12時に起きた。SEKIROを少しやって、病院に行った。

合うかどうかを確かめるため、インチュニブを処方してもらった。コンサータの副作用のときに「この薬は自分には合わないな」と判断する手つきは掴んだ。たぶん。

行って帰るまで、ずっと何も考えてなかった。フェルマーの最終定理の鍵となった谷山-志村予想の谷山豊は、31歳のときに自殺したことを知った。彼の遺した遺書には、受け持ちの学生の授業過程がそれぞれどこまで進んでいるかとか、これこれは誰から借りたものだとかみたいな、事務的な連絡が淡々と書かれていたらしい。
谷山-志村予想は「楕円曲線はすべてモジュラー形式である」というもの(もっと厳密な言い方があるんだろうが)。もしフェルマーの最終定理が偽、すなわち条件を満たす三つ組数が存在するとすると、フェルマー方程式を変形して得られる特定の楕円曲線(フライ曲線)は解を持つことになる。しかしそのフライ曲線はモジュラー形式ではありえないことがリベットにより証明された。以上のことから、もし谷山-志村予想を証明することができれば、フェルマーの最終定理も同時に証明されたことになった。『フェルマーの最終定理』終盤の状況。
その状況はわかったけれど、肝心のモジュラー形式というものがどういうものなのか、自分にはほとんどわからなかった。簡単にいうと、極めて対称性の高い特殊な関数? らしい? ディーデキントのエータ関数という具体的なモジュラー形式を見てみたけれど、馴染みがなく難しそうだった。まあ300年以上未解決だった問題の証明過程が、馴染みあるわけないか。

ビアードパパを描いた。オモコロがビアードパパの体を予想しようという企画をやってて、その正解が意外だった。
20時。また夜に作業場へ行く。何も考えていなかったからか、すんなり移動することができた。すんなりではなかったか。病院から戻ってから3時間くらい、家でだらけていた。でも来れたからよい。
大学の卒業制作の前期審査会が、来月の初旬にある。それに合わせて、ふわっとしたスケジュール的なのをスプレッドシートに立ててみた。色々と間に合わなそう。ゲームループとして繰り返し遊べる状態になっていることが最優先事項だから、リザルトへの遷移とか、タイトル画面とか、コントローラー対応とかから手をつけていかねばならないか。
僕はスケジュールを厳密に意識していると、大抵動けなくなり体調を崩す。焦りや思考停止の連続が鬱の気分を引き寄せてきて、結果として生産性が下がる。なのでまあ、〆切なんてものは万が一間に合わなくても身体にダイナマイト仕込んで自爆でもすればいい……くらいに認識しておく。ケセラセラ・スキーム。今日やるとトロヤさんが決めたことを「御意。」と今日やっていくだけだ。隻狼と同じ。主の命を、粛々とこなすだけなのだ。ビアードパパは違う。ビアードパパを描けとは命じておらぬぞ。勝手な行動は慎め、狼。
狼「…………」(字幕には書かれないが小さく「むぅ…」と言っている)

今日のGPT-5は、なんだか口調が辛辣だった。「ついでに」とか。
死亡時に最新のチェックポイントからリトライできるよう、ステージの状況を保存する仕組みを作ってる。3時間半ほど作業した。エラーのまま閉館時刻を迎えてしまった。帰ってから家で続きをやるか?
明日、先日歯医者で手術してもらったところの抜糸がある。うれしいな。今週は笑えなかった。笑うと縫われた部位の皮膚が左右の表情筋に引っ張られてちぎれそうになり、激痛が走るからだ。笑顔の絶えない家に住んでいるので困難だった。痛みから逃れるため、笑いそうになったら左右の手で上唇を押さえつけ、パン生地みたいに前へ伸ばした。笑みを左右ではなく前方にのがす、独自の工夫。この苦労がわからないだろ。
帰宅した。
自分の性欲の強さ? が面倒くさい。性欲に駆動されてやる行動は、大抵生活のリズムをぶち壊すし、やがて終息する波を燃料にしているから、活動としても再現性がない。
このごろはっきりと自覚したのは「衝動に操縦桿を明け渡さないこと」が僕の人生のテーマだということだ。
衝動性のAについて考えているときは、世界がAだけでたまらなく面白くて、一面輝く。よく他のマイルドな欲求に転化しましょうと言うけれど、すでにAのとりこになった自分が、Aをやめようと意図するのは難しい。駆動されている者がその駆動を退ける動機はない。このように衝動に支配される具合のシリアスさが、僕は激しいらしい。
さいわい、衝動や、衝動から始まる活動を抑えることはある程度できるようになったけれども、「抑える」は個別的なアクションなのに対して、衝動はつねにさまざまなスケールでぷつぷつ泡立っていて数えられないようなものだ。間に合っていないような気がする。毎分毎秒、沸き立っては、小さく賢者モードになることを繰り返している。小さな誕生と小さな死を繰り返す。結果として、持続する個として生きているような実感が薄い。
そんなわけで、衝動を警戒しがちの僕にとって、衝動性の最大手である性欲はいちばんの宿敵という感じです。性について何かひらめいてしまった日は、丸一日だめになったりする。性生活という点でいえば僕よりもよっぽど過激な友人はいる気がする。でも僕と違い、彼らは性を全身で体験して、それを人生の一部として吸収しているように見える。それに対し僕は、なんだ、なんだろう。なんだ? 気を失うみたいな感じ?
小説書きたいな。日記だと事実関係の制約があるから、自分が感じている性愛の手触りを表現しづらい。次の文学フリマっていつなんだろう。11月に東京。出展申し込み〆切は。明日まで!? ゲゲゲ。
明日考えようっと。絶対に今決めないほうがいい。