フィクションは嘘をつき、リアルはただ終わっている
人類史上もっとも重要な発明は、椅子。という夢を見た。
今日は山を登ろうと思っていた。でも連日の地震のことを考えると、土砂崩れとか起きたらやだなと思って、昭和記念公園に行くことにした。昭和記念公園は平たいから危険が少ない。

このように、平たい。

ここでギンナンを洗うな。

上質な抹茶を飲め。

「高」をそろそろ貼り替えろ。

タイトーステーション立川北口店で「クイズマジックアカデミー黄金の道標」を遊べ。
26分くらい歩いて映画館に行った。『化け猫あんずちゃん』を観た。ロトスコープと背景美術が生き生きしたアニメーション映画だった。現実のしっとりした脱力的なコミュニケーションがそのまま描かれている。
めちゃくちゃ感動した。主人公のかりんちゃんの父親は、借金に追われて半殺しにされたり、期間も告げずに娘をほったらかしにしたりするようなろくでもない大人だけど、どこか憎めない感じの父親だ。かりんちゃんは彼のもとで暮らしていた。この「ろくでもない大人だけど憎めない感じの父親」……という人物像は、フィクションにおいてはいくらでも美化して描くことができるが、現実では笑いごとではない。かりんちゃんは母を失った小学5年生だ。その父親が借金に追われて土地を転々としていていいはずがない。たとえ父親のかりんちゃんへの愛情が本物だとしても。そんなフィクションと現実のあいだの齟齬、どんなグロテスクな構造も美化できるというフィクション特有の恣意性を、『化け猫あんずちゃん』のストーリーは暴いていた。リアルとフィクションの間を漂わせるロトスコープと音声現地収録の作風が、それを後押ししていた。
という総合的な感想がありつつ……もっと細部について語りたいポイントがいっぱいある! でも公開中の映画だからあまり書かない……ぜひたくさんの人に観てほしい。
終電で帰ることになった。駅のホームには女性が倒れていた。その近くで、3人の女性がしゃがんで談笑していた。「いや、男はそれが嬉しいんだって!」などと言って笑っていた。たぶん4人組の一人が酔いつぶれているのだと思ったけど、その人があまりにも死んだように動かないことと、3人があまりにもその人を無視していることが、なんか怖かった。
電車に乗り込んだ。女性グループは乗ってこなかった。椅子に座っていたら、近くのドア横で浴衣を着た男女が身体を密着させていた。ある駅で停車して、ドアが開いたとき、その男女が持っていた黒い棒状の何かが、電車とホームの隙間の穴に落ちた。男女はなんとも言えない表情で、それを回収するために、ホームへ降りた。そのホームには、白いゲロがあった。ドアが閉まった。これは終電だ。男女は電車とホームの間の穴に落ちた黒い棒状の何かを落としたために、白いゲロのあるホームで、終電を逃したのだ。
ドアが閉まると、カナブンが車内を暴れまわりだした。男女とすれ違いにカナブンが乗車してきたのだ。ぷつッ、ぷつッ、と音を立てながら照明や荷棚、立っている乗客に体当たりしていた。
なんなんだよと思った。
現実は終わっている。