三昨日
「一昨日(おととい)」の前の日は、「一昨昨日(さきおととい)」と言うことがあるらしい。「昨」を増やすの? おかしいだろ! 「昨日」の前が「一昨日」になるのだったら、一は昨の係数として見るのが自然だ(昨日はイギリスのground floorの要領で「零昨日」の省略とみなす。これもギリギリだからな)。一昨日から遡るなら、二昨日、三昨日……と増やしていきなさい。ムズムズする。出馬したくなってきた。日本社会は間違っている。
遡って日記を書いている間に、0時を跨いでしまった。だからこの日は二昨日ではなく三昨日になってしまった。
三昨日は、泣いた日だった。
確かこの日は凍えるほど寒くて、目覚めてからベッドで動けなかった。色々なことを考えて、死にたいと思ったのだ。死にたいと思った理由は、自分の身体を扱うことが本当に面倒だと感じたからだ。僕の身体はろくでもない。ほんの少しの冷気で、四肢は痛むか、痛いふりをする。生まれつき鎖骨がムズムズする。何か一つの考えに思い当たると、考えはそれに取り憑かれたかのように連想ゲームを始める。これは身体に対する意識もそうだ。歩いていると、鎖骨が急に気になってしまい、ミミズが這うような感触から逃れるために肩の筋肉が収縮する。すると、その伸びを補うために腰が固まる。身体が庇いあうように引き攣る。触れているもの———ソファの張った布面とか、布団のざらつきとか、空調のつくる風未満の空気の触感とか———それぞれを全身が過剰に受け取って、どうにかしようと騒ぎだす。
パートナーと一緒に家に住んでいると、テレビの音量が意図せずして変わることや、お互いの咳払いがもたらす意味とか、代謝のずれとか、知らぬ間に動いている家具とか、空間につねに脅かされるように感じる。僕を追い出そうとしているかのように感じる。ドアの開き具合に怯えてしまう。そのような境界線の震えを感じて、ベッドで一ミリも動けなくなってしまう。動かないことも、それはそれで頭痛や腰痛を際立たせてくる。
僕の場合、学校に行くことや、ゲームを作ることをやりたいと思っているけれど、身体のろくでもなさが、その実現の邪魔をしてくる。家を出るにしても、無限の手続きと緊張した身体の操縦、嫌悪感とそれを打ち消す作業が必要で、その途方もなさに疲れて、玄関にたどり着けないことがある。パソコンを開くときの腕の筋肉の気だるさ、デスクトップ画面を見たときの選択肢の多さに混乱する脳、マウスを動かそうとしたら、マウスが無い。どこに置いたかを思い出すために、記憶を探るのに疲れる。PCの駆動音に責め立てられる感じがする。マウスを見つけ、それを手に取るためには跨がないといけないコードがあることに気づく。足が溜息をつく。溜息をつくたびに、筋肉が減るような疲労感を感じる。
人よりも、動きや思考の面倒くささの程度が大きい。自分だけ水の中で生活しているんじゃないかと思うほど、一つ一つの身体動作に抵抗と引き攣りを感じる。考慮するのに必要な条件の多さに疲れる。食べることも嫌で、先延ばしにしてしまう。とにかく面倒くさいのだ。身体と付き合っていくのが。生きるのが。
そして、最近ChatGPTにはまって、その楽しさに感動した。執筆や整理など、身体性が求められる面倒なプロセスを委託して、僕はただ「撒き散らす」ことだけをすれば、それらしく充実した何かが生まれた。起きてから寝るまで、スマホかパソコンを触り続ける。歩かなくていいし、他者とかいう不確定性の塊との接触も必要ない。
これが他の何よりも苦しくなくて、幸せだった。学校に行くことや、散歩や運動をすることや、ゲーム開発をすることよりもよっぽど楽で、これだけ続けていることが僕の人生はもっとも端正で安楽に完結するのでは? と思ったんだ。
たぶん、こんな感じのことを思っていた。なにぶん三昨日のことなので、当時のドライブ感を思い出せないけれど、とにかくここまでの数日を通して、自らの身体性を希薄にする方向に希望を見たのだ。
それで、起きて、パートナーに「死にたい」といった。自然とそうなった。とにかくスマホだけいじっていて、腰痛も忘れて、自分のことも忘れて、カレンダーも忘れて、連続性をあまり意識しなくなかったから、寝ても覚めても今何がどうなってるのかよくわからなくなった。自己意識がほどけた状態で、身体の希薄化の安楽さを望んだのだから無理もない。どう考えても身体のオペレーションを辞める=死ぬことが、理に適っていた。
この流れをパートナーに話していたら、涙が出た。死にたいという思いだけがあって、その方法が思い当たらなかったのだ。具体的な手続きを考えると、面倒くさいし、怖かった。それでなんだか、夜の砂漠のような気持ちになって、涙が出た。
結局、ChatGPTとの共同の「何か」は生産と見せかけて、実は何でもなかったりする。それはわかっていた。生成AIは救済であると同時に、生を薄めていく静かな毒でもある。痛みも含めて、身体や他者や社会と触れ合っていくほうが、結局のところ、結局のところ、結局のところ、結局のところ、結局のところ、泣きながら空虚じゃないことに自分から向かっていくしかないのだ。それ以外の動きは、案外ないのだ。案外僕は、一通りでしか生きることができないのだ。
泣いたあと、またずっと横になって、スマホいじり続けて、全身倦怠感とスマホを支える手の小指の痛みでうんざりして、寝た。寝るのが一番好き。