君に遅くないって言ってほしいんだ。 俺、君にいい人だって言って欲しいんだ。 俺は自己中でナルシストでヤケになるけど、でも俺も根っこのとこはさ、いい人なんだ。 君にいい人だって言われたいんだ。
【※】この記事にはお花を持っていかないで下さいが出る。
時計の目覚ましで14時に目が覚めた。14:50に歯医者の予約があったが、行けなかった。「行かなきゃ。行けない。行きたくない。行かなきゃ」と唱えながら時計を見つめて、14:15になり、14:30になった。「行かないにしても電話しなきゃ。電話できない。電話かけたくない。電話。しなきゃ」と唱えてスマホに手をのせて硬直してるうちに14:45になり、15:00になった。クリニックのほうから電話がかかってきた。
受付の方に、今日は行けそうにありません、キャンセルの連絡もできず、本当にすみませんと言った。振替の予約日程はいつにするか、と訊かれた。僕は、最近転居したことと精神状況が悪い関係で予約した時刻にちゃんと伺う自信がないため、いったん定期メンテナンスのほうはストップさせてくださいとお願いした。
パートナーの家に越してから歯科クリニックがバスに乗る必要のある距離になったので、計画的に動かないと辿り着けなくなってしまった。前の晩に眠りに就く時刻からマネジメントしないといけないくらいだ。精神科のほうはいくら遅刻しても問題ない(一応時刻は指定するけど、その日中に来るなら守らなくてもいいよーというシステム)ようになっているので、目覚めてから身体が自然に動きだすのにあわせて出掛けられる。一方歯科のほうは、10分以上遅刻すると次の患者の診察枠に影響するため自動でキャンセルさせられてしまう。今の僕にはこれを守ることが厳しいらしかった。近場で別のクリニックを探そうかな。

ギリ散歩した。曇天で今にも雨が降りだしそうだった。多摩川まで行こうとしたけど帰り道を想像できなかったので小回りして家に帰ることにした。

お花を持っていかないで下さい。
本屋に寄った。何も買わず帰った。
ロサンゼルスに住む中年ウマ男の人生を描く『ボージャック・ホースマン』最終シーズンの最終話を見終わった。どうしてもっと早くこのアニメと出会わなかったんだと思ったな。今の自分が出会ったからこそ? いや、違う、やっぱもっと早く出会いたかった。何歳の僕が出会ったところで、ボージャック・ホースマンはそのときの僕に必要なことを然るべき物語として教えてくれて、そのときの僕の心を震わしただろうなと思う。一度出会ってしまえば、あとはいつでも思い出して、照らし合わせて、引くことのできる聖典として、僕の人生に並走してくれていただろうなと思う。だからもっと早く見たかった。
今日から、一番好きなアニメは『ボージャック・ホースマン』です! と言うことにしようかな。宣伝にもなるし。好きなアニメは無数にあるなかでも、ボージャックに対して抱いた好きのかたちは、アイデンティティと紐づけたい感じの、長持ちする感じの、人生の伴侶とさせていただきたい感じの、好きだった。一番と言いたいアニメだ。終わってしまい心がぽっかりしている。ぽっかりをくれてありがとう。本当に良かった。良かった! です!
英語音声で最初から見直すかもしれない。リスニング教材。

キリンが多い。
好きなアニメは何?の話になったとき自分がよく言うのは、エヴァンゲリオン、電脳コイル、リック&モーティ、響けユーフォニアムとか……でも思い返せばあれも好きだったなーみたいなやつは他にもいくつもあるし、原作のあるアニメは原作由来の良さとアニメとしての良さの比重が気になってくるし(その比重をわざわざ明らかにしてまで評価するものでもないし)で、このアニメが一番好きですと、バシッと熱っぽく言い切れるものは無かった。しかし、今日見終わったボージャック・ホースマンはとても言いやすい。素晴らしくて、かつ一番好きと言いやすい素晴らしさだった。愛着が湧くだけの分量があって、テーマが普遍的かつ強度があり、表現とセンスが僕の興味関心にマッチしていたし、その領域を刺激して、拡げ、僕の想像を育ててくれた。まさに僕が一番好きと言えるような作品に出会ったみたいだ。
と、いう、浪漫的な感想に終始してしまうような、アニメ。だった、んで。Netflixで見れるんで。具体的にどう優れていたか、などの踏み込んだことは、布教したいわけでもないから、書かない。6シーズン追いかけて視聴したアニメを総括した感想を書くのは面倒。オモロイドって感じです。いつか何か他のことを考えてるときに、引き合いに出すかたちで思い出しながら考察しそうだな。なにせNetflixで見られるので。
でも、さすがに日本のアニメ文脈と一緒くたにするものでもない? やっぱ別枠で、エヴァも好きですとか電脳コイル好きですとか言ってるかも。好きなアニメの話をするときの「アニメ」はいったいどのスコープでのアニメのことを問うているか、曖昧なところだ。親友と「ドラマと映画は、見分けがつくか」の話をしたのを思い出した。うだうだ。トロヤがうだうだ言ってたら無視してください。
Death the Guitarを良い作品にしたいなと思った。月並だが、時折、この世って面白い本とか映画とかたくさんあって最高だなと思う。あまりに乱暴な認識だけれど、そんな事実にうっとりしたりして、「生きててよかったー」などと口に出してしまう。近視眼的な陶酔だ。でもその陶酔は「生きててよかった」と口をついて言っちゃうくらいのでかさがあるわけで、それは個人的にすごい効能だと思う。そういう恍惚のとき、ごく自然に、自分が制作するものもその素晴らしさの一部になれたらいいなと、考えるわけ。Death the Guitarを良い作品にしたいと思うわけだ。
完成させたいと思うわけだ。
思って、思い、
思うだけで、
ア”ーて
ナ”ーて
このへんで「生きててよかったわけないだろ💢」と思い直す。
慣れている。ぜんぜん大丈夫です。これはあまり関係ないことなので。メッシュの粗い幸福なんて、すぐにこのようにア”ーてナ”ーて消える。知っている。持続可能な本当の幸福というのは、少しずつの、受容や諦め、予測や挑戦、手ごたえや納得感を、連続的な自分の履歴のなかに丹念にチマチマ織り込んでいくことで醸成されるものだ。急激に視界が晴れ渡ることなどない。そんな空は、同じように急激に曇る。
本当最近、目が疲れるなーとか腰が痛いなーとかくらいで、思ってないんだよね他に何も。思ってないんだよね思ってないんだよね思ってないんだよね思ってないんだよね思ってないんだよね何も。
それは違うか。たぶん今、ちょっと鬱っぽいのだと思う。素晴らしいアニメを見て心が震えても、数刻後にはいつもどおり鉛のように横たわって、目につくものに呪詛を吐いている。ヘへ。大丈夫だ。そのことは別に何も示唆しない。何も毀損されていない。作品は頓服薬ではない。まったくおかしなことではない。作品が存在することの、頓服的でない効能を信じられる。その認識は確かだ。その確かさが、僕の知っている幸せの重要な手掛かりのひとつだ。
今鬱っぽいことについても、粛々と対応する。とりあえずたんぱく質を補給するためにヨーグルトを食べる! 死ねヨーグルト!(皮肉にも、生きたまま腸に届く)
食べた。次は無印の温かいマサラチャイを淹れて、代謝を促進しつつ香りに集中して循環的な思考から距離を置こうかな。飲み物を飲むことも好きだけれど、僕はそのためにガスコンロで湯が沸くのを待つ時間がとても好きだ。コンロの火と音が美しいんだ。その時間を長引かせたくて、やかんに不必要に水を多く入れたりする。パートナーの家のキッチンには、ちょうどいい位置にコンロの火を眺められる椅子が置いてあって、運命を感じる。僕は腰かけて、学芸員みたいに火を見る。大阪の友達の家に泊まったとき、コンロの火が青すぎて笑いが止まらなかったことがある。あれより青い火、見たことないな。あと火の形も妙に細かく妙に均等だった。なんだか全体的にださかった。火がださいことってあるんだ。
マサラチャイ飲んでいる。
そういえば、Discordにボージャックホースマンのこと書いたら、会社の人が一人「僕もボージャック好きです」と言ってくれて、うれしかった。馬の絵文字のリアクションもつけてくれてうれしかった。
飲み終わった。甘かった。
うれしかったことを一つ書いたから、最悪も一つ書こうかな。さっきスマホが急激に熱を持って、すごく嫌だった。ただでさえ存在が憎いのに、物理的にも干渉して来るので許せなかった。アチアチと持ち手を変えながら、それでもスマホに文章を打ったりタイムラインをスクロールする自分にも呆れた。
スマートフォンが憎い。報酬系を脅かす即物的コンテンツを陳列するインターネットそのもののよりも、それらへの即時アクセス権を人々にあまねく提供して、まるでインフラでーすみたいなふうにポケットに収まっちゃってるスマホのほうが邪悪に見える。インターネットがきもくなったのも、スマホという媒体への最適化を重ねた結果だ。思考は身体規格に依存する。現代のSNSもソーシャルゲームも設計思想がやばくなっているけれど、その設計思想はスマホという長方形が発明されてしまった以上、導き出されないほうが難しかったのだろう。
スマホが熱くて嫌だったって書こうとしただけなのに、気づいたら凡百なメディア批判みたくなってしまった。僕がこんなことを考えても、仕方ないよなー。ここからどう展開したところで「資本主義のせい」に行き詰まるのが目に見えていた。僕にはそれ以上のことはわからないだろう。早いとこ切り上げたほうがよさそうだし、考えるにしても、もうちょっと地に足の着いたことを考えたいよね。スマホが当たり前のものになった今の時代はまあ仕方ないものとして、この現状で少しでもましにするために、メディアリテラシーや開発者倫理をどのように啓蒙していこうとか、報酬系が弱く中毒状態になりやすい者が次々に社会から振り切られていくので、その受け皿をどうしようとか……無理だ。僕やっぱりこういうの考えるの、向いてない。知識不足だし、面白くない。
しかし、ゲームクリエイターなんぞ現代人の報酬系をデザインする主犯格的存在なのだから、開発者倫理の観点で言えば先陣を切って考えなければならないのでは……いいや。考えません。僕は知りません。僕はそもそも自分がゲーム作れてないんだ。他人の報酬系の心配をする前に、自分を救ってくれ。まだ地に足が着ききってない。
僕にわかるのは、ガスコンロの火と、スマホの熱が、どのように違うかということだ。これに関しては、人より詳しい。
書いてないだけで、住んでいる街の特徴や魅力とかも、本当はみんなよりたくさん知ってるし語れるんだよ。あと自分の身体についてもよく知っているよ、たぶん。可動域とか、皮膚や粘膜のフィードバック感とか。内視鏡使って耳掃除してるから外耳の形状も知っているし。頭蓋骨の形状は、つい最近知ったばかりだが。
今日は日記でDeath the Guitarの開発の考えをまとめようと決めていたのに、結局今日も何もできなかったことも知ってる。なんでも知ってる。