高かったのだけれど、後半になると太陽が傾いていて、一方のゴールの背後から陽が射すかたちになっていた。太陽を正面に据えてゴールを狙う側のチームは、明らかに逆光で見づらそうと思った。前半と後半でコートを交換することがサッカーが保証するたしかな公平性ルールなのだと思うけど、太陽が動くのはどうしようもないな。

スポーツのような無限の複雑さをもつゲームは、先攻後攻の格差は無視できるくらい希釈されるイメージがあった。でもよく考えたら、卓球とかバドミントンとかテニスとかは、サーブが明らかに強いよな。サーブ権が交代するから対称になっているだけで、各ラリーはたぶん先攻が有利なのだ。この先攻有利は、ボードゲームのそれよりよっぽど強烈だろう。複雑性は、むしろ「一手目」を繊細に練り上げて仕込んでおくことを可能にするという意味で、勝率格差を強調するものなのかもしれない。複雑性の高い囲碁がチェスや将棋よりも勝率格差が大きいのも頷ける気がするな。

ゲームに公平性を宿すのは、複雑さではなく、「一手目」が何度おこなわれるかなのだ。スポーツはだいたい一試合のなかに複数セットがあり、一手目の権利は頻繁に交換される。それに対して囲碁や将棋は、一試合のなかで「一手目」がただ一度しかおこなわれない。だから、それをどちらが行使するかで決定的な格差が生まれるのだろう。

ちょっと話変わるけど、ゲームの一つの価値として、ルールの美しさという指標がある気がする。その観点で言うと、僕はずっと野球のことを訝しんでる。

野球というスポーツは謎だ。「球をバットで打つスポーツ」というふうに見るのがパブリックイメージとして無理がないと思うけれど、もしそれが本当に野球のテーマだとすると、その達成のために色々と不審なことをしているようにしか見えない。

野球は各ゲーム、攻撃側と守備側に分かれる。守備側のピッチャーが球を投げ、攻撃側のバッターがそれを打とうとする。バッターが球を打とうとするのは当然だ。それが野球のテーマだから。でも、ピッチャーのほうは、やってることおかしくない? 守備側は攻撃側の目的を阻む者として、球を打たれることを防ぎたいと思っているはずだ。なのに、なんで、わざわざバッターのいるところに球を投げるわけ。自らの投球を相手打者に打ち飛ばされたピッチャーが、悔しがり頭を抱える。なんで。バッターの方に投げたんだから、そりゃあ打たれてもおかしくないだろ。ピンポンダッシュして捕まった小僧が逆ギレしてるようなものだ。「バットで球を打つスポーツ」というテーマだけで野球のルールを説明しようとすると、あまりにやってることがマッチポンプで、不自然なのだ。

「バットで球を打つ」というテーマのために、守備側はある種の接待(攻撃者が打てそうなところに投げてあげる)を強要されている。あるいは、「打たれたくないけど、ギリギリ打たれないところに投げたい!」という(よこしまな)欲求をそれはそれでサブテーマとして許容して、制度的に肯定しているのかもしれない。どちらにせよ、他のスポーツに比べると野球は、ずいぶんと混みいった演劇性の営みをしている。

たとえばサッカーは、「ゴールに球を入れたい、脚で!」という一本のテーマがあるだけで、自然に試合が発生するようになっている。ハンドやペナルティキック、オフサイドなどの「サッカーのルール」はあくまでテーマからの逸脱を防ぐ措置であって、サッカーの基本的な営み(ドリブル、パス、シュート)は、テーマという本能から自然発生した行為なのだ。こういうのが美しいルールと言えるのではないかと思う。

鬼ごっこは子供たちが駆け回る遊びというイメージがあるが、別に「走る」ことはルールに明記する必要はないという点で美しいと思う。「鬼が他の者に触れると、触れられた者が鬼になる」というルールだけ定義して、「鬼である状態はよろしくない」的な価値観だけなんとなくみんなの間で了解すれば、鬼ごっこは成立する。鬼は誰かに触れようとし、他の者は鬼になりたくないから触れられないように動く。この利害構造の行き着く先として、自発的に子供たちは、逃げたり追いかけたりして、駆け回ることになるのだ。

野球はやばい。バッターのあなたは球を打ってください。ピッチャーのあなたは、バッターが球を打てるように投げてあげてください。遠すぎたらだめです。ちゃんと投げてください。もちろん打たれたくないと思うので投げ方を工夫して打たれないようにするのは勝手ですが、とにかく近くに投げてあげてはください。バッターが打ったあとは、バッターは四角形の辺に沿って移動してください。守備の皆さんのほうは、飛んでいった球を拾って、四角形の角にいる仲間に渡してください。バッターの打球の質を評価するためには、打者に走ってもらわないといけなくて、そのためには守備のあなたがたが彼を急かす必要があるんです。「球を打つ」スポーツなので、よろしくお願いします。

野球のルールは、それ自体が直接的にテーマの言明になっていて、養生テープを重ね貼りするようにガチガチに儀式を組み立ててている。「運動の本能」から自然発生したものではなく「こういうイベントを成立させるには、どう振る舞うべきか?」というドラマ的規範から積み上げられたスポーツだ。サッカーや鬼ごっこのような美しさは、無い。

無いけど、

プロンプト的な美しさはないけれど、だからこそ野球というスポーツの存在には別種の美があるなと今思った。ナチュラルとはいえない儀式行為にもかかわらず、人々がそれに熱狂することによって価値が維持されている。盗塁に優れた選手の走りに魅了されたり、守備側のパスプレイにもドラマが宿ったり、バッテリーの二人のあいだの物語があったり。ゲームの目指した原初のテーマとは逸脱した枝葉に価値が生まれ、産業として生命活動を保っていくのは、それだけゲームが人々からありがたがられ、育まれているからだ。ハウルの動く城のように、野球という構造は自らが生を受けた根拠地に別れを告げ、代謝しながら自走しているのだ。何のために生まれたか、何のために生きるのかは関係ない。今の野球に価値があるから、野球は価値があるのだ。

むしろ現代美術が扱う「美」のありかは、こっち側に近いかもしれない。アートワールドみたいに、人々がそれを「美しいものとする」という共犯的人造的な価値を了解しあうことによって、それ自体の美しさが認められる。サイン付きの便器や壁に貼られたバナナと同じ美しさが、野球にはあるかも。

ナチュラルな美(プロンプトから自発的に立ち上がる美)と演劇的な美(評価者との関わりの中で後天的に獲得される美)の二つが、あるなと、思いました。

ダンス教室に入会した(まだ退校手続きできてない、やべ)ときに僕が習おうとしていたのは、ハウスダンスだった。素人理解なので間違っていたら申し訳ないが、ハウスダンスは理念的に振り付けがなく、下半身の重心移動をベースに、音楽を受け取って即興的に動く。プロのハウスダンサーの動きは、ブルブルと振動していて、まるで身体の可動域をどこまで拡張できるかの実験を見ているようだった。いや、実験というより、論文を見たような気分かも。僕はその、ハウスダンスが表現するブルブル論文を見て、自分の多動性が祝福されたような感動をおぼえた。だから僕はハウスを志した。でも初日だけ行って、挫折した。別に思てたんと違ったとか自分には無理だと思ったわけではなく、予約を入れるのが面倒で行かなくなった。月謝だけ払い続けている。

話ずれているな。ハウスは初めそのナチュラルな美に魅了されたけれど、どんなダンスもそれはそれで動きが研究されていてアカデミックな体系があって、演劇的な美も同時に含んでいるという、こと? いや、、すみません、別に結論とかなくて、ただ思い当たることを書きつらねていただけなので、、、

あとは、僕はボカロが好きだけど、優れたボカロPってDJもやってたりするのが個人的に意外だなーって。この話がどう関係しているのか。その解釈は、あなたに委ねる。

一昨日はこんな感じだったか。一昨日でもなんでもない、現在形の話ばかり書いているな。これを書いたのは今日。

さらに前日に遡っていこう。