こ(と)だま

2025 - 09 - 17

7時に起きた。納豆とパスタを食べて、牛乳を飲み、シャワーを浴びて、爪を切り、お茶を入れた水筒を用意して、学校に行った。

自然(ネイチャー)をINPUTしていく。

歩道がマスクつけている。

学校で、2時間ほど作業をした。隣のテーブルにいた人が、(その人の)友達が天井にナイフを投げて刺すのが趣味という話をしていてすごと思った。

Godotに入ってからずっとコードベースのステージ生成をやっていたのだけれど、もしかすると従来の地道にタイルマップを書いていくやりかたのほうが性に合っているかもしれないと思い、GameMakerで作っていた研究所ステージを、Godotであらためて作り直してみることにした。行ったり来たりしてるなぁ。

大学の帰り道の途中に、3年半のあいだずっと行きたいと思い続けていたカフェがあった。今日そこを通りがかったとき、急に「行きたいなら行けばいいだろ」という思いがよぎり、まったく歩調を変えずにカーブして、店に入った。

ほうじ茶ラテ。先日大学でおこなわれた審査会で、他の人が展示していた作品の資料を持っていたので、ほうじ茶ラテを飲みながらそれを読んだ。

審査会の日に友人とたくさん話した。そこでの話題のなかに、僕のADHDの話があった。会話の流れで友人に「エ、お前精神科通ってたの?」と言われ「エ、通ってるに決まってるじゃん」と言った(決まってるわけないな)。「病名は?」「ADHDと、一時期うつ病だった」「エ、お前ADHDなの?」「エ、そうだよ? どう見てもそうじゃん(『どう見てもそうじゃん』なわけない)」友人は「そんなふうに見えたこと一度もない。確かに俺の展示見にくるときも遅刻してきたな。妙に約束破るやつだな〜とは思っていたが」と言った。妙に約束破るやつと友達でいてくれてありがとう。

そのあと友人に「ADHDという診断を貰って、実際どうなん?」と訊かれた。「どうなんとは」「良いことのほうが多かったのか、それとも悪いことのほうが多かったのか」「そりゃあ〜良いことのほうが多いっすよ。医療費の自己負担額1割になるもん」「いや、金銭的にはそうだとして。こう自分の性質を病気って認識することが、精神的に」「烙印的な?」「病気と認識することで救われた気持ちになることのほうが重要だったのか、あるいは逆にこう、診断を受けたことが出来なさの言い訳になっちゃって、努力を放棄するみたいな」

その質問が印象に残っていた。僕はその時うまく答えられず、モニョモニョした。「俺は、努力とか無い世界線に生きてるから」みたいなことを言った気がする。

ADHDの診断を食らったことで日々の心境が良くなったか悪くなったかで言うと、直観的には良かったと思ってる。その理由を言おうとすると、どうしても「薬がもらえるから」とか「同じ症例の人たちの情報を調べやすくなるから」とか「(手帳を取得することで)映画が割引になるから」みたいな後づけの実利ばかり思いついちゃうな。でもこれは友人の知りたがっていることの説明になってない。友人の質問の意図するところはよくわかるから、僕なりの答えをゆっくり考えてみる。

『診断を出来なさの言い訳にして、努力を放棄する』という考えかたが、もう僕にはない……これが端的な説明になるかな。僕は「己の意志ではどうにもならない化学的要因による機能不全」というのが病気や障害の定義みたいなものだとおおまかに考えている。で、この考えでいくなら、アメリカ精神医学会が基準を定義したADHDという障害を自認することは、自分の動けなさや時間の守れなさや集中力のなさを「自分のせい」と考えることを辞めることに等しい。アプリオリに。

発達障害について知識がなかった頃は、僕も「自分のせい」だとおおいに思っていて、病んでいた。そこからADHDやその周辺の精神疾患について知っていきつつ、自分がその当事者なのだという自覚を浸透していきながら、徐々に「自分のせい」のない世界に移行していった感じだ。この個人的なパラダイムシフトは診断を受けたときよりもずっと前からゆるやかに進行していた(よくわからないけど、病の診断って診断書が必要になって発行してもらうタイミングでようやくはっきりするものじゃないですか?)ものだったから、実際に診断を受けたときには、僕はすでにその診断内容にまったく違和感をおぼえなくなっていた。

そんな感じだろうか。僕から見える世界には、「努力」とか「責任」などというものはない。自由意志の存在を前提としたまやかしでしかない。人には自分の行為を自分で決定する能力があり、だから責任や努力といった概念を考慮できる……そんなふうに思えるのは、そのフレームで今までやってこれた人たちだけじゃないかと思う。

哲学的な議論があって簡単じゃないところだけれど、自由意志は無いとする考えのほうが僕にはしっくりくる。僕も物事も何もかも、なるようにしかならない。その考えは「頑張ることをやめる」ということではない。僕が何かを頑張るか頑張らないか、それをすると思うか思わないか、自分が”それ”を”思っている”と”感じる”か否か。そういうのは僕にどうにかできることではない。環境要因や身体のコンディション、あらかじめ形成された僕固有のパーソナリティなどのいろんなパラメータが集まって、それらの演算結果として宿命的に未来が決まるだけ、ということ。

ただ、自由意志を考慮することで社会の運営上便利になる面はあるとは思うし、僕も細かな場面ではその自由意志信仰を頼っていると思う。完全に自由意志を否定して決定論に傾くと、すべての(過失でない)殺人者は精神病者で、責任能力はない、という結論になってもおかしくない(九段理江『東京都同情塔』は、その思想派が主流になったパラレルワールドの東京を描いていた)。現実にはこの考えはあまりに極端とされているので、今のところやっぱり、実際的な運用上「責任」や「努力」というのは、考慮されざるを得ない場面が多々あるんだろうな。でもその信仰が、自分で自分の首を絞めたり、他人に振り翳して断罪する方向に用いられるようなことがあれば、そのときは僕はちゃんと「自由意志など無い」とマジレスして身を守りたい……。精神病の罹患が認められた犯罪者をめぐる裁判で検事と弁護士が言い争うように、僕も争っていきたい。

発達障害は、なにかと白い目で見られがちなトピック。「発達障害なんてものは個性の範疇であって、障害とみなすのは甘えだ」とか「当事者に不当なスティグマを与える行為だ」みたいな言説が発信されたり、ラベルが濫用されてファッションADHDという言葉が流行ったりなど、何かと混乱がある。新しい概念が拡まっていく過程はそんなものだ。

先輩が職場で、上司に「お前ADHDなんじゃないのか?」と言われたことがあったらしくて、先輩はそれに対して「人にお前障害とかさ、そんなこと言うか?」と憤慨していた。そのやり取りが発生した時の文脈を聞いた感じ、その上司の言い草はけっこうなモラハラ発言で、先輩は怒って当然だなと思った。けれどその一方で、「あなた〇〇(病気や障害)なんじゃないの?」と他人に対し指摘することは、相手を適切な医療へ導こうとするその人なりの善意の発言ともなりうるんじゃないかなとも僕は思うわけ……難しい。

というか最近の僕、よく親しい人に「あなたは〇〇傾向を持っているんじゃないです?」とか言っちゃってがちな気がする。親友が職場の人間たちにどうしても馴染めないことに苦しんでいたとき、通話で「なんで俺ってこんななんだ」と言った。それに対して僕は「ASDだからじゃない?」と言った。まったく他意なく。でもこれ危ないよね。他意がなくたって「ASDだからじゃない?」なんて、かなり失礼で相手を傷つける発言になり得る。相手にとってそうだった場合、先輩のように相手は怒ったり悲しんだりして然るべきだし、僕はお叱りを受けて然るべきだと思う。

自分の言葉がそのくらいのリスクを発していることは、自覚して、引き受けないといけない。僕は自分が精神医学ベースで人のふるまいを考えがちなせいで、そのへんの語彙が喉元の出やすいところに溜まっている。そのため、他人に対しても自分のその精神科医学主義(信仰)を適用して押しつけがましい言い方をしてしまうことがある。気をつけよう。「言わないように気をつけよう」ではない(主義は押しつけるものだ)。ただ、それを言うときに発生してまとわりつく思想性や暴力、自分がそれに加担していることは、忘れずにいようということ。

帰って瞬寝。