しばらくは林の中の象のように

2024 - 07 - 28

この記事にはうんちが出ます。

昨日は暑さで思考もままならなかったので、今日思考しようとして、椅子に座った。自己分析だ。就活における自己分析の重要性は何かにつけて言われるけど、就活関係なく自己分析は毎日やっていい。毎日自分は変わるし。しかし自室で肘をついて頭の中でゴネゴネするだけの机上の自己分析に大した食いでがあるかは微妙。様々な外部刺激に身をさらして、そこで自分の内外に起こることを見つめる方が、自己分析としては高効率な気がする。まあそう思って昨日貯水池にまで足を運んだら蒸しパンにされて帰ってきてしまったわけで、しかたなくエアコン部屋でゴネゴネ。夏のせい。

しかたなく。

僕について一つ分かったことは、「しかたなく」の選択は僕の人生において大きな比重をしめるということだ。外が暑いのでしかたなく。飢え死にしないためにしかたなく。家を追い出されないためにしかたなく。友達のためにしかたなく。夢を追うためにしかたなく。しかたなくの動機も多岐にわたるけど、なんというか僕が今やっていることはほとんどが「しかたなく」行われている気がする。創作活動もしかたなくやっている部分がある。

あとは分からなかった。分からないことが分かったことは一つある。孤独と孤高についてだ。僕は基本的に人との交わりがだいぶ苦手だ。その反面、いつも自分の孤独に泣いている。分からない。まあこのアンビバレンス自体はたぶんありきたりなもので、大学生に多い状態だ。僕はこの二つをいつか折衷して「孤独」から「孤高」の次元に上がりたい。孤高を得ればこそ、一人前の大人になれると思ってる。一人前の大人になりたいとは思っていないけど。孤高になりたいとは思ってる。思ってるだけ。無理。ぴえんといったところか。

僕の知り合いには数人この「孤高」を実現している人がいる。彼らに強いあこがれを持っている。今の僕にできることは、彼らとなるべく会うことだと思う。不思議と孤高の人とは馬が合うし、話して傷つくことも少ない。孤高の人は僕のことを見ているようで、僕の後ろの水平線を見ているからだ。だから、僕の心をえぐるようなことを言わない。いつもありがとうございます、孤高のみなさん……。

親戚がうちに来ている。リビングで親と談笑している。リビングの扉を隔てて、僕は今廊下にいる。猫がいてそれを撫でている。うちの猫は家に住んでいる者以外に近寄ろうとしないので、彼にとってリビングが親戚に占領された侵入不可エリアになってしまったのだ。なので廊下でもぞもぞするしかなくなってるみたい。なので僕も廊下で一緒にもぞもぞした。数年前親戚が来て同じような状況になった時は、僕は猫をだっこして親戚に見せに行ってた。親戚もたぶん猫を見て触ったりしたいだろうなと思ったから。でも今日はそれをやらなかった。猫と一緒に自分もリビングの外側の領域にいる。この前と今日ではそういう精神の違いがある。このように人は変わる。

洗面所で全裸の祖母としゃべりながら廊下と一体化しつつある猫を触りながら、一通りの自己分析を終えた。得た結論としては「攻殻機動隊をもう一回観直したい」だった。僕のゴーストがそうささやくので。

観た。押井守の『GHOST IN THE SHELL』。

ハア……素晴らしいな! ほんとに素晴らしい。美しい。面白い。アジアンテイストのスチームパンク世界でおこなわれる公安の刑事モノ…という外面の説明にはいっさい収まらない、生命の存在と魂の在りかをめぐる物語。作品を通して鑑賞者が一段上の実存へと昇華されるような力を持った映画だ。間が良い。間というか、間合い? が良い。全身義体のサイボーグ草薙素子が変質するまでの一連の物語だけど、義体部分の多いサイボーグのバトーや比較的生身で妻子持ちのトグサと彼女の間合いが粒だった台詞の対話によっていろんな対比を呼び起こして、無限の示唆を生み出す。その示唆は謡の響き渡る広大なネットにたゆたう。僕もたゆたう。最後はとても静か。天窓を落としたから、融合には雨が降り注ぐ。

観た。続編『イノセンス』。

うんちを踏んでいた。最近ご飯食べるときに攻殻機動隊のアニメシリーズ(STAND ALONE COMPLEX)を観ていて、攻殻機動隊ってしゃべっていることが全然理解できないから字幕付きにして観ていたのだけど、そしたらうんちを踏んでいることが判明した。はじめて知った。踏んでたんだな、うんち。

ハア……素晴らしい。素晴らしいの二乗。続編でこんな表現方法を変えて、そして前作より魂(ゴースト)に関する考察をより一歩推し進めている。僕はこんな続編を作りたい。前作の筋書きを模倣するんじゃなくて、前作で取りこぼしたものを回収するのでもなくて、前作を破壊して超克するのだ。前の日記で人間の可動域をフルに使いたいと思ったけど、球体関節人形の「人間らしさ」を裏切るぎょっとするような動きは、すごく美しい。それは僕にできない動きだからだ。そしてアニメーションがそれを可能にしているからだ。規格化されない身体表現に胸が震えた。それができるのはもちろん彼らが人間ではないからなんだけど、イノセンスにおいては彼らにもゴーストが宿りうるし、もしかすると人間よりも崇高な存在なのだ。

終盤にお人形を抱きかかえるトグサの娘と、犬を抱きかかえるバトーの対比が描かれるけど、廊下で猫を触っていた僕は何なのだろう。人間よりも美しい実在をクリエイトしたいという根源的な欲求があるのかな。動物を飼うことは無数の欺瞞を孕んでいるとは思うが、僕が猫を触っているとき、そのような欺瞞を強く意識することはない。「自分の方が上だ」とかその逆も無い。何だろう……。うちの猫には一日にこのくらい触られないと病んでしまうみたいなメーターがあるらしくて、その欠乏で鳴くから、僕はそれを埋めるために触っている。僕は奉仕している。でもそれは僕にとって大きな幸福でもある。……こう書くと聞こえはいいけど、「自分の方が上だ」がない、というのは嘘だな。無意識に自分の身体と猫の小さい身体の力勾配に、優越感や安心感をおぼえているだろう。そういう欺瞞があるだろう。欺瞞は意識しないところにあるから欺瞞たりうるのだろう。そして、欺瞞と「しかたなく」は近い距離にある。

何の話だっけ。うちの猫は決まった場所に排便するので、バトーのようにうんちを踏む心配はない。

でさあ、漫画も読みたくなった。読んだことなかった。攻殻機動隊ってあれほど豊かな舞台設定があるのに、映画2本で満足するのは無理がある。もっと「攻性防壁」とか「HV弾」とか「微細構造に行くほど非決定論的になる」とかを浴びたかった。士郎正宗が大量に書き残したコマ外の注釈を読みこみたかった。持ってなかったので、移動して読みに行った。

読んだ。だいぶギャグテイストで全然違ったけど、大枠の物語はGHOST IN THE SHELLだったし、押井守の映画や神山健治のアニメに出てきた粒だった台詞は漫画の時点で存在していた。言葉が光ってる。

人の心はもろい・・・
世の中の回転に呑まれて快楽中心になると利益効率追求機械やただの消費単位になってしまう・・・

2巻もあったんだ。ちょっとパラパラ読んでみたのだが、なんだこれ。全然違う。ぬるぬるした3DCGのキャラクターたちがいるし、世界観もより複雑を極めていて……何? 調べてみたら1.5巻というのがあった。そっち先に読むべきなのかも。それにしても2巻は、ほぼ毎ページあからさまに女性の身体をエロいアングルからエロく描いていて、読みたくない……。いわゆる読者サービスみたいなことなのか。掲載雑誌がそういう性格だったのかな。なんだか気持ちが落ち込んだので、中断した。またいつか読むかも。僕はS.A.C.で素子が常にバニーガールみたいな衣服を着ていることにも若干の疑問を抱いているからな。

今日も作業をしなかった。僕の創作ペースは、クリエイター失格かもしれない。罵ってください。失格なら別に失格でもいい。格という概念に興味はない。僕は猫を撫でることに忙しい。石を投げてください。石を投げるのに条件はありません。