眠れなかった。怒りながら登校。
卒業制作の審査会だった。学科の教授陣の前で、一人一人制作内容をプレゼンして、質疑応答をおこなった。普段関わりのすくない異なるラボの教授からもコメントを受けた。
僕のDeath the Guitarプレゼンは、滞りなく終わった。質疑で2点ほど指摘を受けたけれど、どちらも僕にとってあまりクリティカルな問いかけではなかったので、適当にウィーッスみたいに返答した。僕の課題はやっぱり、ひたすら手を動かすことだなと思った。
学科の友達のcさんの発表も見た。「私とフライドチキンはどちらのほうが価値があるか」「あなたとフライドチキンはどちらのほうが価値があるか」という旨の質問を起点にしたインタビューを周辺人物?におこない、その対話ログを活かしたインスタレーションをつくる予定らしい。
cさんとしゃべった。彼女は僕のことが好きらしく(「作品が好き」(“だから”?)「好き」と言ってくれている)、彼女に「トロヤくんにも」と頼まれて『私とフライドチキンはどちらのほうが価値があるか』の卒制企画のインタビュイーとして僕も協力することになった。cさんと話すのは楽しかった。僕は大学の友達というのがそもそも数少ないなか、cさんには類は友を呼ぶといったたぐいの通じ合う何か(言語化できるけどしない)があると感じていた。話したさが立ち話で済む域を超えてきたので、僕は「一緒にご飯でも食べる?」と誘ってみた。僕たちは審査会の会場を抜け出した。
こうやって書くと『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』みたいだけれど、cさんが僕に言う「好き」はいわゆる恋愛的な好きではない。取り越し苦労かもしれないが、このようにフォローしておいたほうが、彼女に余計な心配をかけずに済みそうだから書いた。? 彼女はこれ系の誤解に怒っていたから。
僕個人的には、そんなフォローくだらないと思っているけれど。だって他ならぬcさんが「好き」も「恋」も「愛」も彼女なりの独自規格で運用しているようなので、僕が「恋愛的ではない」と強調したところで、それはいったい誰が納得する前提の誰に向けられた「ことわり」なのか不明だからだ。僕は「恋」も「愛」も、それ自体が何かということに、40%はわからなさ、60%はどうでもよさを感じている。cさんの規格にも、一般的な意味あいにも則る気はあまりなかった。
そしてもうひとつ、もし誰かが何かの「ことわり」のつもりで「この/あの関係は恋愛的ではない」と言いきるとき、それはフォローどころか、とっても危険な発言だと思っている。だって、そう口にすること自体がある種のアウティング行為になりうるからだ。この意味がわかる人ってどのくらいいるんだろう。
こうしたもろもろも含めて、含めてまあ、最終的には、書いた。「恋愛的な好きではない」と。めんどくさいなー。恋や愛の定義論なんてくだらない。くだらないけれど、人々が実際に語として使いこなして、他者間の個別の関係にしばしば適用しちゃってる以上、それをふまえて僕なりの誠実さで調整の反発力を働かせていかないといけない。という思いが……
ない。ない。
ないないないないないないないないないないないないないないないないないないないない。
くだらねー!
僕も勉強不足だ。この問題は、一度ウィトゲンシュタインの入門書とかを一冊くらい読んでから考えはじめるべきだ。そのほうが早いと思う。自分の頭の中でコネコネだけして何かを見つけようとするのは、遅いうえに、車輪の再発明。
そんな感じ。そんな感じ? どんな感じ。
cさんと食堂に行った。

食堂で僕たちは、もうそれは、めちゃくちゃ話が盛りあがった。何時間話し込んだ。
僕が知らなかった、cさんの過去や考えごとなどをたくさん教えてもらって、興味深かった。彼女から出てくる情報は、一つ一つが僕からするととんでもなくシリアスな内容で、cさんは、こういったシリアスさを開示することによって相手から同情されること(あるいは同情を誘っていると相手から思われること)を嫌がっていたが、僕としては同情しないほうが無理だった。どうしてこんなたいへんな境遇で暮らしている人が、なんだ、なんだろう、境遇それ自体の痛切さにとどまらず、そこから二次的にも三次的にも、はちゃめちゃな苦痛に見舞われて生きないといけないのだろうと思った。どうして彼女が幾重にも自分自身を責めることをしなくてはならないのだろうと思った。
一緒に青空文庫で宮沢賢治の『毒もみ好きの署長さん』を読んで感想を話しあった。
話しすぎて、疲れた。終始喉がからからで、水筒に二度水を汲みなおした。終盤、僕が疲弊して露骨に頭が回らなくなっていることを、cさんに見抜かれた。頃合いだねってことで、我々は別れた。
帰ろうとしたら、自分のポケットの中からカードケースが失くなっていた(あたかも自然現象のように言う)ことに気づいた。またか。僕は心当たりの場所を順番に辿っていった。審査会をおこなったホールの座席下に転がっていたのを見つけた。回収した。ホールでは、さっき抜け出したまだ審査会の続きがまだおこなわれていた。出ようとしたところでcさんとすれ違った。手を振り直して、傘をさした。改めて帰った。
疲れて爆寝。
ちょっと起き。
もしcさんの卒制計画がこのまま変わらなければ、僕は今年度中のいつか、彼女からインタビューを受けることになる。「私/あなたとフライドチキン、どちらのほうが価値がありますか?」みたいな質問に僕は回答することになる。
予告され、打診された以上、僕は今この質問に自分はどう答えるか、事前に考える権利がある。権利っつーか、普通に歩いているだけで自然と考えざるを得ない。もちろん実際のインタビューでは対話形式により想定外の展開に転がっていくだろうから、これから考えることがそのまま彼女の作品に反映されることはないと思うけれど。書いておこう。
[質問]あなたとフライドチキンは、どちらのほうが価値がありますか。
まずは、質問の意味がわからない。DDRでどちらが高スコアを出せるかという価値であれば、確実に僕のほうが価値がある。食べものとしての価値であれば、チキンのほうに軍配が揚がると思う。
でも、そのような個別的な基準での検討とは違う、総合的な「価値」……すくなくとも僕とフライドチキンそれぞれを全体としてまるっと比べて、[質問]に「こっちが上です」と答えられるような「価値」が存在する=それについて考えられるとは、僕は思わない。逆に、あなたはそのような「価値」が存在すると思うのですか、と質問者に尋ねてみる。
質問者が「(そのような価値が)存在すると思う」と答えたら、僕は「それはもう私と前提がぜんぜん違うことになるので、[質問]自体に価値がないと思います」と言う。
「存在しないと思う」と言われたら僕は「Uh-oh.」と言う。どちらにせよ[質問]自体にはノーコメントでフィニッシュするしかないと思う。
実際には質問者も、この[質問]が変で、論理的には壊れた問いだと理解しているんじゃないの。その上でなお質問者は[質問]に価値があると考えているのなら、たぶんユーモアか詩か心理的な実験か、そういうたぐいの破綻を意図的に「とっかかり」として提示しているのではないかと思う。[質問]それ自体よりかなり遠いところに、別の狙いがある。
反対に、質問者が論理的な壊れを理解しておらず、真っ直ぐな目つきで[質問]の価値を認めているらしき場合は……質問者はかなりナイーブか、考え足らずか、あるいは認知が歪んでいるんだと僕は思う。きっとユーモアとか詩みたいなやつに対するなにか極端な理想化をしていて、それを自身に暗示している。そしてその個人的な理想化空間を、インタビュイーに対しても押しつけてきている。
いずれにせよ、質問者のなかにある狙いor偏りのほうが気になってくる。だから僕としては、[質問]そのものへの回答は避けて、「どうしてそんなこと訊くんですか」「なんでフライドチキンなんですか」みたいな感じで、いろいろ対話して相手のことを知っていきたいなと思う。そうしたら楽しくなると思う。
だとしても、僕はカウンセラーではないし、質問者と相互理解に至りたいとも思ってないし、最初から破綻している問いを繰り出されたのだから誠実さをもって対話を維持しようとしなければならない義理も感じない。インタビューという形式をとられる(僕の発言が、質問者の作品に回収されて、公開される)以上、質問者側のほうがある種の責任をまとっているはずので、対話内容があまりにもくだらなかったら、僕は暴れて沈黙して帰宅する。
そのような。次第。
実際には質問者はcさんだから、さすがにくだらなくて帰るということにはならないだろう。彼女とはずいぶん話したから、[質問]の内実はなんとなく察しがついている気もする。だからこの問いは早々にうっちゃって、また今日みたいに喉がからからになるまで目的なく話し尽くすことになりそう。
そのことが、彼女の作品の狙いにどのくらい寄り添う収穫となってくれるかどうかはわからないけれど、それは僕が心配することではない。
な。
やっぱり疲れて、爆寝。