ここから先はあなた一人
18時に起きた。
今日は20時から渋谷でご飯を食べる約束があった。会食という、やつ。なぜか全然緊張しなかった。
『風の谷のナウシカ』では、トルメキアの戦車がこちらに向かって動きながら砲撃してくる様子を、真正面から見るカットがある。こちらに向かってきているものの、そのとき戦車の絵は大きくなったりはしない。大きさが変化しないかわりに、ほんの少しずつ画面下方向に移動している。大きさの変化がなくとも、見る者は「こちらに向かってきている」と感じることができる。これは決して普遍的な感覚ではない、とパートナーが教えてくれた。ドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた。』で宮崎駿が語ったことによれば、望遠レンズが発明される以前の時代の観客の目からは、大きくならない戦車が「こちらに向かってきている」とは思えないらしい。それが発明され、望遠の画角に人々が見慣れた今だからこそ、アニメーションにおいても「大きくなっていないけど、こっちに向かってきているように感じる」画を観客は違和感なく受け取れるようになったんだって。アニメーションは、カメラに縛られない自由な映像表現などではなく、実写映画に用いられるカメラの技術的制約をそのまま引き継いで画角を想定し、決定するものなのか。おもしろ!

3日間行けなかった、渋谷スクランブル交差点に来た。恥ずかしい。ここでARプロジェクトが行われた。
ご飯は、素敵な和食のコース料理だった。うれしい、和食好きです! 昨日は油そばとパスタとクッキーしか食べなかったので、何か欠乏を感じていた。和食コースは、まさにそれを満たすものだ。
お相手はとある会社のAさんと、社長だった。Aさんは何度か話したことのある人だ。社長と会うのは、初めてだった。話を聞くに、今回の会食で内定がどうこうなることはないらしい。社長も特に事情を知らないらしく「聞かされてないんですけど、今日これ何の集まり? 僕、トロヤさん?でしたっけ?のこと正直あまり知らないのですけど」と疑問符をあげていた。僕は「僕もわからないです。雑談をすればいいんですかね?」と言った。Aさんは、トロヤくんと社長にとりあえず話してみてもらいたかっただけですと言った。
ということで、雑談した。雑談といえば、やっぱり僕は進路相談から始めてしまうのだった。就活とDeath the Guitar、大手とベンチャー、あるいはフリーのゲームクリエイター……ようするに、僕はどうすればいいですか? というのを訊いた。
社長は「自分のことは自分で決めるしかないですね」と言った。僕は「はい。そうするので、そのためにぜひこう、判断材料を、ください! いろいろと」と言った。彼はいろいろ話してくれた。
「Death the Guitarの開発と就活のあいだで悩んでいるって言うけど、『どっちかじゃないといけない』という二択は適切じゃないんじゃない? とりあえずDeath the Guitarが完成するまでは就活せず開発に集中して、発売してから売り上げに応じて進路を考え直して、就職活動を始めればいいじゃん」
僕は「でもそれだと、新卒じゃなくなっちゃうじゃないですか。僕もう今年で25歳になるので、なにやら焦りが」と言った。彼は「別に二卒とか、新卒とほぼ変わらないから。もちろん受けられる会社の幅は多少狭まるかもしれないけど、理解ある会社なら『個人開発に1年間集中していた』という事実を伝えればもう、新卒と変わらず取り扱ってくれるよ。基本会社ってのは大学何周してようが何浪してようが、優秀な人材は欲しいからね。それこそベンチャーだったら、開発が終わるまで内定を待ってくれるってところだってある。そんなに融通効かない業界じゃないよ。絶対にここに入りたいっていう特定の会社は無いんでしょ? だったら二卒で入れる口なんてごまんとありますよ」
なるほど。「でも内定のないまま卒業すると、次年度、住むところがなくなります」と言った。
「それって家から追い出されるってこと? 本当にそうなの? たとえば親に土下座して、1年くらい実家に住まわせてもらうとか。そういう選択肢は考えてみた?」と言われた。「土下座をすれば……というか、土下座はしなくても置いてもらえると思います。ただ僕自身が家から出たいと思っているというか。人との共同生活に不自由を感じているので」
「なるほど。だいぶ強欲ですね。家は出たいけど、自分のゲームを売って生活したい。ゲーム会社にも入りたい。でも興味ないゲームには携わりたくない(さっき彼に、ゲームジャムに3日間行かなかった話をしていた)。まあ強欲なのは悪いことじゃないと思いますよ。僕の知り合いにアーティストは多いけど、みんな『やりたくないことはやらない』ってタチで、自他共に認める社不ばかりで。彼らなんかは会社に入るなんて選択肢、最初からなかったですね。君と話していると、会社に入ってチーム制作すると辛い思いしそうだな〜って思うけど。なんで会社に入りたいんですか?」
社不……。「それでいえば僕、自分のことまだ社不と認めたくないです。めちゃめちゃ寝坊するけど、それが『起きられない』のか『起きない』なのかわからないというか。『やれない』のか『やらない』なのかも、わからないです。わからないというか、決められないです。そのアーティストの方々って、どういう基準で自分を社不だと割り切ったんですかね? 僕が会社を目指す理由は、偶発性の機会を失いたくないというか……集団でゲームを作るという新しい経験をして、そこで思わぬ成長や思わぬやりがい、思わぬ幸せを見つけるとか。そんなセレンディピティを秘めた環境に身を置いてみたいからですかね」もうこのくらいしか、大手を目指す理由がなかった。
「たしかに、会社に入ってはじめて見出せる幸せってのはあると思いますね。それが見つかるかはマッチング次第だし、運もあるね。しかしその理由だったら、ゲーム業界に固執する必要はなくない? 別の業界に入ってもよくないですか。やっぱりそこに、譲れない自我があるんじゃないですか?」僕は「そうですね、ゲーム以外は嫌かも……あと最近、ゲームはゲームでもオンラインゲーム・スマホのソーシャルゲーム・大手の作るコンシューマゲーム・インディーゲームじゃ、もはや別物だなって気づきました。『ゲームが好きだからゲームの会社に入ろう』はまだ判断としては甘くて、本当は『大手のコンシューマゲームが好きだから大手のコンシューマゲーム会社に入ろう』くらいきめ細かく動機と目的が一致してないといけないんですよね。たぶん。で、僕が好きなのはあくまでほとんどインディーゲームであって、それを理由に大手のゲーム会社を目指すのはミスマッチなのかもと思いました。あとさらにいえば、最近よくゲーム会社で働く方にどうしてこの仕事を選んだんですか? と訊くんですけど、『人を喜んでもらうことが嬉しいから』とか『生まれで決まる要素に左右されない、誰もが等しく幸せになれるモノを作りたかったから』みたいな答えを返されることが多くて。あくまでゲームというメディアに心酔してるのではなく、ゲームという手段を選びとるに至る内発的な動機や思想があって、それを軸にすることは大事だなあと思いました。僕ももっと『ゲームを作る』に至るまでの根源的な自分の思いを、明らかにすべきだなと感じてます。別にそれがはっきりすれば、メディアはいつだって変えてもよいし、創作に固執しなくてもいいわけですよね」
社長はうーんと言った。「わかる。でも一方で、君をさらに惑わすようなこと言うけど。そういった内発的な思いには目もくれず、一つのメディアに人生を捧げることでしか到達できない、プロフェッショナルの形もひとつあると思うんだよね。音楽で大成功しているアーティストとか、他の分野にも才能があることは全然あるけど、たまたま幼少期から音楽をやっていたってだけで、音楽がその人の人生そのものになるというパターンはあるから。まあ、いろいろだね。正解を見つけることより、自分で道を選んで、その道を自分の力で正解にしていくって考えが大事かもね。僕も起業した当時は、いろいろ方法を探って迷っていた。運良く軌道に乗りましたけど、でもやっぱ、会社経営ってまじで正解ないんすよ。もう俺たちはこのやり方で行く! と決めて、それだけを頑張りました」
など。社長は「結局自己分析が完璧にできてたら、会社に入るか、いつ入るかについても迷うことなんてないんだけどね。君はなんだか余計に追い立てられているような、切迫した感じがあるね。それは俺もよくわかるけど」と言った。「社長も追い立てられてますか?」「もう◯歳になるけど、いまだに追い立てられてるね。これはどうしようもないね。常にプロジェクトを抱えていて、ふと病気で数ヶ月入院とかになったら楽なのになって思ったりしますよ。トロヤ君もきっと、一生追い立てられる人生ですよ」
「僕もう、これ以上歳をとるの耐えられないんですけど。社長も嫌ですか?」と訊くと「あらがってはいきたいですね。活動それ自体については全然焦っていないけど、やっぱ人体としての賞味期限は感じる。体のメンテナンスのために金と時間を割かなきゃいけなくなってきて、驚くほどやりたいことやれる時間が減っていきますよ」僕は先日腰痛になって毎日体幹トレーニングをするようになった話と、眠りたいときに眠れない話と、口内炎がうざいという話と、油そばを食べて欠乏状態になったので今日は健康的な和食が食べられて嬉しいですという話をした。社長とAさんは「油そばなんて言葉、久しぶりに聞いたわ」と笑った。

社長は糖質制限をしているので、デザートを食べなかった。やはり健康のために犠牲を払っている。僕がもらって2人分食べた。「口内炎はビタミンが足りてない証拠なんで、マルチビタミンのサプリを飲みな」と言われた。「サプリメントって結構、宗派がありますよね?」と訊くと、「いやあるけど、マルチビタミンだけは100人中100人が首を縦に振るヤツだから。王道王道」と言われた。
その後もいろいろな雑談らしい雑談をした。「住む家ってどうやって選べばいいですか?」「僕コーヒー好きなんですけど、何飲んでも美味しく感じちゃうんですよね。どうしたらコーヒーの良し悪しがわかるようになりますか?」「最近何かいい本読みましたか?」など。年上を前にすると、質問ばかりしてしまうな。ン。
会食はぬるっと終わった。めちゃ楽しかった。疲れる会食ではなく、心が回復する会食だった。よかった。僕は進路について「来年は就活をせず、Death the Guitarを完成させてから、改めて就活を考える」という新たな選択肢が視野に入った。なるほどな。なるほど……。その道でひとつ怖いのは、Death the Guitarをいつまでも完成させられないことだ。ム。
進路。
誰に相談したところで、最後には自分で決めるしかない。

マルチビタミンを買ってみた。まんまと。こちらで、口内炎を一掃。
帰った。昨日シンジのことを考えていたら『エヴァンゲリオン旧劇場版』を見たくなったので、見ることにした。旧劇は、昔に一度だけ見たことがあった。どういう展開になったのか、覚えていなかった。シンジが射精することと、アスカが「気持ち悪い」と言うことしか覚えていなかった。とにかく、大変なことになったという印象だけ残っていた。みんな死ぬんだっけ? 死ぬとか生きるとかじゃないんだっけ、もはや?
見た。めちゃくちゃ良かった……! 名作だ。ATフィールド(自他境界)の存在をシンジが受け入れたことによって、サードインパクトが回避されていた。他者のいる世界、摩擦のある世界、差異のある世界、性のある世界、痛みと快楽のある世界がこれから始まる。アスカの「気持ち悪い」はそのことを象徴する、もっともリアルな言葉だった。希望の第一歩というふうに見えた。おぞましい顔をしていたけど、前を向いていた。アニメ版よりもハッピーエンドに近いように思った。
アニメ版はどんな終わり方だったっけ。僕は、最終2話を見直した。エ! こっちもめちゃくちゃ良い……! ものすごい名作じゃないか。こちらのシンジは、旧劇とは真逆の解決に手を伸ばした感じだ。華々しくも白々しい終わりに向かっていた。ものすごい視聴後感。メディア批評的な映像表現で、熱かった。アニメーションを解体し、オタクを解体していた。ほぼマルホランドドライブじゃないか。今見ると名作としか思えないけど、TVアニメにおけるこの批評性が未開発だった(という表現でいいのかな)放送当時は、この内容で大批判が吹き荒れて、「庵野殺す」とまで書き込みされるに至ったのか。その時代感を自分が知らないのが、残念だった。
旧劇場版とアニメ版のすごさに比べると、新劇場版は、よくわからなかった。なんだか無駄が多かった気がしてしまう。「ポカポカする」は、あまり良い言葉とは思えない。エヴァが新劇というサービス精神旺盛な作品に進化したことこそが、一人間が思春期を乗り越え、複雑の世界に足を踏み入れていく過程の象徴、と見られたりするのかな? 数多のチルドレン、そして庵野監督自身の人生に伴走してきたエヴァンゲリオンシリーズだからこそ? こっちもまた見たい。新劇場版は、父の碇ゲンドウのパーソナリティに焦点が当てられたことが評価されている印象があった。
エヴァは、主人公シンジの「乗らなさ」がとにかくすごい。クール。シンジが乗ってない間は、アスカが戦っている。アスカばかりいつも頑張っていて、気の毒で、僕は応援してしまう。アスカ、頑張れ。いや、頑張らないで。ゆっくり過ごして、食べたいアイスを食べてくれ。アスカとナウシカは、頑張りすぎ。
一日の終わりごろ、パートナー(好きなキャラは冬月)と少し長話をした。彼に「僕に対して思ってることを、もっと言ってほしい」と言った。すると「Death the Guitarを全然作ってなくて、大丈夫だろうかと思ってる」と言われた。
加持リョウジは「誰も君に強要はしない。自分で考え、自分で決めろ。自分が今、何をすべきなのか」と言った。
寝た。