罪状は完璧主義

卵かけご飯を食べようと思って卵を冷蔵庫から出したものの、卵を割るのが面倒に感じて、卵を割れず、意味もなく湯を沸騰させている。起きたけど、気力が湧かない。
今日も耳かきした。耳掃除は二日連続でやることではない。よくない。
ネットフリックスで『フェリックス・ロブレヒトのいつまでトべる!?』というドイツのスタンドアップコメディを見た。
ボージャックホースマンやリックアンドモーティを見ていると、アメリカらしいユーモアというものをつくづく感じる。当たり前だけど、日本のそれとは違う。
アメリカのユーモアには人種やジェンダー、移民や銃社会など、社会的テーマへの風刺や皮肉がふんだんに盛り込まれている。社会派のハイコンテクストなユーモアを楽しめるのは、アメリカの人々がつねにさまざまな偏見や差別、政治思想の対立の最中にいるから、それらをメタ認知できてるからなんだろうなと思う。しかし、そのわりには陰謀論やカルト的思想も発達しているのが個人的に不思議に感じる。ボージャックホースマンでは、サイエントロジー信者をけなすジョークがあった。つまり少なくともボージャックホースマン製作チームは「サイエントロジーはオカルト」だと認知しているわけだけれど、アメリカ国民の中にはトム・クルーズなどサイエントロジーを信じている人もいるわけで、彼らが今のシーンを見たらどうなっちゃうの? と心配になる。対立の坩堝で暮らしているからこそ、ある程度の火花が散っても気にしないでいられるのかな。
アメリカの社会派ユーモアに比べると、日本のバラエティなどが提供するユーモアがいかに思想的に漂白されているかを痛感する。無害な題材だけ扱って、子供の遊びみたいだ。とはいえ、別に社会派ユーモアの方が面白いとも思わないけれど……テーマ自体にハイコンテクストな題材が含まれていると、エリートたちが知っていることを確認しあうだけの選民作業になってしまう。なんだかそれって、やだな〜と感じる。
僕の中で面白いものはなんなんだろうと考えてみた。「ハイコンテクストな題材は取り扱わず、テーマは無害だけど、知的な構造(いかにずらすか、みたいな)で面白さをつくるユーモア」はどうだろう? と思ってみた。しかし、これって題材のコンテクスト以上に選民性を孕んでいるような……。題材に頼らない構造のユーモアは、抽象的な構造をどれだけ読み取れるかという認知レベルに依存する部分があり、それは題材の教養レベル以上に強烈な「わかる人とわからない人」という選別を生むのでは。
いや、そうでもないか。実際(?)のところ、知的な構造のずらしにも「技」があるし、それらを研鑽(派生したり、メタったりして更新する)する「界隈」がある。そこでは構造のユーモア自体が一つの題材としてアカデミックなコンテクストを築いてしまっている。扱うユーモアは当人がどれだけその界隈のユーモアに曝露してきたかを示しているに過ぎず、単純に知的能力のバロメータとみなすのは早とちりだ。
となると、一周して「構造のユーモア」も、僕がなんかやだな〜と感じた社会派ユーモアと同じ、教養に基づくコミュニケーションということになるな。結局ユーモアは「知っている人だけが笑える」という選民性を前提しないわけにはいかないみたいだ。「モードがあり、それを覆す」のがユーモアとすると、受け取り手のコンテクストレベルは関係せざるをえない。理解できないと笑えないし、理解できればなんでも面白いわけでもない。「モード」は理解できるけど、その「覆し方」はあくまで未知のものでないといけないのだ。「覆し方」があまりに見慣れているものは、受け取り手にとってはもう笑えないものだ。そのような微妙なコンテクストレベルがあらわになるから、笑いは時として気まずさを生む。
ユーモアについて、僕がなんかやだな〜と感じるのは、誰かが笑ったとき、その笑い声が響き渡る空間にコンテクストの磁場みたいなのが発生して、そこにいる一人一人が磁場によって値打ちづけられるような気がしてしまうからだ。僕はパートナー以外の人と面白いとされるコンテンツを見るとき、ほぼ笑わない。面白いと思っても心の中でしか笑わない。そういう緊張状態で挑んでいる。それはやっぱり、磁場を放ちたくないから……結局は自意識の問題ですか。
funnyとinteresting は同じなんじゃないかという気がしてきたな。いずれにせよユーモアも血を血で洗う教養バトルの構造から逃れられないのなら、僕にとって何が面白いかという問いの答えも、つねに流動的でなくちゃいけないな。「松本人志的笑い」「ラーメンズ的笑い」「バカリズム的笑い」みたいにエポックメイキングなユーモアはつねに方法論が解析されてパッケージ化されていくから、特定の流派に安住することは徐々につまらなくなることと一緒だ。僕はそれこそ高校時代オモコロに心酔していてものすごく影響を受けたけれど、いまやネットには「オモコロ的笑い」という共通認識としてのモードが知れ渡っていて、すっかりオモコロが好きって言いづらくなってしまった印象がある(言うと磁場が発生するから。僕が怯え過ぎなのか?)。
ネットフリックスで『フェリックス・ロブレヒトのいつまでトべる!?』を視聴した理由を書こうとしていたんだった。海外のユーモアについて調べていたら、どうやら欧米では「ドイツ人のユーモアは面白くない」というある種のミーム的な共通認識があるらしいことを知った。イギリスの料理は不味いみたいなものなのかな。それで、そのドイツユーモアがいかに面白くないのかを確かめようと思って視聴したのだ。↑のユーモアの教養依存性や選民性についての考えごとは、すべて脱線でした。
見たけど、アメリカのスタンドアップコメディとの違いはよくわかんなかったです。ドイツジョークは説明が冗長らしいと聞いたけど、ドイツ語のわからない僕は圧縮された日本語字幕を見るしかなく、語り口の差異などは比べて見ることができなかった。まさに僕のコンテクスト不足で理解ができない状態だった。言語の壁はとてつもなくでかい。
日本のお笑いだと『いちばんおもしろい』をめざすM-1が成立しますが、視聴者の人種、国籍、年代、性別などの属性で感じる『おもしろい』『おもしろくない』がばっつり分断するスタンドアップは話者の技巧よりも話者の『立ち位置』がウケに強い影響力を持つので、単一に『おもしろい』『おもしろくない』という軸で評価できません(その『立ち位置』からどれだけ離れた層をウケさせるのかがひとつの技巧ではある)。
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なるほど。たしかにスタンドアップコメディの話者は、何かしら社会的問題の争点となるバックグラウンドの当事者であることが多いイメージがある。スタンドアップにおけるユーモアはあくまで手がかりで、面白さそれ自体が目的ではないのかも。逆に言えば、日本が思想的に漂白された題材で純粋に「面白さ」という価値を表現したり競ったりできているのは、日本という国が比較的統一された文化圏であり共通認識としてのモードが揺るぎないからなのかもしれない。
ドイツのスタンドアップ見たあと何したっけ。散歩しようとしたんだ。それで着替えはしたけれど、日本のお笑いシーンについても検討したくなって、帽子被ったままソファに座ってYouTubeで漫談とか日本製スタンドアップコメディ動画とかモノマネとか見てた。

だからこんな、日が沈みかけてしまったよ。
腰が痛い。腰の痛みは、他の部位の痛みとは一線を画す宿命的なシリアスさを帯びているような気がする。生きていること自体を罰せられているような気分になる。

あずまやのベンチに寝そべって、天井の直線とか見る。受験生の時期によくやっていた。
今日は後悔の一日に終わりそうな気がした。散歩したのが夕暮れだったし、腰が痛いし、まだ作業をしていないのにスマホの見過ぎで目がしょぼしょぼする。
帰宅した。パートナーと山中貞雄監督の『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』を見た。やくざ映画が苦手なのと同様に、僕は時代劇も苦手だなと思った。腰痛で座っていられなくなってきたので、途中で視聴を諦めて寝てしまった。
やっぱり今日は、後悔の一日だった。何がだめだった。寝起きにコンロで湯を沸かした時点で、正規ルートからはみ出していたんだな。卵を割るなんて、面倒だと考える前に割れば済むことなのに。コンロの前の椅子に座って、火を見ながらたしか筒井康隆について考えて、そこから耳をほじりだして、耳かきを充電するためにたまたまパートナーの近くに来たから、雑談として彼に筒井康隆について話しかけて、話が派生してユーモアについて考え始めて、ChatGPTに言語化を手伝ってもらったり例を挙げてもらったりして、興味が連鎖してスタンドアップコメディや漫談の動画を見だした。このように、芋づる式に脱線していった感じだ。耳かきが充電式なのがおかしいんじゃないんですか(耳かきのせいにするな)。
ずっと「今、俺、脱線しているな」という自覚はあった。でも、自覚に心を痛めるだけで満足してしまった。いつでも正規ルートに戻ることはできたのに、今日という一日をマネジメントすることを諦めてしまったのだ。これが今日、神が僕に腰痛を与えた理由だろう。
人生をやり直したいときは、今からやり直すべきだ。