理想の日

2025 - 06 - 04

最近寝過ぎて一日ぶん何もなくなっちゃった。昔、理想の一日を毎日過ごすようにしてみればいいんじゃないと言われたのを思い出したから、嘘だけど理想の一日の日記を書いてみる。

何時に起きればいいんだろう。理想の起床時刻とかない。『マイプライベートアイダホ』みたいな心当たりのないファストトラベルの感じが好きだから、なんか前日にものすごい重労働をさせられて、帰り道に疲労困憊で倒れたという設定にしようかな。それで、目が覚めたら知らないところにいた。

目が覚めたら畳で、すごく騒がしい。宴会場のようで、知らない人たちがガヤガヤと、並べた長テーブルの周りに座布団を囲んで、飯を食っていた。隣にいたよくわからないおじさんのスマートウォッチが光って、午前11時だとわかった。振り返ると縁側で、これまた知らない子供たちがしゃがんで泥に棒を突っ込んではしゃいでいた。

僕は何が何やらという感じで、ぽかーんとする。顔が畳にずっと押しつけられていたので、血流が。むくんですごい不快。

僕が目覚めたことに気づいた隣のおじさんが「おお、起きたか」的なことを言う。説明を求めると、いや、俺も知らんと言われる。「たぶん誰かがあんたを運んできたんだろうけど、俺が来たときにはもう端っこのその席で寝かされてたから。騒がしくしてすまんね」

なんの集まりですか? と聞こうと思ったが、全員喪服だったので、なんとなく察しがついたので聞くのはやめた。おじさんが「あんたも一杯飲む? 部外者やけど、この際かまへんやろ」とアサヒビールの瓶を出してくる。僕は「ありがとうございます、じゃあ、そっちのコーラ貰っちゃってもいいですか?」と言う。少し遠い位置のコーラ瓶を、分厚い顔の男子高校生が無口で取って、おじさんにパスしてくれる。おじさん、注ぐ。飲む。空腹を思い出す。おじさんが「お稲荷さんとかならまだあるよ」と箸でテーブルを指したので、すみませ〜んと言いながらパクパク食べてお腹を満たした。

腹が膨れて、すこし冷静さを取り戻した。僕は、「ありがとうございました。帰ろうと思うんですけれど、あのここまで連れてきてくれた人にお礼言いたいんですけど……」と一応おじさんに訊ねてみる。おじさんは「いやぁー別にいいんじゃない? みんな結構それどころじゃないみたいだし」「お邪魔ですよね」「わかったら俺の方から伝えておくよ」「ありがとうございます、すみません……!」「ウンじゃあ、元気で。名も知らぬ若者」「ハイ、あのお手洗いだけ借りてっていいですか? どこですか?」「いやぁ知らん。そういえばここきて俺、まだ一回もトイレ行ってねぇわ! アハハハハハ!」

向かいの別のおじさんが、縁側から廊下に曲がって突き当たり右だよと教えてくれたので、会釈した。

廊下に出ると、壁一枚隔てたぶん宴会の騒がしさが遠のいて、いいなぁと思う。壁の掛け時計は11時半を指していた。トイレ行った。タイルの床で、あのサンダル履いて、小便器が3つと個室が1つあるタイプのトイレだった。個室に入った。

座りながら、ここ何県だよと思ってスマホを取り出そうとしたら、ポケットから予想外の転がり出かたをして、ポチョンと水没した。オイオイオイと思って、急いで手を突っ込んでスマホを救出する。電源ボタンを押す。まったく反応がなかった。僕のスマホは壊れた(今日日のiPhoneはトイレに水没した程度では壊れないが、理想の一日なので壊れる)。

また廊下に戻って、立ち尽くす。壁越しの宴会の声。たぶん誰か(できればさっきのおじさんらへん)に事情を話して助けを求めたほうがいいんだけど、一応僕は部外者だし、戻るのも気まずかったし、あと喧騒に正直居酒屋バイト時代の空気を思い出して嫌になってきたので、ひとまず外に出ようと思った。庭にいた子供たちに聞いてみようかな。縁側から直接出たらおじさんと鉢合わせしそうなので、正面玄関から出て回り込むことにした。そういえば靴? 僕の? 見つからなかった。外用のつっかけがいくつか並んでいたのでそれを履いた。

正面玄関を出ると夏だった。まぶしっ。蝉うるさっ。目の前には右肩下がりの坂道が通っていた。この屋敷はそれなりに山の高い位置にあるらしかった。坂道には路駐された車がぎっしり並んでいた。宴会の人たちか。右手を見ると、終わりの見えない竹林が続いていた。すこし視点をずらすと、ふもとの平地を見下ろせて、まとまった街があるようだった。ここどこなんだ。この景色、何県でも可能だ。さっきのおじさんの喋りかたは大阪弁っぽかったけれど、彼もここのこと詳しくない感じだったし。ただ遠方から来た親戚でもおかしくない。

草を踏みながら子供たちのほうに行った。子供は4人いた。男2女2だった。4人それぞれが棒を持ち、ほんの小さな泥沼に突き刺していた。各々の判断で、なんか刺しなおしたり、ウワーマジーと悲鳴をあげたりしていた。どういうルールなんだよ。僕は近づいて「すみません」と行った。男子1がうんこ座りのまま振り返って「ハイなんですか!」と言った。他の3人もこっちを見た。なんですかと訊かれると、確かに何のために話しかけたのか、自分でもわからなくなった。気絶してて目覚めたらここにいたんですけど、ここはどこですか? と子供に言うの、変すぎるし。とりあえず「何してるんですか?」と訊いた。

男子1が「あの誰が一番棒を深くまで刺せるかって! あのこの泥の部分、あのさ底なし沼なんだよ」と説明した。女子1が「底なし沼じゃないよ。底なし沼って日本にないから」と反論した。男子2が「いや日本にも普通にあるし。底なし沼。見たことあるけど。入ったこともあるけど」女子1「ハ。それ底なし沼じゃないから。底なし沼ってさあのさ、底なし沼ってさもっと怖いんだよ。もがけばもがくほど沈んでいくしさ、あと服のなかとかさ泥がさ、入り込んでさ、発疹になるんだよ」こいつディスカバリーチャンネルの動画見たな。男子2「発疹なったよ。まじで全身」女子1「ハ。底なし沼に入ったんなら君は何でいまここにいるんですか? 発疹って何なのかわかってるの? 説明してみてよ」男子2「ハ。お前説明してもらわないといけないくらい発疹のこと知らないの? 発疹なったことないんだ」女子1「ないですけど。何か問題ありますか?」男子1「なってみな。飛ぶぞ」男子2「ギャッ」

僕は自分用の棒を探した。そしたら、棒どころかものすごい立派な竹筒を見つけた。これでガキどもを圧倒するかと思って、それを持ちあげて泥沼に近づいた。男子1は「やばすぎるって! 規格外だって!」と叫んだ。女子1も笑っていた。僕は竹筒を泥沼にズボッと押し込んだ。女子2が悲鳴をあげてはしゃいだ。竹筒はなんか押せば押すほど沈んでいくので、いけるところまで押してみた。すると、竹筒の天面の穴から、泥成分の液体が、ごぷっ、ごぶごぷっと漏れ出てきた。男子1が「キーショーーーーーー!!」と叫んで、両手で頭を抱えてその場で足踏みをした。女子1と女子2がそれを見て大笑いした。男子2も追随して「キッショー!」と声を張ったが、声量もモーションも弱くてとくに相手にされていなかった。

僕は「キショイねぇ、キショイに越したことはないからねぇ」と言いながら、竹筒を回転させて、天面から泥をぐちりりりと捩れ出させた。やればやるほど子供たちは笑いの金切り声を高めていった。女子1は地面に体を打ちつけて笑い転げていたが、叫び声のヘルツが高すぎるのか何も聞こえなくなった。こいつ爆発するのか? しばらく遊んだけれど、子供たちは僕が何しても高打点で笑うので、それで逆にちょっと冷めてしまった。僕は子供たちに「あのさ、ふもとの街ってここから歩いたらどのくらいかかるかな? わかる?」と訊いた。

他の3人が男子1を見た。彼がこの土地に詳しい感じなのかな。男子1「エー歩いたらやばいよ!? 歩きはやばい」女子1「何分?」男子1「何分!? 何分ってレベルじゃねー」女子1「ハ。歩いて行ったことあるわけ」男子1「歩っくわけないじゃん! 歩いたら、そいつマゾだから!」女子2「マゾって何」僕「いじめられることに興奮する人」女子1「きも! それ君のことじゃん!」男子2「ハ。俺マゾじゃねーし。マゾってなんだっけ」僕「いじめられることに興奮する」男子2「キッショーそれお前のことじゃん!」男子1「俺マゾじゃねー! ギャッ、ギャッ。お兄さんはマゾなんですか?」僕「そうだよ」男子1「エーーーー!」女子1「うるさすぎ。なんか事情があるんだよ」男子2「いじめられると興奮するんですか?」僕「いじめはよくないっすねー」女子1「ねぇ失礼すぎ。普通さ人にマゾとかさ」

適当に話に合わせてただけだけど、子供たちが本当に僕の存在にびびる雰囲気が出てきた(いわゆる学校教育で言われるような不審者のように見えた?)。僕は潮時だなと思って「じゃあ」と手を振って子供たちと屋敷に背を向けた。そして、アスファルトの坂道を下り始めた。徒歩で山のふもとの街を目指すことにした。男子1の言いか的に何時間かはかかりそうだったけれど、辿り着かないこともないだろうし、山道を一人で下るのは楽しそうだった。

1分ほど下ったときに、自分が屋敷のつっかけを履いたままなことに気づいた。アー忘れてた。歩きづらいと思ったらね。しかし、屋敷にはもう戻れる雰囲気じゃなかった。子供たちはさっき手を振り返さなかった。僕は腹を括った。