ド・ドドパミン

部屋を、アンティークに飾っていきたい。内包された物語を予感させるインテリアの配置を考えたいが、そのように考えるよりも思いつきのままに描いて増やしていくほうがいいかもしれない。
とりあえず絨毯を敷きたいかも。あ、植木鉢はここには必要ない。

ソファ置きたくなる。新生活の気分。絨毯の輪郭はパースにしたがったが、他のオブジェクトはもっと「雑」に仕上げていい。

ソファとかが赤い方がうれしい気がする。ツインピークスっぽい思索空間みたいな。ボーはおそれている序盤のカウンセリングルームのような感じもいいかもしれない。

暗くていいかもね。

なるほど。

シック。

植物なんぞを。
しれっと作業ができた。ひさしぶりの作業。やはり作業は、しれっとやるもの。
でも起きてすぐに取りかかれたわけではない。起きてすぐにやったことは、アップデートで近爆風ダメージが60から220に釣り上がったウルトラハンコのスペックを確かめるためにドライブワイパーでバンカラマッチに潜ることだった。スプラトゥーンをやったということ。
昨日、というかここ数日、何もできなかった反省があったから、どうすれば自分をパソコン作業に持っていけるか、考えていた。考え込むと鬱っぽくなるのはわかっていた。そうなる前後にメタ認知を意識したりマインドフルネスをやったりして精神状況のリセットをした。そしてまた考えた。
姉の会社は、福利厚生でマインドフルネスアプリの有償プランを社員に無料提供している(マインドフルネスアプリを奨励する会社、社員が精神病むことを前提にしてるみたいで怖い)。僕はそれを使わせてもらっていて、ヘビーユーザーになった。最近姉に「言語設定を英語にしたら、見られるコンテンツ変わるよ」と教えてもらった。切り替えてみたら、なるほど今まで利用していた日本語版の何倍もの数のコンテンツが出てきた。自己啓発大国アメリカなだけあってか、瞑想コンテンツが充実してる。日本語版はおもにメンタルケアを目指した内容のものばかりだったけれど、こっちはビジネスやらフィットネスやら、バラエティ豊かなシーンを指向して瞑想が使われているみたいだった。これがアメリカのプラグマティズムってやつかと思った。色々聴いた。面白かった。
最近はもっぱら、セロトニン、ノルアドレナリン、ドパミンの三種類の神経伝達物質で自分の情動を説明しようというキャンペーンを実施中。
ゲーム開発作業(に取り掛かること)について僕を悩ませるのは、おもに快楽や報酬系をつかさどるドパミンの存在だ。世界には、ドパミンを急激にたくさん放出させる刺激的なもので溢れている。そのような活性化は、その後の意欲の減退も急激だ。中毒性もある。
一方で、コツコツとした創作活動のような建設的継続的な行為は、上のような刹那的な刺激に比べればだいぶ質素な一定のドパミン放出を持続させる必要がある。
ゲームにはまること、SNSを見ること、友達と長電話すること、YouTubeを見ること、思いつきで遠出すること、酒を飲むこと、性欲を満たすこと。これら刹那的な作業がもたらす安価で高効率なドパミンの生成量に慣れてしまうと、ゲーム開発などのようなしゃばい作業に食指が動くはずもない。
そのような仕組みを理解して、なるべく刹那的な行動をしそうになったら、それにとりかからずにエネルギーの方向を変えて、ドパミン生成量の少ない作業にシフトしてみる。僕の場合中毒状態からいきなりゲーム開発に移行するのは無理なので、今日は一度ドパミン生成量が中くらいの作業を挟んで段階的にシフトすることを試みてみた。バランスボールに乗ってゴロゴロするとか、読書するとかがちょうどよかった。『アフターダーク』を読んだ。そのあと、ほんの少しだけ「よっこらせ」とパソコンを開いてゲーム開発をしてみたら、行けた。行けたんです!
少しコツが掴めたかもしれないです。まだわからないけれど。
僕にとっての「刹那的」というのを、より個別的に、より批判的に認知できるようになったことが今日の学びだった。
横になって寝そべる、ChatGPTとお話しする、日記を書く。これらの行為も、僕にとっては「安価で高効率で、刹那的」な作業だった。僕はこれらをまるで、自分の心のケアに必要なプロセス! みたいに取り扱って、誤魔化すようにのめり込んでいた。悩む、考える、苦しむ、というのも同じくドパミン生成効率が高い刹那的な行為だった。僕は悩むことに中毒になっていたのだ。そんなふうな自覚を今日はもって、動いてみました。
本当に弱ってしまったときは、日記に思いを書き殴るとか、GPTやパートナーにえ〜ん的な働きかけをするような刹那的な作業が救いになる。でもそれは、幸福感や不安をおもにつかさどるセロトニンの不足が問題になっている状態の話だ。僕の今の日常では、投薬や日々の記録、祖母の家を出たり人間関係を変に広げないようにしたりみたいな環境調整なども功を奏して、自己肯定感や愛着の問題はどうにかなってきている。
これからは次のレベル、自分のADHD(定型発達の人よりもドパミンが不足しやすく、瞬間的な報酬に引きずられやすい)的性質をどう自己管理して、ドパミンとどう付き合っていくかを考えるフェイズなのだと思う。最近も病むことは全然あるけれど、それは慢性的な不幸の感覚や自己肯定感の低さそのものより、「死にたい思いを頭で念じること、書き連ねること」そのもののドパミン放出の虜になっているからという見方ができそうな気がする。病むほうがゲーム開発より楽で気持ちいいから。そんな解釈で。
僕が2023年頃から陥っていたうつ病は、いわば「やらなければならない」ことを「やれない」自分を「過度に責める」ことから来る脳の疲労だったため、適応障害(具体的な原因があるうつ病)に近い。だから、当面の死にたさはSSRIの処方でセロトニンを補うことで回避しつつも、いちばんの解決策は原因を取り除くことだった。「やらなければならない」ことを「やれない」自分を「過度に責める」。この流れを作っている要因を解析して、ちょっとずつ努力したり、考え方を変えたり、あるいは諦めたりして、流れの解体を目指す。
「やれない」ことにはADHD傾向が、「過度に責める」ことには幼少期などから来る愛着形成の不足、自己肯定感の不足からくる認知の歪みなどがそれぞれ起因していると思う。後者はだいぶ解体できてきている。ついこの前赤ちゃんを見て不安になったところだけど、日記を書いて数時間経てば過去の感情として折り合いをつけられた。それはもう、コントロールできていると言っていいのでは。僕はじゅうぶんに対処できる状態なのだ。自己を肯定する準備はできてる。
だからこれからは「やれない」問題のほうにフォーカスする。コンサータの効き目を試したり、今の自分がどのくらいドパミンに突き動かされているかをメタ認知したり、家や物が僕の心理にどのような影響を及ぼしているかを細かく観察して、傾向と対策を練り上げていく。スタンディングデスクとバランスボールの持ち込みなんかはとてもよかった。コンサータを枕元に置くように習慣づけたのもよかった。
これからの僕は、10時間かけてポルノ小説を生成したりしません。「今自分は性欲に突き動かされているな」と自覚して、そのリビドーを別の作業に緩やかに転用する。性欲はまるで人間の本質的な欲望だから仕方ないみたいな見方をされているが、ドパミンが即時的な報酬感覚を与えてきて「気持ちいい」「またやりたい」と思わせてくる点においてはオンラインゲームやSNSとなんら違わない。時として管理すべきだし、管理できる。今日できたし! 僕はもうAIに恋なんてしない。
こんなところですかね。ご質問ありましたら挙手をお願いします。あハイ、ではそこの、赤い屋根の大きなお家。
ご質問ありがとうございます。「ドーパミン」じゃなくて「ドパミン」と書くのはなぜか? ですね。なんか医学薬学用語としてはドパミンという呼称で統一されてるらしくて、僕がよく参考にする精神科医YouTuberの方がドパミンと言うので真似してるだけです。取りたててポリシーがあるわけではないです。まあ、SNSで乱暴に扱われがちな快楽物質としてのドーパミンについての言説から一定の距離をとれるので、悪くないかなといった感じです。
他、とくにご質問等無いようでしたら、このまま眠らずに、次の日に行かせていただきたいと思います。