可能世界のミルキーウェイ
12時に起きたら、初めから希死念慮があってびっくりした。ゆっくり動きながら、この久々の死にたいという思いが何で構成されているのか、考えた。孤独? と、恥? すべての人に見下されているような気がする。というよりも、関心を払われなくなった? 昨日までは関心を払われていると思っていたのか。日記の内容が、途端に恥ずかしくなっていた。一文一文が、自分の恥部を象っている。そんなの初めからそうだろ。先輩に返したLINEとか、会社の人との会話とか、以前交わしたゲーム開発友達とのDMとか、僕はすべり続けていたような気がしてきた。もしかして、誰一人として、僕の言っていること聞いていなかったか。自分本位なふるまいをしていたのかな。「こいつ、自分の話したいことばかり、ごちゃごちゃと……」と思われていたか。誰もが、僕の底の浅さに呆れ返っている頃、いやもうその段階は終わっていて、誰しもが僕のことをどうでもよくなった頃。
今週は、生活のルーティンを作ることを意識した。平日は自宅で過ごすと決めたので、家出していない。今までより祖母とよく話した。猫とよく触れあった。テレビのニュースを見た。Twitterはあまり見ていない。mixi2が開始して、みんながアカウントを取得しているのは知ってる。そのことも少し、頭にちらついたりしてる。パートナーにも会っていない。これも、土日に会うということにしてみた。目に触れる情報の趣が変わったことで、自分の「今ここにいる感」が希薄になったのかな。
駅へ歩きながら、死にたさにつながっているらしき一連の不安はひとまず飲み下した。不安の成分を言語化のフィルタを通して把握することは大切だけれど、それを受けての反省や、それに対する反論は、必要ない。不安はあるだけ。不安がある以上のことに、目を向ける必要はない。道中でパニックになったら、一旦しゃがみ、目を瞑って何もしないことにしよう。目的意識はいらない。

テープで導線が作られていた。これは、クリスマスが近づいていることを表していた。矢印の先にあるのがケーキ屋だからだ。気分が落ち着いた。

床に赤ん坊が。甥だ。甥が落ちている。
育休中の姉の家を訪ねていた。
僕は、甥にはもう会わないと決めている。もし僕が自分の悪性を本格的に発現したとき、甥を無意識に利用してしまうかもしれないと思うからだ。それはもしかしたら、彼の発達に瑕疵を与えるかもしれない。僕は、彼の幼少期に関わりたくないのだ。
『悪』
この前「甥にはもう会わない」と決めたのだけれど、姉に誘われて、人恋しさに来てしまった。まあ甥も、自我の無いうちなら会っても問題ないか。甥と距離を置いて座る僕に、姉が「大丈夫だよ。ここだけの話、まだ犬より知能が低いから」と言った。僕は姉に「彼に自我が芽生えたら、僕はもう彼には接触しないつもりだから、以後はトロヤという叔父の存在は伝説として語り継いでおいて」と頼んだ。
「寝返り返り」というORANGE RANGEみたいな響きの育児用語を教えてもらった。とある時期の赤ちゃんは「仰向け→うつ伏せ」の遷移は自力で出来るけれど、「うつ伏せ→仰向け」という逆の遷移は体の発達上まだできない。この後者の動きを「寝返り返り」と言い、寝返り返りがまだできない赤ちゃんは、寝返りを打ってうつ伏せ状態になってしまったら最後、自力では戻れなくて詰んでしまう。詰んだ赤ちゃんは、泣くことで投了の合図を出し、ゲロを吐きながら親にひっくり返してもらうのを待つ。おもしろい。人間みんなずっとその状態で大人になればいいのに。

吐いてた。ゲロの赤ちゃん。乳しか飲んでないから、乳しか吐けないのか。
「ママとかパパとか、言葉はまだ言わないの?」と尋ねたら、姉は「それがね、この前私に向かって『母上』って言ったの!」と言った。言うわけないだろ。
数多の親たちの例に漏れず、姉と義兄は甥に向かって「ママだよ」「パパだよ、こっちはママじゃないよ、〇〇〇〇(姉のフルネーム)だよ」と言い合い、赤ちゃんの第一声を自分のものにしようと競っているらしい。絵に描いたような親馬鹿という感じで微笑ましい。僕は赤ちゃんの第一声が「Xperia」だったら面白いぜと思って、甥に向かって「Xperia 1 Ⅵだよ」と言って手を振った。甥はまばたきをした。姉も笑わなかった。
親馬鹿といえば、最近の子育て界隈では乳児を3Dスキャンしてカメラ越しのAR空間に我が子を生成するのが流行っているらしい。姉がそれをやるところを見せてもらった。目の前に、仰向けに寝そべった甥の3Dモデルが現れた。複製はできなかったけど、拡大縮小はできた。大きくするとカビゴンみたいになった。
姉と、子を育てることについていろいろ話した。「自分が苦しい思いをした体験は、この子には味わって欲しくない。でも同時に、あの時の苦労があったからこそ今の私があるわけで……。この子に欲しがるものは何でも買い与えて、不自由のない環境で何の苦労もない人生を送らせてしまったら、私が苦労していた時期に見ていた、毎日遊び呆けてたつまらない同級生みたいな、あんな中身のない大人になってしまうんじゃないかって、思いもある」というジレンマを、姉が話してくれた。
僕は「別に、幸せなら中身のない大人でもいいんじゃない。中身の有る無しなんてのは、自分が不遇や苦痛に見舞われたとき、その痛みを『人生体験』という形で肯定するために仕方なく導入する尺度であって。初めから不遇や苦痛が無いに越したことはないんじゃない。それに、どれだけ親が不自由のない環境を用意したところで、きっとこの子はこの子で我々には分かり得ないこの子独自の試練にぶつかるよ。その体験が、彼の糧になるから。親の方からわざわざ苦難の道を提供する必要はないと思う」と言ってみた。

最近は「脳発達をうながす!」「科学に基づいた知育!」などと謳う子供向け絵本が売れているらしい。

読んだ。キラキラしていて、探すだけの、本。「おはなも にっこり」だの「ぽかぽか いいきもち」だの、ステレオタイプな感情を押しつける野暮なテキスト。「まるいのを3つ みつけてみよう」などと、本の側から問いを提示してくる面白みのなさ。
人間が快楽を感じるメカニズムがすっかり解析されきってしまったのか、近年のコンテンツは、丁寧な誘導で苦痛につながる要素はなるべく排除し、多幸感を高めるエフェクト、射幸心を煽るシステムでユーザーを釘付けにする構造がどんどんあからさまになってきている流れを感じる。どうやらその流れは、乳幼児向け絵本の界隈にも来ているようだ。脳科学に基づいているだけあって、実際このようにキラキラした絵本のほうが明らかに甥っ子の食いつきもいいらしい。赤ちゃんの食いつきが良ければそれだけ読み聞かせで親子が密に触れあえるから、たしかに発達には良いだろう。
でも、やっぱ我々としては、五味太郎『きんぎょがにげた』のような、もっと強度のある豊かな絵本に触れて欲しいよね〜! と、思ってしまう、よね〜! と、姉と共感した。しかし、これこそがいわゆる老害の思想なのか。自分が良いと思うものを、価値観の異なる子の世代に押しつける。その行為のおこがましさは、かつて子供だった者として、十分理解している。現代の絵本というのは、もうこのくらいがスタンダードなのかもしれない。
別に、幸せなら中身のない大人でもいいんじゃない。
僕は今さっき自分が言ったこれに、自信がなくなって来てしまった。解釈の余地のないキラキラ絵本ばっか読んで育つ新時代の子供達……得体が、知れなさすぎる。
甥と姉に別れを告げ、帰っている。家に戻ったら、筋トレしてゲーム作業だ。ルーティンの維持。リズム。
甥と会ったのは今日で二度目になるけど、依然として愛着は湧かなかった。かわいいとは思わなかった。やっぱり僕は、他人の子を愛する前にまず自分を愛さないといけないのだ。それをクリアしていない限り、人の子を見ても不安な気持ちが募るばかりだった。でも、この子は守られるべき存在だとは思った。健康に、のびやかに育って欲しいと思った。
彼はやがて、どんな大人なるのだろう。犯罪とかするのかな。
机。
『D_ELL』に代わるゲームのタイトルを決めるために、寺山修司『さみしいときは青青青青青青青』を読んだ。この中にある言葉からタイトルを選びたかった。
「ヨット」「狩り」「ムード」「アトリエ」「投身自殺」「罪状」「カモメの生れる理由」「悲しい事件」「海洋学入門」「航海」「星雲」「代理人」「鳥が一年では渡れぬ海」「病気」
悩んだ。5時間ほど。
『ユメギド』で行こう。どこにも載ってない言葉になった。寺山修司を経由する必要があったのかは分からなかった。でも本はよかった。
タイトルを決めるのに、2日かかってしまった。
『ユメギド』はガラス窓が割れた部屋で目を覚ます探索型ニュートン・ノワール・ゲームです。ユメギドはプレイされるとき、プレイヤーの認知スペースにはたらきかけ、ユメギドのプログラム終了を促します。
Steamの説明文も考えた。まだ存在しないゲームの説明文。
もう夜も更けたので寝る。レポートは明日やるか。起きたら昼間のうちにレポートを終わらせて、その後ゲームの流れを考えて確定できたらいいな。そしてスケジュールを洗い出して、先の見通しをつける。見通しをつけることが一番大事な気がする。スケジュールが決まる日ということにしよう。ゲームの内容を決める前に、虚無のスケジュールを先につくって、スケジュールの範囲内で、毎日思いついた実装をするとか……? スケジュールを立てること、トラウマなんだよな。毎日やりきれなくて、毎日呆れる。タスクが日に日にキャリーオーバーして積み上がり、慌てふためき、寝込む。一日寝込むと、次の日も寝込む。二日何もしないと、それ以降スケジュールの存在を忘れて、締まらない作業をしだす。きっと自分で非人道的なスケジュールを立ててしまっているのだよな。上振れや下振れが多く、一日に自分のおこなえる仕事を、うまく見積もれたためしがない。そのへん、今回の制作で作業環境を探っていきながら、健全な見積もりができるように、できるように、できるように、できるように、できない。見積もりはできない。できないことを前提にやっていくほうがいい。未来の自分に寄せた期待は、仇で倍返しされる。明日の自分のために、明日の自分に期待しない。チームプレーで。スケジュールのこと、いつまでに何何をということを、考えると、それだけで何も何も何も考えられなくなってくる。条件反射で、脳に悪性の靄が満ちてきて、鈍くなって、重
たぶんライフワークとしてのゲーム開発を模索している段階のいま、スケジュールの緻密な管理は、
まだ、やるべきでない。ここに仕掛けられた幻滅回路みたいなやつに、2023年の自分は何度も足を取られた、焦りのせいで、立ち戻るという判断が出来ず、同じ幻滅のパターンを繰り返し、精神状態を悪くしたから、
スプレッドシートを観葉植物みたいに眺めるところからやっていくとするか。あんなもん、罫だからね。スプレッドシートに呪いを見出すとき、それは自らの内奥の呪いを見つけているだけだ。僕はスプレッドシート自体に恐怖を覚えるようになってしまっているが、それは単に自ス境界が曖昧になっているだけのことで、ほんの少しでも冷静で、体調を悪くしていなければ、治せる。これは簡単なやつ。わかる。
一番効率が悪いのは、自分を責めること、自分に鞭打つことなのだ。痛みを無視してはならない。自分だけの物差しで、自分の苦痛ラインを見きわめる。他の人と比べない。多すぎる要素は考えない。
落ち着いてくれ。
落ち~。
休め~。
寝れ~。
寝るね~!