いなくならないから

2025 - 07 - 27

12時に起きて、また少しだらだらして、コワーキングスペースに行った。

5〜6時間作業できた。トレーラーを乗り継いでいく仕組みを作った。明日明後日でエフェクトを工作していって、ミーティングの経過報告に向けてまとめよう。

途中コーヒーの不味さで気分が悪くなってしまいBADに入った。マインドフルネスアプリで気分を落ち着かせて、コーヒーが視界に入らないようペットボトルを鞄にしまったら、よい感じになった。

帰宅。炒飯。

ブルーベルベットの最高のシーン。

ここ数日、コワーキングスペースに行って作業をする動きを続けられている。作業終わりにはPCをシャットダウンして、帰宅後はもう取り出さず鞄に入れっぱなしにしておく。それで、家で過ごす時間は余暇ということにしてる……。今のままだと余暇が長い。コワーキングスペースでの作業時間をもっと長く取るのが理想だけれど、まあ徐々に……。

最近腰痛に襲われていない。家での時間、ほぼ寝そべってるようになったからかも。筋トレや散歩をしなくなった(Switch無印をしまっちゃってリングフィットアドベンチャーができなくなったから)が、とくに困ってない。首が座らないとか立てないみたいな状態も、どちらかというと鬱っぽさから来るものだったみたい。

動悸や吐き気なども減った。これはコンサータをやめたからだ。一時期貧血が気になっていたけれど、あれは実はコンサータの副作用で低血圧になっていたという説が浮上した。服薬を一定以上に増量した途端に体質とのミスマッチが現れだして、先生に尋ねた結果コンサータ以外の薬を検討すべきだねってなった。

プールで泳いだり、鉄分サプリ飲んでみたり、昼間に散歩してセロトニン〜とかやっていたけれど。あとカラダファクトリー行ったり……でも実のところ、健康への最短経路は「毎日作業をする」ことそのものだったんじゃないか。

まあ何もかも、なるべくしてなってるだけだけど。まだここ数日の話だ。ルーティンとは言うには早いです。体の調子がたまたま良い時期なだけかもしれないし。

せっかくの余暇の時間なので、意識的に余暇をやろう。映画見ようかな。

岸善幸監督の『正欲』見た。朝井リョウ原作。水フェチの新垣結衣が寿司屋によく行くという、テーマと距離感あるんだがないんだかな塩梅のパーソナリティが面白かった。

あまりいい映画とは思えなかった。稲垣吾郎の存在がよくない。旧弊な価値観の、無理解の象徴としてあからさまに悪魔化して描かれていて、ト書きも演技も平板だったし、なんだか視聴者として低く見積もられすぎてるなと感じた。

性的興奮についてよく考える身としては、水フェチという性欲の形を、たとえ誰からも理解されなくても端的に”そのまま”存在する欲望として、他者からは不可侵のものだと一線を引いた原作者の態度が僕はあまり好きじゃなかった。僕は、水に対する性的興奮と小児に対する性的興奮をまったくの別物だとは思わない(水以外の物に対するフェティシズムでも同じ。『正欲』は別に水じゃなくてもよかった)。

複数のフェチは、持ち主の根源では連続的につながる同一のエネルギーが複数の側面から発露したもの結果と考えるほうがより、なんだろうリアル? リアルかどうかはわからないけれど、少なくとも考えがいはある、と思う。小児性愛の欲望が宿命的に負わされている「悪さ」から、端的に水フェチ”でしかない”彼らを隔離したのは、踏み込みとしては足りない。

僕は、僕自身も小児性愛の宿命的悪さに加担しながら生きている。と思っている。実感している。

『正欲』の稲垣吾郎を、記号的に処理して舞台装置にするのではなく、あえて主役に据えて掘り下げた作品が『アドレセンス』と言えるかも。アドレセンス本当に良かったな……。

アドレセンスが本当に良かったことを書いておいて、寝ます! すみ!

(追記)

小児性愛の欲望が宿命的に担わせられている「悪さ」から端的に水フェチ”でしかない”彼らを隔離するのは、踏み込みとしては足りない。

翌日に↑の部分を読み、あまり書きかたが上手くないと思ったので書き足し……「踏み込みとしては足りない」などと、恥ずかしいことを。

僕は「人の性欲には多彩な形があり、小児性愛も水フェチも端的に素朴にある。だから例えば、小児性愛の悪さなどというのは、欲望そのものの本質的な罪ではなく、現行の社会との摩擦の結果に過ぎない(だから、当事者はある意味不憫なのだ)」と考えているわけじゃない。いやそう考えてもいるけれど、↑はむしろ、作品がそのような「人それぞれの性欲主義」の提示で終わっちゃうのは浅く感じる、という話。

僕の思うところとしては、水性愛というフェティシズムが、実は小児性愛と相関や因果関係を持っているということだってあるんじゃないかということだ。『正欲』における水性愛は、あくまで相対化の題材として選ばれたダミーフェチだった。具体的じゃなかった。それがいやだった。

僕は、僕自身も小児性愛の宿命的悪さに加担しながら生きている。と思っている。実感している。

これも別に「もしかすると、僕の性欲が、社会逸脱的な性格である可能性もあったのだ」という相対化の意識で気持ちを引き締めているわけじゃない。そうではなく、実際に、具体的に、僕も小児性愛者の部分があるんじゃないかと思っているということだ。僕の個人的な性欲のスペクトラムが、対象として小さい子供もある形で包摂してるなという、自覚と、緊張感をおぼえているのだ。

その実際さ、具体的さ、緊張感が『正欲』にはなかった。だからダイバーシティ批評としては片手落ちで、浅いんじゃないかという感想をもった。