嘔吐

2025 - 02 - 11

12時半に起きた。

昨晩パートナーに「いつか、今の僕のことを『あの時は大変だったな』と思い返せる日が来るかな?」と訊いた。なにぶん、最近の僕は行き詰まってる。どのような状態でもどこかしらの身体が痛み、精神的にも張りつめている。ふと立ち止まったときなどに、今の僕の生活の大半を苦痛が占めていることに気づいた。死にたいという独り言が真実味を増しながら、口をついて出るようになっていた。

「美大の受験期はどうだった?」と訊かれた。たしかに、あの年もかなり辛かった気がする。僕は当時の今日(2022年2月11日)に書いたメールを読み返してみた。そしたら、パートナーの家の玄関で、玄関扉を開けられず座り込んで1時間泣いていたことがわかった。つらそっ。なるほど僕にも「あの頃は」と振り返れる辛い過去はあるんだな。きっと今日の痛みも、数年後の僕は「あの頃は」と振り返っているだろう。

当時と今の違いを考えた。死にたさの組成が異なる。

当時は、自分の表現に自信がなかった。そもそも絵が下手なのに予備校の授業ではデッサンや絵の具の修練をしていた。講評では全員公開の場に自分の絵が飾らた。順位に応じて並び替えられるので、僕の絵は大体下段の目立たない位置に追いやられて、恥ずかしかった。また、同時並行で自由制作の授業も受けていた。そっちはそっちでコンセプトやメディアについて勉強不足のまま現代アートの世界に放り込まれ、理解できなかった。褒められてもなぜ褒められるのかわからなかったし、酷評されてもなぜ酷評されるのかわからなかった。とにかく一年間すべり続けてた感じで、自尊心はぐちゃぐちゃだった。でもすべり続けたあの一年間のおかげで今の自分があると思うので、無駄な日々ではなかった。今は自分の表現が好きだし、周りからの目線もさほど気にならない。

今の悩みは、やりたいことの照準は定まっているのに、それができない自分についてだ。根本的な生き方、動き方がわからなくなった。どんな姿勢を取っても身体が痛くて、引き攣ったり腰痛や首の痛みに襲われる。うつ状態が長引いていて、自分の認知が信頼できない。気づけば全然違うことを考えていて、さぼっているし、自己嫌悪の循環にすぐに嵌る。心身ともに、僕のいうことを聞かない。生い立ちを探ってみたり、通院や習慣化などでどうにか創作者もとい人間として使い物になる自分を獲得したいと思っているけれど、そのトライアンドエラーの工程自体にも疲れてぐにゃぐにゃになっている。

受験期の僕は、なぜこれに苦しんでいなかったのかな。まず、当時は腰痛みたいな身体の痛みはなかったか。あと、たぶん過剰な自意識や自己表現の不安など、今の僕が解消している問題でいっぱいいっぱいだったので、人間としての根本的なもつれた部分についてはあまり目に入らなかったのかもしれない。それに当時は自分の歪みやハンディキャップに足を引っ張られたときは、しょっちゅうさぼって遠くに出かけるとか友達やパートナーに不満をぶつけるなど、場当たり的な回避行動をとって目を背けていた。こんな調子の自転車操業ライフで回っていた。

でも今の僕は、そういう頓服的な行動は避けて生きようとしている。今後の長い人生をパートナーや自尊心を大事にしながら、生計を立てつつ運営していかなければならないことを思うと、苛んでくる苦痛を痛み止めで誤魔化すような生き方をするのではなく、その根本に向き合って治療あるいは受容することで、サステナブルで誠実な自分に変革していくほうがより良いと考えるようになったからだ。歪みやハンディキャップを咀嚼して日常生活に馴染ませるために、試行錯誤している。それが失敗続きで。辛いんだな。自分を大事にしないことに慣れてしまった今までのツケを、処理していかなければならない。なぜか体の痛みも現れてきたし。でもそれも、今までの僕の体の使い方を思い返すと、当然の報いのように思える。

たぶん、今目指している生活のテーマを実現しようと、潔癖的になりすぎているところがある。ときには痛み止めで誤魔化すことも必要みたいだ。ですわな。潔癖なこと自体、僕の目指す生活のテーマと反目している。

散歩warrior。吐き気がする。ウー。八の字に歩いた。スーパーでゲボ吐きそうになった。

2月か。ちょうど入試前後だったもんな。

先生に、美大入試(平面構成)のいろはを教えてもらうトロヤ。頑張ってるな〜。入試当日、大雪で大変だった。

病んでいる。親友宛のメールなので、癇癪のしかたがオタク。こんなのばかり。あまり切羽詰まってるように見えないな。

入試にあたっての戦略を練るトロヤ。当時の僕はセンスで絵を描くことができなかった(今もできない)から、「受かるための絵の描き方」を事前にガチガチに組み立てた。美大入試で求められる程度の表現は、たいがい傾向と対策に還元できるものだと信じていた。言語化を飛び越したセンスのようなものが、大学機関の入り口で制度化されているとは思えなかったし、もしそうだとしたらどうしようもないので。

つらかった昔の自分、愛おしいな。今は全然違うこと考えてる。無理をしている。

日記は役に立つな。時として昔の自分を引きながら今を運営していこう。

亡くなったデイヴィッド・リンチ監督の作品を見る会。『ブルーベルベット』を見た。なんか全然面白くなくて、びっくりした。リンチ作品の中では最高傑作という人も多いと聞くので構えて見ていたんだけど、さほどだと思った。全編にわたってお昼のドラマのような味の薄い展開が続いて、そのまま終わったので、驚いた。意味がわからないところがあまりなく、不穏もエログロも狂気も、真に迫るところが、さほど……? さほどでは……? と思った。ツイン・ピークスと同じような世界(牧歌的な田舎町の背後に狂気がうごめいている)だったので、リンチ的エッセンスはまさにある作品だけれど、デヴィッドリンチのセンスはこんなものじゃないんじゃないって感じたな。

ただ冒頭3分がめちゃくちゃ良かった。庭に水を撒いていた中年男性(主人公の父)が、ホースからうまく水が出なくなったと思いきや急に「ウッ」と首を抑えて気絶して倒れる。そこに犬が駆け寄って、犬はホースの水をガブガブ飲む。近くでは幼児が真顔で歩いている。素晴らしい……。主人公がこの街に訪れることになった理由なのだけど、あまりにスピーディーかつナンセンスで笑っちゃった。「都合」として開き直っていて面白い。監督に直接ぶん殴られているみたいだった。その後、カメラは草にたむろする虫たちをアップして、教訓めいた感じになってくる。ブルーベルベットの狙いとしてはこの対比(普通に見える暮らしと、そこに同居するおぞましさ)こそが重要っぽいけれど、むしろその手前のあまりにシステマチックなおじさんの強制昏倒シーンの方が、マルホランドドライブのイカしてた味にも繋がるセンスを秘めていると思った。結局父がどういう病で倒れたのかはわからずじまいだったし、それはやっぱり監督の意図的な割り切りなわけで、すごい。

描いてる。

描いてたら気分悪くなって、横になった。先ほど食べたカレーライスが胃の中で詰まっていて、うまく呼吸できない。次第に腹痛も強まっていった。トイレに行った。

トイレで、変な格好をしている。アサイージュースみたいなひどい下痢を出して、ウーとしてたら食道のほうからもせり上がってくるのを感じて、急いで嘔吐の体勢に替えた。でもほんとここまで来ているのに、なかなか踏ん切りがつかないのか吐くことができず、そんなふうにしてたら次の下痢の波が来て、便座に座り直した。

結局吐いた。喉をガコッゲコッて鳴らしながら、8回ほどカレーライスを吐いた。吐く時用の気管を塞ぐ筋肉が、筋肉痛になった。誤嚥防止のためだと思うけど、あの気管が締まっている時間、息ができないのがすごく怖い。途中で下痢もあって、忙しかった。

2021年12月19日に吐いたのが最後なので、1149日ぶりの嘔吐。上からも下からもドバドバ出て、消化管が空っぽになっちゃった。気分はなかなか悪い。しんどい。全身が痛い。ノロウイルスとかなのかな? なったことないからわからない。

とりあえず寝るしかない。