Now & Then
病院に行った。先生は「体調の波というのはどうしてもあるけど、確実に良くなっていくからね。今の落ち込んでいる自分が、本当の自分だって決めつけないようにね」と言った。僕は、今までの人生のどの部分が本当の自分だったのだろうと思った。
「自分」という意識は、なるべく薄めるようにしている。自分とは情報思念の大きな流れのうちの、ただの一瞬の淀みでしかないと考えている。自己意識の強いまま薬等による回復を目指すことは、今の自分の存在を「間違った状態」だと否定することを意味する。それはともすれば「自分が別人になっていってしまう=自分が死んでいく感じがする」という不安をかき立てる。
この記事が記憶に残っている。僕が今飲んでいるのはコンサータではないけれど、薬効によって自己の連続性が曖昧になると感じることはままあった。
僕の場合、あまり自己の連続性に頓着していない。輪郭のくっきりした「自分」というもの存在をひとたび認めると、そいつはあまりにも不義理を働きすぎていて、怠惰だし、幸せに見えないことが多いので、嫌になっちゃう。先生に言われた「今の自分が本当の自分だと思わないように」は金言だ。それをラディカルに突きつめて「『真の自分』というものはそもそも存在しない。時間軸の各座標に、名前をつけられる程度の連続性が認められる分子の澱みがあるだけ。その名前が、あなたの名前」と考えるくらいが、やりやすい。このくらいでいいのだ。そもそも精神を病む人は、一般の人よりも自己意識が強すぎることが多いんじゃないのかな。
変わることを恐れる必要はない。そもそも変わる主体=自分など、存在しないのだから。という仏教っぽい考え。自己がなければ、自己愛も自己嫌悪も考慮しなくてよくなる。

新しいおくすり手帳、かわいすぎだろ!
体調が悪すぎて、結構重要?な方との会食の予定を土壇場でキャンセルしてしまった。罪悪感と後ろめたさで落ち込んでいたら、先方から「ぜんぜん気にしていないよ! お大事に」といった旨の返信不要メールをわざわざいただいて、救われた気持ちになった。僕は自分のメンタルの面倒すら見きれていないのに、先方は、他人である僕の気持ちをも察して気を遣ってくれているのだ。アアアアアア。俺も強くならなきゃ。
買い物を済ませたら家で寝てた。
HUNTER×HUNTERの最新巻(38巻)を読んだ。HUNTER×HUNTERは、冨樫氏がいったいどういうつもりで描いているのかよくわからないところがすごい。主人公のゴンは長いこと登場していないし、38巻に至っては本編主人公格のクラピカすら出てこなかった。ずっと「状況の整理」が行われていただけのように見えた。キメラ=アント編の後半くらいから、この物語は複雑を極めた論理パズルになってきていて、文字情報がとんでもない。文字がやたら多いのはジャンプ漫画の特徴のようにも感じるけど、HUNTER×HUNTERはその中でも異常な密度だ。冨樫氏は、どういうつもりで描いてるのか。風呂敷の広げ方にいっさいの迷いがなくて、どのように畳むのかが見えない。彼がいったいどこに勝ち筋を見出してこの漫画を描いてるのか、探らなきゃいけない。気を抜くと、ただの叙事詩の読み上げみたいな体験に終始してしまう。むずい。あともしかしたら僕、前巻まだ読んでないかもしれない。
祖母が僕を、ベランダに連れてきた。月の周りにきれいな虹色の輪が見える、と言うのだ。僕は夜空を見上げた。かろうじて薄い月暈は見えたけど、虹色には見えなかった。「なんで? どうしてあれが見えないのよ? あんなに綺麗なものがくっきりと光ってるのに」祖母は、自分しか見えないことに困惑していた。写真に撮って僕に示そうとしていたが、スマホのレンズも虹の輪は捉えていなかった。祖母だけが見えるのだった。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』を観た。小さい時に観たことがあって、自分の中ではまさにこの作品が「懐かしい匂い」を放っていたので、観た。昔観た時は、敵役の男と女がやけに不思議な髪型と服装をしていて、怖いと思っていた。今観ると、あれはジョン・レノンとオノ・ヨーコをモデルにしていたのかと気づいた。序盤でみさえとひろしが家のお菓子をバリボリ食べまくるシーンがあって、すごく食欲が湧いた。高度経済成長期の「未来は明るい」という希望に溢れた時代を懐古しつつ、それでも前を向いて、今を生きようというテーマだった。この映画は2001年のものだ。僕からすると、高度経済成長期の時代は遠すぎて想像がつかず、むしろ2001年という昔の方に、漠然とした憧れがある。『リリィ・シュシュのすべて』『オトナ帝国』『千と千尋の神隠し』『ハリー・ポッターと賢者の石』など好きな映画ばかり公開されているし、2001年宇宙の旅もあるし。でも当時はアメリカの同時多発テロなどがあって、いいムードとは言えなかったのかな。
今の2024年は、未来ではどのように懐古されるのだろうと考えた。オトナ帝国は当時(1970年代)の空気や細部を鮮明に覚えていた人が脚本を書き起こしたから出来上がった名作なわけで、いつか僕がいまを振り返る作品を作るなら、この現在の時代観を頭に刻んでおかなければならない。
ぼんやり考えたけど、よくわからなかった。少なくとも、未来が明るいとは思えない。現代に支配的なものといえば、やっぱりSNSだろうか? 「承認欲求とキャンセルカルチャーの時代」と言えば、それっぽい。それなら自分にも思い当たる部分がある。しかし、昔はテレビだった主要メディアがSNSに移行した、と簡単に言うこともできない。SNSといってもTwitter、Instagram、TikTokと細分化がなされていて、Twitterくらいしか見ない僕の視点では、Instagramや TikTokをメインプラットフォームとして生きている人たちはまるで異世界の住人だ。SNSというものを一口に語ることは難しい。それにテレビも力を失っているわけではなく、どちらかというとテレビとSNSが相互に利用しあっている印象がある。仰天映像の番組でよく流れる大型トラックがひっくり返る動画や、ペット番組で流れる猫が蛇口の水をうまく飲めない動画はすでにTwitterで嫌になるほど見たことあるし、Twitterのタイムラインには水曜日のダウンタウンや月曜から夜ふかしの違法切り抜き動画が溢れている。未来が明るいとは、思えないな……。
つらい。身体がヘトヘトでさあ。いくつかの行動の選択肢を考えた。「寝る」「ゲーム開発をする」「本を読む」「ゲームする」「クレヨンしんちゃん戦国大合戦を観る」など。しかし、脳がそれぞれの可能性を計算し、すべてリジェクトしてしまった。今の俺には何もできなかった。手持ちのカードがなくなり、ベッドにへばりついて、詰んだ。僕は、テレフォンを使用することにした。パートナーに電話をかけた。
彼はすぐに電話に出た。彼に、今日起こったことを話した。本当の自分は人生のどの部分だったんだろうと言ったら、彼は「未来じゃない?」と言った。なるほど? 彼は、スプラトゥーン3のグランドフェステーマ「一番大事なのはどれ? 過去 vs 現在 vs 未来」にて、僕が「未来」に投票したことを指摘した。僕は未来が一番大事だと考えているらしい。本当の自分は、これから登場するのだろうか。Coming soon…
「脳がすべての行動を拒否してしまい、何もできない。どうすればいい?」と話したら、「コンビニに行ってお菓子買えば?」と言われた。深夜2時にそんな!

コンビニの照明の白さは、コンビニエンスが前面に出すぎていてはしたないけど、同時に愛しくもある。

自己破壊的な人間は、サワークリーム&オニオン味を選びがちという統計が出ている。「コンパクトになって内容量そのまま」って。それは、そっちの都合だろ。
昨今のお菓子のシュリンクフレーションのことを考えても、未来が明るいとはますます思えなかった。しかし考えてみると、日本の未来を作るのは、まさに僕の世代の仕事だった。そんな若者が欺瞞的なプリングルズ(しかもサワークリーム&オニオン味)に甘んじていては、この国も、終わり。
バリボリ食べた。おかげで眠れそうだった。今日はちょっと、一日中つらかった。