天啓のアフォーダンス

2024 - 09 - 16

事もさささささささささササ旧弊なロボット像を達したらどうかね

起きた。夢の内容を書こうと試みたけど、だめだった。寝ぼけてて、うまく打てなかった。もうおぼえてない。

旅行中に溜まったメールとDiscordを処理した。普通の人って、溜まったメールとDiscordを処理したことなんか日記に書かないのかな。自分としては、一大事業のような重みがある。

昨日見た、サンフランシスコ空港の隙間に潜んでゲームをする子ども。

自分の好きなことについて、少し理解が深まった。僕は物のもつ意外なアフォーダンスが発見されたときに、感動をおぼえるのだと気づいた。

アフォーダンスとは、物(と他者の関係)に内在する行為の可能性のことだ。

例えば、僕の目の前にリンゴがあったとき、僕はそのリンゴを食べることを想定できる。リンゴは「食べるアフォーダンス」を持っていると言える。あるいは、そのリンゴを手に取って投げることもできるので、「投擲するアフォーダンス」を持っているとも考えられる。

一部の物は、そのものが発火させたい特定のアフォーダンスを有していて、それを関係者に伝えるために見た目などを最適化することがある。

この電車の吊り革は、立って乗車する人がバランスを保てるよう、「手で掴まるアフォーダンス」の発火を期待している。だから、写真のように輪っか状になっていて、輪の大きさは手をちょうど差し込みやすい手の幅に近いサイズになっている。このように、手で掴まるアフォーダンスが発火されやすいようにデザインされている。こういったデザインの現れをシグニファイアと呼んだりする。

ところでこの吊り革は、他のアフォーダンスも内蔵している。僕はこの吊り革を、舐めることができる。しかしこの吊り革は、「舐めるアフォーダンス」の発火は求めていない。だから、そうならないような作りをしている。あきらかに人工材のテカテカした素材は、ほとんどの人には舐めたいという気持ちを減退させるだろう(舐めたくなる人もいるだろうけど)。また僕は、コンビニで購入したおにぎりを三角の穴に嵌めることもできる。しかしそれも、吊り革側の求めるアフォーダンスではない。あくまで掴まることを想定された吊り革の各辺の細さは、おにぎりを設置するには不安定すぎる。でも、三角形のサイズはちょうどおにぎりっぽいから、若干「おにぎりを嵌めるアフォーダンス」が喚起されているとも言えるね……。事実、そういう発想が僕の中に生まれているわけだし。

調べたら、2013年に実行されていた。やってんじゃん。もしかしたら、この画像をすでにどこかで見たことあって、僕の中で「吊り革におにぎりを嵌める」というアフォーダンスが強調されていたのかもしれない。

「シグニファイアは特定のアフォーダンスのみ強調し、他のアフォーダンスの存在を隠蔽する」ということを言うために例をあげたかったけど、失敗してしまった。でもむしろ、言いたいことを先取りできたかもしれない。

僕はこういう「物がアピールしていなかった、意外なアフォーダンスが見出される」ときに強い感動を覚えるのだ。

イニャリトゥ監督の『レヴェナント:蘇りし者』では、追っ手から逃れるために馬に乗って吹雪の雪原を走る主人公が、崖から墜落してしまう。馬はそこで、転落死してしまう。主人公も負傷のため、動けない。このままだと主人公は凍死しそうだった。そこで主人公は、死んだ馬の腹を裂き、内臓を取り出した上で、その中(馬の体の中)に潜り込んだ。馬の身体を使って、寒さを凌いだのである。ここではさっきまで「乗るアフォーダンス」を発揮していた馬が、主人公によって「防寒着になるアフォーダンス」という意外な可能性を見出されている。僕はこのシーンがとても心に残っている。この映画で一番好きな場面だ。

あとゴダールの『勝手にしやがれ』のちょっとしたシーンで、主人公が新聞屋で朝刊を購入し、それを手に持つなり、読むでもなく靴を拭いて捨ててしまう場面があった。新聞の基本的な「読むアフォーダンス」が「靴を磨くアフォーダンス」に取って代わられていた。これにもすこぶる感動した。ここでは新聞という情報メディアとしてのあり方は解体され、「紙素材のもの」というレイヤーの異なる存在感が強調されている。この転回、あまりにもクールだ。

この子が僕の心を掴んだのは、サンフランシスコ空港の建築の結果とくに意味もなく生まれたこの凹み(凹みはそもそも存在ですらない)物に、「腰かけてゲームをするアフォーダンス」が見出されていたからです。たぶん……。こんなにもぴったし体長が合致し、あまつさえ充電まで完備されていることに、天啓のようなものを感じたのだ。

僕がゲームをつくることが好きなのは、ゲームがまさにアフォーダンスを扱う芸術だからだ。ゲームはプレイヤーに世界を与える。プレイヤーはその世界を見て、触って、自分のできることを想像する。そして、実行してみる。そのような過程でいつか、プレイヤーはあっと驚く行為をこの世界が可能にしてくれることに気づき、心が震える。

クラッシュバンディクーの世界では、リンゴは「100個回収すると1機増えるアフォーダンス」を持っている。

なぜ僕は意外なアフォーダンスが発見されると感動するのかというところまでは、まだ自分の中で把握できていない。ほとんど直観的な、神の啓示みたいなものを感じるのだ。すごく嬉しくなって、生きててよかったと胸がすく。ここのところ、もっと掘り下げて言葉にしたい。