四昨日
べらぼうな夢はあるか。四昨日は書きやすい。吉祥寺で飲み会をしたからだ。仲の良い友達グループ6人だ。上座から1,2,3,4,5,トロヤ。

当然ながらいろいろ話した。それを書けばこの日の日記は完成するだろう。
何の話をしたっけ。いつものことだけれど、性的な話をいっぱいした。ChatGPTに会話内容の要約を求めたら「性についての驚くほど開かれた共有」という見出しをつけられた。我々は性についての驚くほど開かれた共有をおこなったらしい。そんなに驚くほどのことなら、日記に書くのは避けたほうがよさそうだ。他の話を書く。
2が先日、マッチングアプリで知り合った男性に送られている車内で、嘔吐をしたらしい。ミスタードーナツを食べすぎたかららしい。2はその様子をスマホで撮影し、「ドーナツを食べてゲロを吐く私」という内容でドーナツを食べるところから吐くに至るまでの流れをまとめた動画を作り、5に送信していた。5はその動画を再生せずに、無視した。5は「そんなもの、普通見ないだろ」と言った。でも1と4と僕は見ると言った。3は見ないと言った。2曰く、動画の隅には、食べた数だけのドーナツのアイコンが表示されるようになっていたらしい。気の利いた編集。
何かの流れで薬の話になって、僕はパキシル(抗うつ薬)の服用量が減量していて抑鬱状態に陥る頻度はかなり減った、コンディションはなかなか良くなっていると話した(まあこの翌日に強烈な希死念慮に襲われることになるのだが)。みんなには良かったねと言われた。4の友人が、精神を病んで自殺したらしい。1の友人は、自殺未遂と思しき原因によって負傷して入院したと聞いた。最近、身近に産まれたり死んだりの話が多い。恐ろしい。これからもっと増えていくんだろうな。
話の流れで「僕としては、人が病んで命を絶つのはつらい。もっとみんな気軽に精神科に行ってくれーって思う」と言うと、5に「どういうタイミングで精神科行こうって思うもんなん?」と尋ねられた。僕は自分がなぜ精神科にかかったのかを思い返した。過去に三度かかったタイミングがあったけれど、三度目となる今の通院のきっかけは、美術予備校に通っていた時代だった。ある夜に堪えがたい絶望に襲われて、クリニックを予約したんだ。
たしかに5が疑問に思うとおり、精神科へのアクセスは、誰しもにとって普通のことではないだろう。僕はそのとき不眠で寝ることもできなかったから、すべての思考/行為が苦痛なのにそれを防ぐ手立てもなくて、やることが他にないから、くらいの理由で予約を入れた。でも人によっては精神科で診察を受けるという行為がそもそも選択肢に挙がりすらしないこともあるだろう。「つらい」とか「怖い」を病気や障害として解釈する回路は「風邪ひいたから内科行く」ほど市民権を得ていない。精神の違和を共有可能なものとしてラベリングすることは、他者に対して当てはめると差別的な暴力になりうるし、自分に与えることはセルフラベリングとして甘えだとか言われたりする。肉体は「これが健康な標準ライン」という指標が見えやすいために、不調も自覚しやすい。一方精神はそれが見えづらいし、そもそも観測や判断を行うのが精神そのものである(と多くの人は考えている)から、不調の判断をいっそう難しくしていると思う。
だから、絶望や疲労に苦しんでいる人ですら、医療にかかるという手を選べずに亡くなってしまうのは悲しいけれど、実際よくあることなのだろうな。現行の医療では、うつ病は脳の炎症とされている。精神科はもっと気軽に行っていいと思う。「なんだか辛いけど、これが精神科にかかるレベルのものなのかわからない」なら、それを聞きに精神科に行けばいい。教えてもらえるから。保険降りるし。ラベリングの暴力性を警戒する姿勢は大事だと思うけれど、僕はそれ以上に、治療や制度的支援へのアクセスを可能にするというラベリングの果たす仕事の重要さに無頓着すぎるスタンスのほうを警戒すべきかと思う。時にはセルフラベリングをしないことのほうが、個性という殻に閉じこもり、自分の違和の言語化をさぼる甘えのように見える。
と、僕はこのように、理念としては思っているのだけれど……。言うほど精神科は気軽にかかるれるものでもない、という現実もある。解決に結びつかない診断をされることもあるし、診断を敢えてつけようとしない医者もいたりするし、信頼度の高いクリニックほど予約がいっぱいで新規患者を受け付けていなかったりする。あとクリニックによって取り扱う分野が異なる(社会人の適応障害向き、女性向き、カウンセラーとの連携の有無、統合失調症特化、発達障害向き(コンサータ登録医)、採用する療法)から、自分にマッチするところを選ばないとだめだったりする。だから事前にある程度情報収集して自己診断する必要があるわけで、運やリテラシーに依るところがある。全然簡単じゃないな!
あと何の話をしたっけ。腰痛の話をした。僕が「今も湿布貼ってるよ」と言って服を捲って背中を見せたら、「無い」と言われた。筋トレしろと言われた。4と5がパーソナルトレーニングの有用性をめぐって言い争っていた。
5に「素朴な疑問なんだけど、トロヤってなんでそんなに変なの?」と訊かれた。ここで言われた「変」とは、僕の話す内容や展開が突飛であること、倫理や美的感覚、快楽の基準、行動や考え方が一般的ではないことなどだと思う。なんと答えたかあまり覚えてないけれど、まあそのように生まれ、そのように育ったからだ、ということを自分で考えられる範囲で具体的につらつら説明してみたと思う。
完璧に説明するにはそれこそ生い立ちをすべて語らないといけないし語り尽くしても説明しきらないとは思うけど、ある程度まとめることはできた。「構造の変さ」については、僕の思考は意味的に遠い距離にある複数の森羅万象をバードストライクみたいにぶつけて連想するみたいな、たぶん抽象化や構造化(?)の能力が強いことがあると思う。タグ参照するみたいにアイデアを取り出すので、メタファーを扱うことが得意だ。その思考回路や言葉への出力がとめど無かったり空転しがちだったり実行機能が悪かったりするのは、ADHDでドパミンの抑制が効きにくいからだ。「内容の変さ」については、少年期がごちゃごちゃしていたので自他境界が曖昧なまま育ち、過剰な自意識や自己嫌悪がベースの考え方で長年やってきたせいだ。何が気持ちよくて何が恐ろしいのかが、いびつなのだろう。あとASD傾向とおぼしき感覚過敏があるから、変に細かく見ていたりする。
このくらいは類型的に説明できると思う。ここまでは、変のなかでもよくいる変さということだ。「トロヤってなんでそんなに手が震えてるのか?」とも訊かれたけど、それは体幹が弱いからで、元を辿ればそれもドパミン関係の何たらかんたらだと思う。プルプルも、ゆらゆらも、クネクネも、子供の頃から姿勢維持ができずインナーマッスルが育ちにくかった者にありがちな状態だ。常に振動している者って、クラスに一人はいたはずだ。
それら類型的な性質に併せてあとは個別的な、環境とか出会いとか、触れてきたコンテンツの影響みたいなのが組み合わさって、今の僕が仕上がったのでしょう。自意識過剰で抑制的な中学時代を過ごしたせいで性質的にミスマッチな交友関係を築いた経験があったり、セクシャリティの関係で性的に驚くほど開かれた体験をしていたり、出会った友達———それこそ1,2,3,4,5など———とのコミュニケーションで培われた個性もあるでしょう。あと、生まれつき腰椎が分離しているらしいぞ。
こういうのを説明しようとして、気がつけば僕一人がずっと話し続けていた。みんな「なるほど」みたいな顔をしていた。僕もなるほどと思った。
二次会で、5に(5は二次会でも5の位置にいた)僕の命の心配をされて、「トロヤって、生きる目標みたいなの無いの」と訊かれた。僕はとくに無いかなと言ったけれど、そのあと「強いて言うなら、感触を確かめたいみたいなのが幸せかも。例えばえっと、俺は今右手で箸を握っているわけだが」と言って右手を緩めて箸を落とした。「このような、箸を落としたら、このような角度で突き立つ、とか、箸と指の股のところにできる四角形があるなーとか、ここに寝そべっている箸との突き立っている箸の間の微妙な緊張関係みたいなのを、こう入力したらこう出力されるみたいなフィードバックを見ると、嬉しいなと思うので、その嬉しさを得て行きたい」みたいなことを言った。5はわかんねーと言った。
「『こうなりたい』みたいなのって無いのか。俺はそれを叶えられるなら死んでもいいってくらい『こうなりたい』っていう、明確な、一つの目標がある」と5は言った。なんでそうなりたいのと訊いたら彼は「直感」と言った。僕は「そういう意味では俺も同じかも! この四角形を見ていいな〜って思う、直感」と言ったら、いや同じじゃないと言われた。「ゲームだったら、こういう作品を作りたいとかさ?」「それは無いかな。俺が作りたいと想像するゲームと、能力的に形にできるゲームにはギャップがあるから、理想のゲームを作るのはわりと諦めている。それに、何かを確かめるためにある作品をつくったとしたら、その作品から新たな未知や未踏の部分が見つかると思うので、それを埋めるために次の作品をつくることになるんじゃない? そのため敢えて生きる目標というのをいうなら、ある達成点ではなくベクトルのような表現になるかな」
みたいな話をした。5がいつも以上に僕の構成に興味を持っていたから、この日は自分の話をよくした。
帰りに1と二人で電車に乗ったとき、彼が入院した友人の見舞いに行ったという話を聞いた。1はそのときのお見舞いという自分の行動が、見返りを求めない純粋な利他の動機によっておこなわれたことに気づいたと言う。それは彼としてはとても意外な回路だったらしく、「愛というのは、こういう心を言うのかもしれない」と考えたらしい。良い話だ。僕はそのような純粋な体験をしたことがないかもしれない。失神して頭を打った祖母が救急搬送されたときも、駆けつけた救急車を見て「救急車ってすべての扉が閉まるとこんなにもすべすべにまとまり、とりつく島もないくらい自閉的な印象を纏うんだな」などと、祖母の安否以外のことをちらほら考えていた。
そんな感じ。楽しかったな。今日は僕の変さの話になったけれど、僕から見ると4も相当変だと思っている。4の変さはかなり生産的な方向に働いているので、僕のようにグジュグジュ内省に時間を割いていないだろうから、それゆえに語ることすら跳ね除けるような爆発的な天才性を感じる。4の周りには同じようなタイプの人がいるのかもしれないけれど、僕の交友関係には、4のような人は唯一無二だ。トロヤの知り合いの中で、一番変わった人は誰かと訊かれたら、僕は4を挙げる。
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