トロヤマイコーディネートフォビア
11時に起きたふりをした。今日はパートナーが用事で出かけており、一人だ。

瞬歩(しゅんぽ)してる。どこに向かって歩くか決められず、駅前のベンチで途方に暮れた。一人だし、ご飯屋に行きたいなと思った。知ってるファミレスにしか行きたくないぜ。ジョナサンかデニーズにしか行きたくない。コメダ珈琲でもいいな。調べたら、歩いて1時間のところにコメダがあったので、そこを目指して歩き始めた。

複数の小学校の前を通った。児童たちが校門から下校していた。今すれ違った彼らと、さっきすれ違った彼らは、かぶってる帽子が違った。お互いのことを全然知らないんだな。異なるグラウンドで遊び、異なる給食を食べてるんだ。

左に比べて右の画素が粗い。

GUがあったので、ズボン買った。パートナーの家にはズボンを二[単位]しか持ち込まなかった。そのうちの一[単位]は破けて捨てたので、買い足そうかなと思っていた。
家出を機に、着る服について悩むことを完全にやめた。僕には服を楽しむ才能がないことを理解し、割り切った。
大学入学前、服の数が明らかに足りていなかったので補充しようと吉祥寺に行ったが、なかなか選べず買うまでに時間がかかったのを覚えている。いくつもピックして試着するというのを繰り返したけれど、鏡に向き合うとどれも痛々しく見えた。店舗にはこんなにバラエティ豊かな品々が並んでいるのに、自分にはどれもゴミに見えた。トイレの個室にこもって病んだ。

な、情けない。
テレビ出演に呼ばれたときも、せっかくだしファストファッションじゃなくちょっといい服を買おうと試みて渋谷に行ったが、一向に選べずカフェで寝込んでしまった。服って価格帯が上がれば上がるほどピーキーになり、他の品と合わせられなくならないですか?
おしゃれな友達は、古着屋とかに通う。古着屋なんてそれこそ何一つとして合わなくないか。一度、友達に勧めてもらった下北沢の古着屋に行った。5万円などの年代物が並んでいた。僕は値札を戻して、隣にいたパートナーに首を振り、黙って店を出た。雪の日だった。
友達グループと車旅行をしたとき、地元のトレファクを発見した我々は、品定めに向かうため車を停めた。曰く、地方にあるトレファクは結構お宝が眠っていたりするらしい。なるほど、掘り出し物との思わぬ出会いを楽しむんだな……。僕はあんま興味がなかったので、みんながトレファク見物に行っているあいだ、車で一人寝て待った。
人それぞれの服にかける魂には違いがあり、僕はそのことに苦しんだ。こだわりが無いなら無いで良かったのに、僕は自分の着こなしが何もかも頓珍漢に見える呪いに罹っていため、負のこだわりが無駄に強かったのだ。生活するために必要最低限の数を揃えることにすらストレスを感じていた。自らに課したファッション要件に対し、選択の自由度も覚悟も足りてない自分が嫌いだった。
その自己分析を得てからは、僕は僕らしくわきまえて、選択肢を絞ることを意識した。服にこだわりがある人でも、ヨウジヤマモトしか着ないみたいなパターンあるよね。
当時考えた僕の計画は、上はシャツの形状をしたものに限定し、下はGUに売っている色が暗めで形が良いズボンで年中通す、というものだった。冬はそのセットの上に、二着だけ持っているアウターを交互に羽織ることにする。アウターは昔レイジブルーで買った黒のジャケット(これはひじょうに可愛い)と、さらに昔タケオキクチで買った紺色のピーコート(正直ださいが、ポケットが深くて内側にも外側にもいっぱいあって好き……)の二つ(僕はレイジブルーとタケオキクチがそれぞれ服好きの人々の間でどのような位置づけで見られているのかを知らないが、とりあえず書いておいた。何か察せる人は察してください)。あ、あと僕はつねにキャップを被った。爆発しがちな癖毛を押さえつける必要があったのだ(髪の毛に何か薬剤をつけてセットするとかもあるらしいですが、めんどくさいのでやりません……)。せっかく帽子キャラになるのだったらニット帽やらハットやらも試してはいかが? と言われたこともあったが、そのような選択を取れるほどのクリエイティブは僕にはなかった。

しかし最近は、上記の固定パターンを突き通すことも難しくなってきた。上はシャツに限定するとしたけれど、一口にシャツといってもさまざまな色と丈、幅、ブランドがあった。僕が悩んだのは、何か一つ自分に合うと感じたものを購入すると、自分の持っていた今までのラインナップが新品に比べるとどれもひどくださいものに見えてきて、他のを着れなくなってしまうことだった。これが頻発してよく服を捨てたから、一向に持ち数が増えなかった。ズボンのほうも、数着持っていたところで、上のシャツを決定したら色の組み合わせの関係上ただ一通りに決まってしまう。みんなこの問題、どうしてるの。意味わかんない。夏は明るい色で、冬はモノトーンでとか、意味わかんねェーよ、冗談もほどほどにしろよ、そんな縛り、僕にはそもそも選べるほどの選択肢が、な、な、な、な、な、な、気温とかあるのにさ、エ? ある日、Aを着るとして、次の同じ気候条件の外出機会に、A以外のものを着ることの意味がわからない。Bを選ぶとき、じゃあなんでこの前はBを選ばなかったんだ? というようなことが、思うんですけどオン、オン、オン、ア?。!
出かけるためにクローゼットを開くも、そこには洗うのを忘れていたり、変なところに置きっぱなしたせいでしわしわになってたり等……種々の理由でDisable状態の服が多く、残飯漁りみたいに着れそうなものを探すことが多かった。着る服が無くて学校に行くのをさぼる日もあった。
僕はとてもファッションを楽しめているとは言えなかった。僕は服について「いかにミスらないか」で考えてしまうようだった。

コメダ。
そのようなこともあり、最近はもっと服の選択を絞った。最新のトロヤの服の選び方。
シャツを着るのをまずやめた。ファストファッション店のシャツは好きじゃないが、下手に威力のあるブランドに手を出すと何らかのイデオロギーに抵触しそうで怖く(ファストファッションに固執するのもそれはそれで、低賃金労働や環境の問題が顕在化している昨今思想的に潔白とは言えなくなってきたが)、選ぶのに苦労したからだ。皺ができるし。代わりに、ユニクロかGUのスウェット生地のものに身を包むことにした。上下セットで売ってる寝巻きみたいなやつを積極的に着て、寝るときも、出かけるときもそれを着る。このスタイルに一本化すれば、服選びの思考のリソースが減るし、なにより外出時に着替える手間がなくなる! スウェットならユニクロでもGUでもオーバーサイズのものを選んでおけば形が悪くないし、素材も良い。それにシャツと違ってスウェットは、洗い忘れて幾日か着続けても(神に)許されるイメージがある。
下に関しては、上下スウェットがさすがに憚られるオケーションもあるので(葬式とか)、最低限のキレイさを保証するデニムやスラックスを持っておく。今日はそれを買った。GUに行けば、形の良いものがある。シルエットさえ狂わなければ、僕はあとはどうでもいい。
キャップは相変わらず被るけど、服と組み合わせたときの印象や季節感といった呪縛的な条件にこだわるのはやめる。持っているものから毎回ランダムに選んで被ることにした。そして、気軽に買い足していくことにもした。帽子ってなんか真ん中にロゴマークがあるよな、あそこに内在されてる文脈が計り知れなくて僕はそれがいつもいつも恐ろしくてさ、なかなか買えなかったんだよね。NYなどと刻まれた帽子を被ることがポジション表明にあたるのか、もしそうならその主張具合はどれほどなのかが本当にわからなくて、震えちゃうわけ。しかし、ロゴが無い帽子もそれはそれで重心がなくて締まらないし……。まあそのようなことに頭を悩ませるのを、意識的にやめることにしました。
書いていたら、裾上げ完了の時刻を迎えていた。僕はGUに戻り、ズボンを回収した。バスで帰った。バス停にいたときだけ雨が降った。
帰ったら19時だった。時経つの早い。
気づいたら3時だ。
時経つの、本当に早いな。
稀有な流れでNetflixの海外アニメ『ボージャック・ホースマン』をワンシーズンぶっ通しで見てしまった。今日はそれで終わった。素晴らしい作品だった。
主人公のボージャック・ホースマンは昔人気シットコムで名を馳せた俳優だったが、中年の今は落ちぶれている。そのことにコンプレックスを抱いている彼は、こじれたナルシシズムのために他者を無意識に貶したり、手近な者と肉体関係をもって自分の価値を確かめようとする。友人を友人と呼べず、好きな人に好きと言えず、「みんな勘違いしている。自分だけが本当の苦しみをわかっている」という世界観に浸りこんでおり、癖のように身近な人たちをおとしめたり、利用したり、自分が親から受けたモラハラを同じ形でぶつけたりしてしまう。仲間たちから徐々に見放され、孤独を深めていく。
自分を自分で愛する術を知らないまま大人になってしまった中年たちがすれ違い傷つけあい失敗しながら、自己受容に至ろうとする悲しいコメディ。ツインピークスのパロディがあった。おそらくさまざまな映画のパロディがある。
なんだかもう、良すぎた。毒親や依存症(酒、ドラッグ、セックス、ゲーム)、境界性/自己愛性パーソナリティ障害などに関心がある人は見ると良いんじゃないでしょうか。シーズン6まであるから長く楽しめる。
今日はこれを見てたせいで何も作業できなかった。どうしようね。寝るしかない。
寝るしかない。あ、同じこと書いてた。今日はコメダからの帰宅後ずっと自宅でそわそわしていて、空腹と吐き気が同時にあって、何だか疲れました。
苦しいなぁ。
でも素晴らしいアニメだった。