世界は有限回の手続きで終わる
不本意ながら、起きた。
大学に行って作品計画の発表をおこなった。自分の発表があっという間に終わってしまったので、僕はキャンパスを散歩した。

石の柱の上に、どんぐりがあった。どこかの学科の取り組みなのか、それとも愉快犯の仕業かわからないが、この大学のキャンパスにはどんぐりがやたらと人為的に配置されている。勾配のきつい坂道に、とても長いどんぐりの列がつくられていたこともある。
これを見て、僕の脳内には複数のコマンドがただちに浮かびあがる。「どんぐりを手に取る」「写真を撮る」「無視する」などだ。しかし、実際のプレイアブル空間は三つ程度では収まらない無数のアフォーダンスを有している。たとえば僕は「石の柱を蹴って、その振動でどんぐりを倒す」こともできる。また、「石の柱にもたれかかり、寝る」こともできる。『石の柱の上に、どんぐりがあった。』この文は、どんぐりを主語にしている。僕はそう書いた。『どんぐりの下に、石の柱があった。』とは書かなかった。それは、一粒のどんぐりが配置されることによって、石の柱がたちまち「台座化」してしまったからだ。台座という存在は、自身の主張を抑え、一定のアフォーダンスを隠蔽してしまう。
背景化され、気づかれないもの。図に対する地。痕跡、不在、空間のすきま、影。僕の制作にはよくこのテーマが現れる。そういうものに目を向けるとき、世界が広がる感覚がするのだ。存在のレイヤーを操作して、僕たちが世界にどのようにして在るのかを、もっと自由に把握していきたい。

どんぐり柱のすぐ近くを見た。レンガの上に、麦茶が置かれていた。麦茶、全然減ってないし。誰かが置き忘れたのかな。自分が麦茶を持っていて、この石段に腰掛けたとしたら、レンガの上に置くだろうか。置くだろう。レンガはその状況において、あまりにも台座としての適性を主張していただろうから。色も明るく目立って、少しだけ高い。上面は平たく、安定感がある。パズルのピースが嵌まるように、麦茶はここに置かれた。そしてレンガは、役割を果たしたかのように息を潜める。僕がこの麦茶をこの場でこぼせば、レンガには液体の染みが残るだろう。それは、すごく美しい染みになるはずだと思った。

この像のせいか? これを中心として、どんぐりや麦茶があった。きっとこの像が「台座化」を促す磁場を周囲に放っているのだ。手が、台座らしき円柱に接地している。しかしその円柱もまた、もっと台座らしい石材の上に置かれている。背の低い石材の存在によって、円柱の台座は少なからぬ脚光を浴びているのだ。それに、この円柱と手は相互依存的なバランスを保っている。この像の円柱の存在感は、皮肉的な威力を放っていた。
オサンポ=タノシ

帰った。
ついにBASEの完全食カップ焼きそばを食べる時が来た。インターネットでは「しめ縄の味」と散々の評価だが、いかに。僕はいただきますをした。
うわあ。ちぢれた麺の食感がもきもきしていて、すごい飲み込みづらい。しめ縄の味というのも、なんとなくわかる。動物園で買える餌みたいな風味がする。藁感、だ。茅葺き屋根の家の茅葺き屋根を食っているようだ。でも焼きそばソースは良い仕事をしていて、なんとかしめ縄感を隠そうとしてくれていた。これによって体裁を保とうとしている。食べ進めていくうちに、味には慣れてしまった。味よりも、嫌にもきもきした噛みづらさの方が問題な気がしてきたな。
このカップ焼きそばは、生存に必要な栄養素をすべて盛り込む成分配合上、必要な犠牲を払ったのだ。不味かったけど、好きだ。こういう存在が嬉しい。人間に対するなにかこう、裏返しのリスペクトを感じた。受け手を信じてくれているのだ。僕は君を、ずいぶん探したんだよ。出会えて本当にうれしかった。
その後、元気を失った(カップ焼きそばのせいではない)。身体に力が入らなかった。パートナーから、本を3冊借りた。それを読んで過ごした。
祖母が以前から月の周囲に見ていた虹色の輪は、虹視症という緑内障の症状の一つだった。スーパームーンの夜、人々が白い月暈を見上げるなか、祖母だけは虹色のそれを見ていた。緑内障は失明に至る不治の病だが、処方の点眼薬を差しておけば進行は遅らせられる。そうしていれば、自分が死ぬ前に目が見えなくなってしまうことはそうそうない。祖母も欠かさず目薬を差していた。それでも、祖母の眼の中で緑内障はゆっくりながら着実に進行し、視覚に変化を引き起こしているようだった。
父も緑内障に罹っていたことが、この前わかった。遺伝の要素が強いようなので、この調子だと僕もいずれ発症する可能性があるだろう。もしそうなったら、満月の日に、みんなには見えない虹の輪を、自分のものにできる。今は祖母にしか見えない、不可視の光。いつか僕の目でつかまえる。