違い窓

2025 - 12 - 17

港で、自動車を輸送する大きな貿易船に、車が運び込まれている様子。無数の車が列をなして、続々と船に入っていく。あれって一台一台中に人が入っていて、運転して入荷?しているってことですよね。じゃあ船の中に運び込んだあと、その運転者たちは車を降りて、歩いて戻ってくるってこと? 骨が折れる。もしかすると、送迎バスみたいなのが出ていたり……?

私の母の旧姓が中島です。今、急に、思い出しました。

10時半に目覚めた。

全然動けなかった。今日も大学に行かねばならないのに、身体がそれを否決し続けた。むしろ精神が否決していたのかな。言葉かな。とにかく、やりたいことがどうしてもできないとき、自分がマギシステムみたいに分裂している。

今日は友達が貸してくれるミニPCを受けとる約束をしていたので、行かなかったら迷惑がかかるのだった。自分だけの問題じゃない、このまま大学をさぼったら悪(waru)。パートナーはなんとか僕が動きだせるようにと動かない僕を「頑張って大学行って」とゆすってくれた。僕は抵抗し、「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」と意味不明なことを言った。

悪・エンド。友達に今日は大学に行けないですと連絡をした。オモコロ長島が「シャイン!」と叫んでいるスタンプが送られてきた。

情けない。

ランニングした。

情けない。ずっと寝るか寝ないかしてた。天井の光。1時半にようやく動き出した。もうほぼ寝る時間じゃないか。

アマプラで映画見ようと思ったんだけど、再生開始して冒頭の配給会社のロゴ表示を見たらなんだか急にどっと疲れを感じて、一時停止してしまった。そのまま20分ほど固まってしまったので、視聴は諦めて寝そべった。今日は捨てだな。

知り合いが、今度小学校の同窓会に行くと言っていた。僕が「小学校の同窓会に行くなんてすごいですね、僕だったら絶対行きません。なぜ話の通じないごみどもと喋らないといけないのかと思います」と言ったら、その人は「若いですね。歳をとると意外と全然関係ない人生を辿った人にも興味が持てるようになるんですよ」と言った。その人の言うとおり、僕も歳を重ねたらそうなるのかもしれないが、同時に誰しもがそうなるわけでもないだろうなとも思った。

そのとき話していた人には、僕の言った「ごみども」が、学歴や収入、社会的立場、知性などにおいてとるに足らない存在、という含みで発した言葉のように受け取られたように感じた。実際には僕の言った「ごみども」はかなり自分本位の評価であって、僕にとってなんの重要さも感じられない価値をめぐって躍起になっている人々のことを言っていた。誰と誰が結婚したとか、誰々がどこに進学したとか就職したとか、最近誕生した子どもがどうだとかもそうだし、芸能人がどうとか、野球選手がどうとか、服のブランドがどうとか、僕が興味ないものすべてだ。映画の話をしててもしょうもない映画について語っていたらごみだ。そのくらい自分本位で、周りからしたら各々の基準に照らして僕も「ごみども」の一人に数えられて当然だろうという相対性をふまえて発したつもりだった。

そのような僕の基準でいうと、小中に限らず、高校の同窓生も前の大学の同窓生も大半がごみだから、同窓会があっても全然行きたくない。高校や大学の同期は名のある企業に就職したりしているけれど、それでも(むしろそれゆえに)話は通じないだろうなと思う。

僕が能動的に興味を持って話したいと思えるのは、僕がそれぞれ個別的な出会い方をして、その経路で親しくなった人たちだけだ。そんな人たちであれば、学歴や収入や知性などどうでも良いし(親しくなってる時点ですでに無意識のフィルターを通した後なのかもしれないが)、彼らがつまらないトピックについて沸いていても、そこに参加する気分になれる。

なんでだろうと考えたけれど、たぶん、僕がつまらないと感じたこと自体をトピックにして提出できるからだ。あらかじめ親しい人たちになら。そのフェイズを超えてから、やっと僕は謙虚になれる。最初から謙虚ではいられない。大半の人々は、こちらの謙虚さを割いて寄り添うにはあまりにもねじれの位置にいすぎる。(向こうからしたら僕がねじれた位置にいる)

同窓会には行きたくない。今のところ。

でも同窓会こそが、社会的立場等にとらわれず「個別的な出会いかたで、親密であった者たち」が集まる場、ともいえるか? でも実際に親密だった人たちとは普通に今も交流してるしな……。どうなんだろう。

僕はわりと多くの人に懐いている(なぜかはわからないがそういう現状がある)けれど、それでも人嫌いではあると思う。その人嫌いの程度は、年々増している。それに反比例するように、自分のことを好きになっていってる。

そういえばこんなのを読んだ。

カフカの『断食芸人』に対応する「孤独芸人」もきっと(たくさん)いるにちがいない。前者が実は「(この世界にたまたま)口に合う食べ物がなかった」だけなら、後者は実は「(この世界にたまたま)気の合う人がいなかっただけだろう。前者は食べることが、後者は人づきあいが、大好きだったのに。

(中略)

しかし、その逆の人もいるはず。持って生まれた性格としては人づきあいが大嫌いだったのに、たまたまなぜかそれを超えて気の合う人に巡り会えた人とか。(これは、食べ物の場合と違って相互関係であることを考慮に入れると、さらにすごい話になるなあ。)

永井均『独自性類的人間』p.116

「自分のことを好きになっていってる」とは書きつつ、それはそれとして、さっきパートナーにまた「生きるの面倒くさすぎる。死にたい」と言ってしまった。「天井の灯りの形を眺めて、心にポカーンと隙間ができたみたいに虚しい感じと疲れに覆われるんだけど。あなたという存在がいてもなおこれだったら、僕のこの感覚は一生続くってことですか? だとしたら生きるのって相当面倒くさくない。やってられなくない」と言った。パートナーは「何か生きる意欲につながるようなことに打ち込めたらいいね」と言った。

「死にたい」って軽く言ってしまう癖をやめたい。それは本当に「死にたい」と思ってる人に対して失礼だと感じるからとかではない。「死にたい」という言葉がそもそも軽くないことなどないからだ。面白ければいいけど、「死にたい」は無内容で軽いわりにはドスが効いてるから、発さないほうがいい。

「死にたい」という言葉が軽くないことなどない。本当に「死にたい」と願う人はいない。願いとは持続を前提にするものだから。死にたいと考える人はいるけど。「考える」だけで自分が本当にそう「願っている」と感じる人は、「考える」ことが営みとして実在に直結する重大事に等しいという一時的な思い込みに罹っている。実際のところ、人が「死にたい」と思うときは、「死にたい」という想念が現れているだけなのだ。トレンドワードが通り過ぎているだけだ。

実際に死ぬ人たちはいる。僕の言う「死にたい」は、そのこととは関係がない。

考えるべきことなんかない。

片思いは別に誤解であるわけではないが、片思いされた側から見るとあたかも誤解されたかのように感じられる。自分の作品が誤解に基づいて褒められた感じに似ている。

永井均『独自性類的人間』p.116