15時に起きて、朝食摂って、何もせず、昼食摂って、本読んで、喉が痛かったのでVICKS Medicated Dropsを舐めて、リングフィットアドベンチャーをして、夕食摂って、何もせず、2時になった。
とりあえずPCは立ち上げた。もしかして、頭が痛いかもしれません。
仕事をせず昼間から寝そべって、テレビを見ながらタバコを吸い尻を掻いて一日を終わらせる、昭和のろくでもない親父的なステレオタイプ。じゃりン子チエの父など。あれって、僕のような人間のなれ果てなのか。親父はたいてい腹巻を身につけているが、僕も腹巻をつけている。
もう今日は諦めて薬を飲むか、コーヒーを飲んで切り替えるか、どちらか選びたい。しょうもなマトリックス。その二択なら薬だね。今のこの頭・腰・喉の痛みを認めないのは無理がある。薬飲んだ。
『教皇選挙』でも明らかだった「保守」vs「リベラル」という構図。リベラリズム(自由主義)はもとは絶対王制における君主の権力からの自由を目指したもので、リベラリズムが国家を掌握すると、税制による富の再分配(福祉制度)に積極的になる。このように別の形で国家権力が現れる。そのような国家による介入すらも自由を阻むものとして拒絶し、より過激に個人の自由を追求するのがリバタリアニズム(自由至上主義)になる。
アメリカではむしろこのリバタリアニズムの方が伝統的な価値観として「保守」側に立っている。逆に「リベラル」は大きな政府による弱者救済、平等を重視している。自由の国というだけあって、自分の力で生きろ的な発想のほうが、右翼として位置づけられるんだね。面白い。
アカデミー賞ってだいたいリベラルな内容の映画に与えられる印象があるけれど、共和党の人たちはハリウッドの映画産業についてどう思ってるんだろうか。
ハリウッド映画に限らず、何か作品を見るとき、基本的にリベラルな内容を是とする評価基準がある気がする。それが自分にも内面化されている気がする。「抑圧された声を拾う」「マイノリティの視点に立つ」「権力構造を問う」といった要素があると、ポイントが高く見える。何目線なんだ。これを美的な鑑賞行為に置き換えると、今までになかったもの、既存のものに対するメタみたいな表現がイイと感じるのは自然な気がする。政治的なメッセージも、その「新しい表現」に包含されて、僕の目に映るのだろうか。批評界とか賞の存在によって、政治性の評価軸も含んだ鑑賞箱が僕のなかに植えつけられてるのかな。
たまに不安になる。小説はあまり囚われずに読めてる気がするけれど、映画はなんだかどれも政治性を纏って見えて、知らぬうちに何かを背負わされるような。タランティーノとかアリ・アスター見ると倫理の香りが少なくて安心するけれど、この監督はノンポリっぽくて好きなどと言うのもそれはそれで軽はずみな気がするし、実際軽はずみなのだろうな……でも、この作品が良いと言うだけで、作品(あるいはその制作者)の立つ政治的ポジションへの支持表明としてとられるのは嫌すぎ。現実に、コンテンツ業界ではそういうバトルが起こりまくっている。
パートナーにこの話したら「寝そべり族」というのを教えてもらった。中国の苛烈な競争社会に嫌気が差した若者層を中心に流行っている思想で、出世や家庭といった野心を捨てて、いっぱい寝そべってだらだら生きようという主義らしい。
Xで睡眠を神事とする新興宗教を作ろう、みたいな流行りがあった。信徒は「スヤリスト」「寝徒」と呼ばれる。聖地を「ネルサレム」とするというアイデアが出たときに、しっかり怒られてた。バズとして消費された一時的な興隆に終わったと思うけれど、いま日本はもっと睡眠をちゃんと摂ろうみたいなリベラル(?)の動きがまさにあるから、無理がなかった。
布団に向かうとき、眠りに落ちるときに、自分は道徳的に善いことをやっていると感じるのは素敵だと思う。堀江貴文が「野菜は美味しいから食べるの」と言ったように、行為はなるべくそれ自体が自己目的化しているほうが、なんというか偉いと思う(ホリエモンは偉いと言われて切れたのか)。やることまだやりたいけれど、体力が果てたから仕方なく……みたいに消極的睡眠に向かうことは、貧しい。
書いてたら寝落ちしてしまった。寝落ちも貧しい。恥ずべきことかも。ネソベリズムと書くと途端にフレデリックのそういう曲っぽくなった。