好きなことで生きていく
2~4時間の睡眠を断続的に繰り返している。どこを生きているのかわからない。背骨がバイトのシフト表のエクセルの色のついた部分みたいな形になってしまっていて「イデデデデデデ!」どれが本当の人生なのかわからなかった。
暑い日が続くので、エルデンリングのようにこまめに水分を摂ること。935hPaの台風が接近している。テレビのニュースで、警報を受けて避難所にマットを広げている人や、浸水した家の水をバケツで捨てている人とか、雪かきをしている人とか、止まってしまった新幹線の駅で立ち往生している人とかがインタビューを受けているようすを見るたび、去年の映像が使いまわされていても気づけないなと思う。この国の人は、年中コントロール不能な自然の脅威に翻弄され、そして「しゃあないね~」みたいな顔でインタビューに応じている。その「しゃあないね~」の顔に使う筋肉の度重なる伸縮によってできる皺が、日本人の顔を特徴づけている。
僕はどこに?
ジェームズ・キャメロン監督の『トゥルーライズ』を観た。国の安全を守るスパイの男が、いろいろあったのちに、一般人の妻と共に世界を救う話。ハリウッド映画の中のハリウッド映画って感じだ。シュワルツェネッガーのキマった眼力をアップで映すカットが多いけど、それがかっこいいつもりで撮っているのか、シュールのつもりで撮っているのか、わからなかった。シュワルツェネッガーはどの映画でもつねに「?」みたいな顔で戦っているので、そういう意図不明なタッチが似合う。ブルーレイBOXの裏面の説明に書いてあった通り、この映画は「ハリウッド映画の神髄」だった。白人マッチョが戦い、ちょっとアホっぽい中東人一味を倒し、核爆弾が爆発し、キスし、妻と娘の命を救っていた。こんなもの、今の時代に撮ることは不可能だった。バイクに乗ったままエレベーターに乗って上に逃げる敵を、主人公が馬に乗って同じくエレベーターで追いかけるシーンが面白すぎた。馬がエレベーターに乗ることの面白さは、もっとみんなに知ってほしい。
8月28日だって。やばくない?
ドキドキしてきた。
焦っても仕方がないと言い聞かせても、どうしても焦ってしまう。いや、焦るべきなのか? 一旦わざと焦ろうとすると、すぐさま動悸がせまってきて、汗が出てくる。ここ数年でやたらとメタ認知を鍛えたせいで、感情のみならずその身体的出力もコントロールできる気さえしてきた。いつでも汗を噴き出すことのできる能力。要らんなあ~。それに感情をコントロールするといってもせいぜい、できるのは突然押し寄せる感情の波を「無」に落ちつかせることくらいだ。この成長は僕からしたらすごい画期的なことなのだが、多くの人はこれを自然とやってのけているらしい。あっぱれだわ。
自分の今の課題は、動力の無さだろうか。僕の場合、自分をニュートラルな状態で放っておくと、寝そべってしまう。そういう人は多いと思う。気づくと平気で1か月とか経っているのだ。進捗ゼロで。怖い。そういう人も多いと思う。昔の僕は、寝そべったまま時が経っていることに気づかず、いつの間にか大学を中退していた(あくまで一因で、中退の理由は他にもいくつかあると思われる)。気づいたら大学を中退していたって怖いことですからね。幸いにも美大に入り直して好きな勉強ばかりできるようになったけど、何かいろいろと見過ごせない重荷を背負ってしまった感じは否めない。
そのため、自分を社会にコミットしていくにはニュートラルなままではいけない。自分を動かさないといけない。これがつらい。何かをするのは、それがたとえ好きなことでも、苦しい。苦しいというのは、頭が沸騰してきて、肘も手首も曲げて肩をブンブンぶん回さないと耐えられないほどむしゃくしゃし、今身体に触れているものの材質(カーペットのざらつきとかパソコンの温度とか)が異様に攻撃的に感じられるという状態だ。家に住んでいても、ご飯を食べに立ち上がるとか、歯を磨くとか、シャワーを浴びるとか、そういう一動作一動作に尋常とはいえない重みを感じる。『おやすみプンプン』で、南条幸が自宅の壁にもたれかかって長時間虚空を見つめたあと、「行かなきゃ」みたいなことをつぶやいて出かけるシーンがあるのだが、僕はそれがすごく印象に残っている。
僕が電車に乗るのが好きなのは、そういう性質から来ている。電車は、何もしていなくても目的地へ向かって進むという動作を保証してくれるからだ。苦しみの経費を払わずとも、自分を達成感の花園へつれて行ってくれる。やさしい存在だ。電車から降りるのはつらい。
人生は電車か、否か。それは、そうであるときとそうでないときがある。行動を起こせないというのは現代人の共通の悩みであって、解決法らしきメソッドもそれなりに体系化されている。一番言われるのが、環境の問題だ。みんな活発に動いている環境にいると、周りに突き動かされて自分も自然と動けるようになる。そうすれば人生も電車に乗るように滑らかに生産していけるだろう。そういうのはよく言われる。あと、人生も電車も大きいのは静止摩擦係数であって、一度走り出してしまえばあとは慣性で動くという話もある。この前も親友に言われた「やる気を出す一番の方法は、やること」というやつだ。そういうのもよく言われる。これらはすべて仰る通りだ。でも同時に、言うが易しといった感じだ。良好な環境をもぎ取るとか初動を習慣化するとかを、実際に各人に無理のない形でインストールするには、結局個人がそれぞれ抱える諸問題に向き合わないといけないのだ。僕みたいに、初対面の人と会う前に必ず下痢をする人間が何人いるだろう。カーペットのざらつきに激怒する人間が何人いるだろう。そういう細かい個人の性質が邪魔をしてくる。でも、その解決策まで教えてくれる人はなかなかいない。
結局、自分個人の課題解決に回帰する。いろいろ書いたようで何も書いてない気がするな。自分の問題に向き合うために、自己分析を何度も行う。自己分析の方法もさまざまある。まずは、ある程度広い枠組みを自分に当てはめたりしてみる。初対面の人と会う前に下痢をする人間は、僕の他にもいるにはいるだろう。そういう状態を指す病名があるかもしれない。画一化されたラベルにぱっちり自分を当て込もうとするのはそれはそれでバイアスを生むので危ないけど、その枠組みについて調べてみれば意外にもソリッドな治療法があったりして、見る世界が変わることがある。他にもなんだろう、文学や、他者と話すことなども自己分析に役立つと思う。あと、日記などに考えたことをアウトプットするのも。この日記は先月に書き始めてからいまだ作業進捗の役に立っていない。むしろこれを書くことで何かを達成した気になってしまっている節があるので、本末転倒かもしれない。でも少なくとも、自己分析の助けにはなっているだろう。自己の課題と向き合い、自分を助ける方法を見つけるよすがにはなっているはずだ。たぶんね……。
自分のやりたいことを、この日記を書くみたいに息を吐くようにできるようにするのが、今の自分の目標で、この日記自体の存在理由でもある。そう考えるとこの日記は、存在とその存在理由が相似形をなしていて、面白い。相似は好きだ。相似が好きだという自己分析。僕の好きなゲームが『Inscryption』なのも、好きな本が『ゲーデル、エッシャー、バッハ』『ドグラ・マグラ』なのも、相似が好きだからだ。
ブロッコリーも好き。フラクタル構造っぽいからではなく、おいしいから。ブロッコリーはたんぱく質を多く含む。たんぱく質も、その構造の中に自身の構造を定義するコードが織り込まれていて、相似をはらんでいる。でもブロッコリーが好きなのは、おいしいからだ。
トゥルーライズの馬で思い出して写真フォルダを漁ったら、コンビニエンスストアみたいな店舗の内部で、一頭の馬が激烈に嘔吐している写真を見つけた。インターネット上でたまに返信代わりに貼られる写真だ。あと交尾中の犬のオスが嘔吐するGIF画像も保存されていた。僕は動物が嘔吐するのが好きなのだろうか? どちらかというと、動物の嘔吐というより「突然の嘔吐」が好きなのかもしれない。今この段落で急に嘔吐の話題を出したように。21歳のとき、朝ごはんを食べていたら急に嘔吐してしまって、吐瀉物が朝ごはんにかからないように慌てて両手で受け止めたことがある。その手の形のまま、急いでキッチンへ向かった。その最中もゴポゴポととめどなく嘔吐が続き、手の受け皿には吐瀉物が注がれていって、道中で溢れて床にこぼれてしまった。なぜ急に嘔吐したのかは不明だったが、我ながらこのことが面白すぎて、その日は会う人みんなにこのエピソードを話した。僕の好きな映画の『ボーはおそれている』にも、主人公が急に嘔吐してパソコンにぶちまけるシーンがあった。やっぱり突然の嘔吐が好きなのだ。
この調子で自分の好きな物事を、見つけて、見つめていこう。それがきっと僕の原動力になる。好きなことで生きていく。