アクチュアルを愛して

2025 - 05 - 02

さっきのNotebookLMの音声で「プログラミングも独学なんですって」と感心されたよ。

展示イベントとかでも、お客さんとのやりとりで「プログラミングはどこで習ったんですか? へぇ独学なんですか、すごーい」という流れがよくあった。そのように褒められると、自分は本当に独学という扱いでよいのか自信が無くなってくる。YouTubeの解説動画とか、チュートリアルは適宜見てるけど、これは独学?

職業プログラマーの人などは、年がら年中自習したり、勉強会に参加してしているイメージがある。独学しないプログラミングというもののほうが、よくわからない。寿司職人やバレエダンサーみたいに、スペシャリストに師事して下積みの果てに習得する技芸みたいなイメージを持たれてたりするのか?

数学や英語みたいに、学校の授業的なカリキュラム学習によって身につけるもの、みたいに想像されてるのかな。実際そういうスクールはあるっぽい。何をどのように教えるんだろう。テストを受けさせられるのかな。それとも美大みたいに「(プログラミングで)何か作れ」と課題を出されるのかな。後者を独学じゃない学びとするならば、僕は大学の課題のためにゲームを作ったことも多いので、独学じゃないことになるのか?

高校まではカリキュラムに沿っていればよかった数学や英語も、大学でそれらを究めていく人々は「(数学/英語で)何かしろ」という課題にぶつかっていく必要があるんだろうな。

あるいは、簿記や自動車教習所みたいな認識に近いのかもしれない。社会人的なスキルは資格試験とセットなことが多いし、プログラミングも教本やスクールを通して、免許皆伝されるものと思われているのかも。

僕はゲームやサイト作りのために必要な知識だけを逐一調べてぺたぺたしてきただけだから、自分にスキルらしいスキルとして「プログラミングスキルがあります」と胸を張って言っていいのかわからない。最近はChatGPTに「これどうしたらいい。書いて」って頼むところから始めるし……。

でも同時に、必要な知識はその都度調べたり学べばいいのだから、もはや僕は受注案件的なプログラミングは何でもやれるんじゃないのか、みたいな根拠のない万能感も感じていたりする。「今すぐにはできないけれど、できるようにはできる」と認められる潜在性も「スキル」に数えてよかったりするんだろうか。

しかし……プロ案件の現場を想像すると、やっぱり今の僕に「プログラミングスキルがある」と言うのは無理がある。仕事って、要件が途中で変わったり、他の人のコード読んだりマージしたり。あと「できるようにはできる」と言っても、一週間でガラス職人にはなれないわけで、必要な成長を納期のあいだに済ませられるのかが大問題だ。根深いバグに対処したときとか、経験値や知的スペックに依存する本当にどうしようもない「できなさ」にぶつかって、泣いちゃいそう。

僕はプログラミングが好きで、やってるあいだは楽しくて仕方ないんだけれど、その楽しさは必ずしもプログラミングによってしか得られないものでもないなと思う。プログラミングというより、情報の授業が好きかも。ものごとをいかに構造化してラベルをつけるかとか、何を無視して何を注視するかとか、一般と特殊をどう使い分けるかとか、情報の流れや手続きにはどのような論理や倫理が組み込まれているのかとか、を、考えるのが楽しいです。

お仕事のプログラミングとなると、そのようなおもろさとは距離のある「実際のところ」の限界に、ぶつかっていかなきゃいけないのだろうな。

「実際のところ」のことも、それはそれで好きだけど。身体が思うように動かないこととか、パソコンでずっと作業してると熱を持ってくることとか、この世のすべてのゲームを遊ぶことはできないこととか、知らぬまにスマホの回線が未払いで通信停止になっていたことにさっき気づいたこととか、どうすればいいかわからないからサポートセンターに連絡しようにも、そのためにはログインのために電話番号を用いた二段階認証をしなければならず、その電話が停止されているからログインしようがないこととか、今やれることといえば実家に届いていると予想される払込票を取りに行くことであることとか、しかし実家の鍵を失くしてるせいで実家に行くなら家に誰かいるかあらかじめ確認をしないといけないこととか、でも電話が停止されてるから実家に連絡することもできないこととか。

好きではないな。絶対好きではねえ。許せねえ。暴れてえ。だが、この暴れてえやるせねえアクチュアリティを肯定するゆるやかな器みたいなのが、僕のなかにはすごい大事に配置されている。これが愛してるという気持ちなのかもしれないと思った。好きの反対は愛してるだと思ってみた。

僕はこの世界にはびこる暴れてえ実際的オブジェクトや実際的シーンを肯定している。ともすれば、愛している。

実際的ならなんでも愛せるわけではない。愛の器にも容量がある。モバイルデータ通信が停止されるのは良いけれど、一部のものは、僕にはどうしても実際的すぎて受けきれない。気温、騒音、蝉、焼肉の煙、言ってくる他者。「視野狭窄だよ。父ちゃん母ちゃんの人生めちゃくちゃにしたいの?」と言ってくる教習所の教官は、すみませんが愛の外(がい)で、無敵の笑顔で荒らすメディアといったところか。