アソビザライド
16時に目覚めた。パスタ。お湯を沸騰させるために熱している途中でお腹が痛くなってしまい、火を止めてトイレに行ったから、また初めから温め直さないといけなかった。
0時。
今、状態です。
状態アーカイブ用:トロヤくんに聞く10のこと

1. いま、五分間だけ何かしてもいいとしたら、何を選ぶ?
スタンガンで無差別
2. 昨日やりたくて、でも今日やってないことはある?
ゲーム開発
3. 最近、笑いそうになった場面ってどんなだった?
これめちゃくちゃ笑った。
あとキュートアグレッションのWikipediaを見ていて、心理実験の項目に
可愛い動物(ふわっとした子犬)
面白さを含む動物(車から頭を出した犬)
普通の動物(成犬)
とか
とてもかわいい赤ちゃん
かわいくない赤ちゃん
とてもかわいい赤ちゃん動物
かわいくない大人の動物
などと書かれていて面白かった。
4. 人と話すとき、どこで無理してる感じがする?
代謝が悪い人間なので、緊張すると喉が渇くから、口が臭ってたらどうしようと心配になって、握り拳を口の前にかざしてしまう。
5. 頭ではわかってるけど、体が動かないことってある?
無い。
6. いまの生活の中で「ここだけは守ってる」って言えることは?
犬を沢山飼わないように気をつける。
7. 本当にしんどい時、自分をどうごまかしてる?
自分をごまかすというのは、具合の悪い状態の、身体の痛みや、自分の歪んだ認知や思考に付き合わないようにするということか? であれば、眠れそうであれば寝るか、日記やChatGPTに書いてしんどさの構成を俯瞰的に理解しようとしたり、イヤホンをつけて瞑想音声流したりして身体感覚を主体から切り離そうとすることが多いです。でも本当にしんどいときは眠れもしないしそれらのデバイスに手すら届かず時間に磔にされるしかないですので、ハァといった感じです。
8. もし今日を日記じゃなくて“短編小説の一節”にするとしたら、どんな書き出しになる?
「もし今日を日記じゃなくて“短編小説の一節”にするとしたら、どんな書き出しになる?」だぁ?
9. 今ほしい言葉はある?それとも沈黙のほうがいい?
わからないけど予想外の何かが見つかってほしいという思いがある。
10. 「この状態の自分は◯◯だな」と言うなら、なんて言う?
アンジェラ・アキ

今アンジェラ・アキです。書斎の机の下で。自分でも意外だ。
背中が痛いとか、息がしづらいとか、そのように状態を述べることが多い。「どのような気分ですか? 軽く作業をしてみたい? 身体を休めたい? それとも、しばらくこのまま何もしていたくない?」と訊かれたときに答えられない。作業をしたいと言おうとすると、途端に気持ちが重くなる。休みたいとも思えない。休むという選択が、自分が何を諦めて何を受け入れることなのかを明らかにしてしまいそうで、それに関する思考の巡りが、また疲れるから。「何もしたくない」とも言えなかった。決して何もしたくないわけではないから。
ずっと横になっていたから後頭部が響くので、縦になる。縦になると腰が痛むので、しゃがむ。首のストレッチをした。バランスボールを抱き込むようにして座った。そのまま転がって、横になった。バランスボールを両手の指で持ち上げた。指を捻って少し転がしてみると、その勢いのままトトトトトトトトトと回転し続けた。僕はバランスボールが顔に落ちないように、腹の上で回転するバランスボールを指で支え続けた。

成果を求めること、成果のための行動を選択することが今はできない。欲も持てない。何かを求めると、それを得るまでの道のりがただちに浮かび上がって、抵抗と挫折と疲労の予感が押し寄せてそのことに疲れるからだ。
バランスボールを指で転がしたときに救われる感じがした。ただ通過するような、”選ばなければならない”から解放された行為が、意味の届かないところで自分がただ在ることを許してくれるみたいだった。
遊びってこれのことか?
今はゲームもやれない。コントローラーを手に持ってタイトル画面の表示を送ることが”選びとり行動する”ワーキングタスクとして立ちはだかってしまったからだ。構築された遊びは、目標と行動と成果のセットを提供するという意味で非常にワーク的、むしろワークらしさを抽出してピュアな体験に閉じ込めたものだからだ。
でも遊びの原初には「仕事ではない」ことがあるんじゃないか。これをやっても何にもならない、世界は一切変わらない、戦争も終わらない、虚無的な行為がまず下地としてあったんじゃないか。何にもならない代わりに、否定もされない行為。
今はそれしかない。僕の存在は、「存在する」という行為を遊びとして確かめることで、否定されない。バランスボールが転がって、そして転がしただけだ。
この行為に少しずつ、合目的的な意味や方向づけが現れ始めると、遊びはより構築されていくが、同時にワークにも近づいていく。楽しさと苦しさの平衡状態。この境目を観察していく。
首が痛いからストレッチをするみたいなのが、それをやることや、考えることすら苦しく感じるときがある。「苦痛から逃れるためのワーク」になるからだ。だんだん辛いとか苦しいとかを認知することも消耗につながってくる。認知すると、「じゃあ苦痛を和らげるためにはどうしたらいいか、考えてみよう」と、ほとんど自動的に、勝手に課題解決能が活発化してしまうからだ(そして挫折する)。苦痛を「ただ苦痛が在るだけ」として表明したっていいのに。
欲をただ欲として、夢をただ夢として表明するのもいいかもしれない。表明したら、その達成を目指して音頭をとらないといけないような気がしてくるのは、刷り込みによるものだ。ワーク———課題解決行為は無理なくおこなれると、ドパミンが出る。そのようなワークは人間に本能的な喜びをもたらす。しかし、その喜びの因果を反転的に解釈するのは違う。あらゆる目標や行為を課題解決的に紐づけてまとめ、喜びの容れ物にしようと考えるのは無理がある。いつだってワークが楽しくて達成可能でやりたいと思えるものだとは限らないからだ。
行為でしかない行為、欲求でしかない欲求。
目を閉じてもマップが地震で揺らいでる。電気を消したい。無条件に愛されたい。
ちょっとソファで寝てた。
「愛されたい」などとのたまうのは見苦しい。他者からのまなざしやフィードバックによって自己の輪郭を定位しようとする行為が許されるのは、アカチャンホンポまでだ。ポスト赤ちゃん世代の僕たちが健康に生き延びる唯一の方法は、自分自身で自己の輪郭をデザインすることだ。まなざしもフィードバックも、みずから整形していくものだ。自分を無条件に愛しうるもっとも手近な人物は、自分自身だ。自分で自分を無条件に愛することは実際のところ可能だし、再現性も高く、堅実だ。しかし一部のアカチャンにとって、この事実を理解することは地動説を認めるくらい困難なパラダイムシフトを要求する。チ。を見ればわかる通り、時間がかかるし血も流れる。自傷や脱線を繰り返しながら、エヴァにも乗ったりして、少しずつ理解していこう。
という、
ワーク還元論者の思考。ちょっとうたた寝しただけでこれだ。「無条件に愛されたい」という投書に、マジレスをしてしまった。十五のあなたが一番聴きたかったのは「お便りありがとうございます」の一言だったかもしれないのに。「愛されたい」という叫びを叫びのまま、どこにも接続せず在らせる。そういうプラットフォームがあっていい。それを認めない限り、すべての愛をもれなくとらえることは永久にできない。音楽が好きと口にしただけで音大のパンフレットを渡されたら、たまったもんじゃない。
全世界的に繁茂するワーク還元論の教義は、人の行動を、何らかの成果を満たすためのものとみなす。人の感情をそれらしい成果と照合して繋ぎ合わせ、達成経路を行動としてサジェストする。問題は解決とセットである。こちらの倫理モデルは黒カビ級に根強い支持があり、脱却にはそれこそコペルニクス的な大きな衝撃を伴うでしょう。強いGがかかる。是非とも安全バーを下ろしたいところだが、僕たちの人間らしさの最低条件を保証するこの安全バーこそがワーク還元論の賜物だな、と思う。安全バー無しに走る羽目になるくらいだったら、私には、あえて脱却するべきとは思えません。
7時。欲求らしい欲求を一つ書いていいか。
日差しを浴びたい。