トロヤアズスーンアズポッシブル

2024 - 09 - 05

インディーゲームの選手権の審査会がおこなわれた。昨年最優秀賞をもらった僕は、今年は審査員のうちの一人だった。各開発チームのプレゼンテーションを聴いて、感想を言ったり、質問したりした。質疑応答の「質疑」側にまわるのは、人生で初めてだった。点数もつけた。どのゲームに賞を与えるか、他審査員の方々と議論した。

審査員の依頼を受けたときは「自分などが……」とすこし怯えたが、まあ前回優勝者が審査側に回るのは健全なことかと思い、受諾した。いざやるとすごく楽しかった。基本的に自分が感じたことを話し、疑問に思ったことを質問すればいいのだ。というかそれしかできない。

しかし一度審査員を体験すると、賞レースというものがいかに柔らかいつくりをしているのかがわかった。審査員の性格によって評価軸はガラッと変わるし、最優秀賞を決める議論のゆくえも、非常に繊細な判断で決定される。シンプルな点数には反映されない「潜在力」のようなものが、印象を左右したりする。賞はただの競争の順位をお知らせするメダルではなく、それを与えることで業界に功利をもたらすことを目的としているのだ。

そういう審査側の展延性とはべつに、応募する側にも有機的な動きがある。応募側は審査員の構成や大会の性格を分析し、ハックしようとする。賞を獲りやすい作品に傾向はどうしてもある。そして学校などの機関はそこから定石を体系化し、ノウハウとして学生に共有することがある。このように賞レースが攻略されだすと、審査側もそれに反発したり、主催目的の再考によって編成が変わったりするのだろう。この応酬が創作物の賞レースのあり方のようだ。今回の審査会議も、そのような柔らかな変化の潮流の中で結論が下されたように感じた。少なくとも、去年とは応募作品も審査員構成も性質が変わっていた。

にしても楽しかったなあ。みんな面白いゲーム作っててすごいな。良かったゲームの良かったところを開発者の方に目を合わせて伝えられたのは素直に嬉しかったし、僕の方も学びになることばかりだった。他人のゲームについて語る筋力がついた。僕が投げかけた質問に対して、開発者の方がより深い情報を返してくれたり、あるいは悩みこんでくれたときは「健全な相互作用が行われている…!」と感じ、嬉しかった。自分がここにいる意義を感じた。

帰る。大江戸線って行きも帰りも「大門行き」なの、きもい。

帰った。Death the Guitarを作るしかない。審査会を通していろいろと真似できそうな技術を得たので、パワーアップできそうだった。

審査のとき、メモをとろうと思って自分のノートを取り出した。ノートを開いたら、なぜか昨日観たルックバックの入場者特典が挟まっていて、それがこぼれてきて、ウワーと思った。この場に関係なさすぎる。審査員ってもっとノイズの無い存在じゃなかったっけ。

むかし、居酒屋バイトの初日に、先輩から説明される業務内容を書き留めるためにメモ帳を開いたらそこにコンドームが挟まっていたことがある。そのままポサッ…と床に落ち、ウワーと思った。

自分の持ち物、何が挟まっているかわからなくて恐ろしい。将来自分が首相になった際、所信表明演説のときにカンペを開くのが怖い。何がこぼれてくるかわからない。ルックバックやコンドームはまだいいとして、ピストルとかが出てきたら本当に申し訳ない。いつかそんな大事故になる気がする。そういう慢性的な不安がある……いや、ないのか。ないから管理できてなくて、期せずしてこぼれてくるのか。もっと引き締めていこう。大人としての、ふるまい。みんなどうしてるんだろう。

明日から学校だ。自分、まだ学生なんだった。頭が変になりそうだ。環境や人間関係がめまぐるしくて、見失う。でも全部、然るべき手続きの結果としてこうなっている。らしい。へー。ほんとですか?

ここからはしばらく、先月ほど沈思黙考する余裕はない。環境が動き出している。考えている間に振り落とされる。ある程度バイブスで直感的に自分を操縦していかなければ、間に合わない。

ああああ。

奇声をあげながら行く。僕のあげる奇声は、蒸気機関車の汽笛のようなものなので、気にしないでください。