No No No Pain, Yes No Gain

渋谷で待ち合わせをした。山が16:41に「やべ 余裕すぎた」と発言した。待ち合わせ時刻は17時だった。彼はずいぶん早く来すぎてしまったのだろうな、と僕ともう一人は思った。

しかしその発言は「余裕をぶっこいて出発を渋りすぎたために、遅刻しそう」という真逆の意味だった。卑劣な叙述トリック。

ちなみに山は結局時間通りに到着した。僕だけが15分遅刻したのだった。卑劣な叙述トリック2。
マグロ専門店。大トロが信じられないくらい美味しかった。官能的な味わいだった。本当にこれ美味しいぞ。僕だけ食べるスピードが遅く、他の皿を避けるためにこの盛り合わせ大皿が僕の前に置かれて、昼休みに取り残された子のようになった。
今日は昔から仲良い友達である山と電球と、3人で食事だった。山とはもうすぐ15年くらい、電球とは10年くらいの付き合いになる。年月にびびる。電球が仕事の都合で一時的に上京してきたので、集まった。電球は一時期音信不通だったのもあり、何年かぶりの再会だった。
マグロのお店を終えてから、二次会的な話せる場所を探して渋谷を歩いた。東京に来たばかりの電球は、渋谷の喧騒に気圧されていた。HUBって常に視界にあるよねという話になり、行っておくかと入店を試みたら、その店はその日、団体客による貸切状態だということで断られた。

ポケモン好きの山に付き添いつつ電球の東京観光につなげるかたちで、僕たちはPARCOのポケモンセンターに寄った。山は蒐集に凝るタイプのポケモンオタクなので、ぬいぐるみなども網羅したそうにしていた。ゲームでは好きなポケモンは各言語バージョンの個体を揃えるらしくて、国籍の違うエースバーンが5体並んだ画面を見せてくれた。Switch 2も割高の多言語対応バージョンの購入を検討しているようだ。
ポケモンの名前は、各国の語に根差した語呂合わせでうまく置き換えられているものが結構ある。例えばフットボール選手がモチーフであるエースバーンの英語名Cinderaceは「cinder(シンデレラのニュアンスの「灰かぶり」) + ace(エース)」、フランス語名Pyrobutは「pyro(炎の接頭辞) + tirs au but(PK戦)」、ドイツ語名Liberloは「Libero(リベロ) + Lohe(炎)」など。翻訳の妙としての魅力があるな。山は別に、すべての言語版を集めたいわけでもないらしい。韓国語名など一部のローカライズは日本語名を音写しただけのものもあり、そういう翻訳解釈的な踏み込みのないやつはあえてゲットする気は起きないらしい。蒐集家はみな独自のポリシーを持っている。

任天堂のショップにも行った。僕は好きなコンテンツでもグッズを買う習慣があまりないので、冷やかしくらいのつもりで店舗を回っていた。でもスプラトゥーンの物販エリアでこの試写バルーンを見かけたときは心打たれた。これグッズ化するの、センスいい! ちょっと欲しいかも。
他にも、ピクミンやどうぶつの森など任天堂の擁するIPの工夫を凝らされたグッズたちを眺めた。どれもさほどプレイしたことのない我々は「うわ、これ原作好きな人からしたらたまらないだろうな! 原作やってたら最高そ〜」という仮想の興奮をシミュレートして楽しんだ。
パルコを出て二次会の場所探しを再開した。HUBは渋谷には何店舗もあるので各店舗を巡ってみたけれど、どの店も土曜日の書き入れどきは椅子を片付けて立ち飲み形式を取っているらしかった。三人とも立ち飲みに対するモチベーションはなかったので(そもそも誰もHUBに対するモチベーションもなかった)、店は諦めて歩きながら話そうという形になった。コンビニで飲み物を買った。僕の提案で芸もなく代々木公園の方へ歩いた。

ブランコあったから漕いだ。代々木公園前の有名な透け透け公衆トイレを電球に紹介したが、夜間だったためか透け透けじゃなかった。

桜が満開だったがよく見えなかった。3人横並びでのんびり歩いた。各々腰の痛みや脚の痛みを訴えだしたので、ベンチに座って話した。
山に言われて、記憶に残ったこと。「トロヤには何か起きて欲しいなー。お前には金稼いで欲しい」「なんで?」「金があったほうが、お前は幸せになるから」僕は初め、そうでもないと思うけど、とやんわり否定した。僕としては、金の蓄えと欲望は並走するかたちで肥大化するものであって、たとえお金がなくてもその範囲内で充足を見つけていけるんじゃないかと思うからだ。今のところ金のかかる趣味はないし、僕は結構、ものとものの配置とか観察してたらそれだけで幸せになったりする。
でも山が言ったことは納得できる面も大いにあった。僕は時折、思いつきで遠方に繰り出したり、高価な機材や素材を買ったり、未知の領域の講座やイベントに参加したりする。こういうのは物的な欲望というよりも「ヤバイ! 今これをやらないと嘘だ」という衝動に突き動かされているもので、こういう本能的なフットワークを祝福できる下地があれば僕は自分らしい豊かな幸福感を得るだろうし、逆に「やりたい、でも金がなくて我慢するしかない……」という諦めが続くと、ある種の抑圧や自己効力感の低下につながるかもしれない。
あるいはもっと、インフラレベルの話かも。今の僕は金がないから髪も切れていないし、自分のイヤホンが壊れたけれど新しいものを買う金がないのでパートナーのAirPodsをやむなく使わせてもらっていたりしていたりと、すでに綻びはそこらじゅうにできている。借りたAirPodsを失くしたときは、流石にぐらぐらした。やっぱり今よりは、金は必要だ。
あと、ある文脈で山が「ヒモは、カス」とも言ったことも印象に残った。自立できておらず、パートナーの家に居候して経済的に寄りかかっている今の僕の立場についてそう口にした。僕も、一般的な社会規範に照らすと「ヒモは、カス」とみなされてもおかしくないことは理解しつつ、僕自身は自分をあまり自己責任論的に断罪しないのでまあ周りからカスと思われていても関係ないか、と割り切っていた。僕は僕なりに、全力で生きているつもりだからだ。しかし、親友である山からも一応、今の自分はカスと思われてたんだ、と思った。傷ついたわけでは、ない、? あくまで彼が言いたかったことは「死んでしまうくらいなら、どれだけカスな生きかたでも生きてるほうがいい」という主張だし。

電球も山も童貞らしい(山は諸事情で童貞と非童貞の重ね合わせ状態)。二人とも、それぞれある種の性愛に対するモチベーションの低さ、乗り切れなさを持っている。電球は「俺、この歳で童貞なのをどうにかしないといけないな」と言った反面、恋愛をしたいとかセックスをしたいとかはあんまり思っていないようだった。じゃあ別に童貞か否かなどにこだわらなくていいんじゃない? などと尋ねて、詳しい思いを聞こうとしたら「童貞だから喋ることがない」と返された。たしかに。童貞はインド人が発明した不在の概念だから、それについて語ることはないのかと気づかされた。
僕も、パートナーはいるけれど、彼らと同じで性愛的なやりとりに対するある種のどうでもよさみたいな感覚は日に日に強まってきていて、共感した。それを言ったら山には「お前はまた別の問題だろ」と言われたけれど、「いや、別問題じゃないと思う」と言い返した。
一般論として、現代の若い男性にはこれに近しい感覚をおぼえてる人がたくさんいると思う。その感覚は「童貞」とか「独身」みたいなラベルに仮託されがちだが、本質はセックスとか結婚とかではなく、今後の有限の人生を一人で暮らしていくことや、他者との関係性で一定以上の親密さを築いたことがないことに対して感じる、なにか欠乏感や不足、先行きの不安みたいなものなのだろう。それらの圧迫感も、社会によって(不純な動機で)刷り込まれている規範による出力だと思うので、個人個人は考えかた次第でどうでもよくなれそうな気がするけど……あ、今人生で初めて「仮託する」という言葉使った! やった! ついに仮託童貞を卒業。パートナーに「25歳まで仮託童貞って恥ずかしいかな?」と訊いたら「いやぁ、むしろ早いほうだと思うよ」と言われた。あなたは何歳の時卒業したのか訊いたら「思い出せないなぁ」とのことだった。
一般論とは別に、電球は何か彼特有の自閉的な性格があった。話していて奥ゆかしい感じは常にあるし、「俺の土踏まずってカスなんだ」とか言ってたし。
彼がしばらく音信不通だった時期は、精神的にとても弱っていたらしい。彼は「当時、自分は何のために生きているのか考えたら、死ぬしかないと思った」と言った。僕はその台詞をどこかで聞いたことあるなと思った。電球に「最近会った人が近い発想でAmazonで自殺キットみたいなやつを買おうとしてた」という話をした。すると彼は「俺、それ買ったよ」と言った。買ってんのかい。半年くらい、いつでも自殺できるような状態で暮らしていたらしい。調べなかったけれど、その商品のレビューってどうなってるのかな(本当に役に立った人はレビューを書かないから)。
歩きながら話して、人格形成に影響したと思われるコンプレックス要素や、日常の喜びが安価な行為に置き換わってきたこと、当時うつ病だったという自覚はあったにもかかわらず精神科にかかることには抵抗があった理由など、電球自身の人生について色々と聞いたり話すことができた。結論は出なかったし、なんか今の彼については話すほど謎めいていったけれど、友達のこういう話を聴くのは面白かった。
他方で僕は、親しい人が生死の淵に近いところで悩んでいたら「精神科行け」の一本槍のアドバイスしかできないため、彼の力になれたかはわからない。しかし、最近周りで自殺や自殺未遂の話がいやに多いから、僕は僕なりのシリアスさをもって、「精神科行け」の主張に自信を持っていきたいなと思った。
精神医療に頼るという選択は、自らの憂鬱や苦悩を「自分らしさの一部」と捉えることをやめ、医学的に分類されたラベルに自らの性質を還元して、標本的な存在として自分をとらえることの態度表明になりうる。そのことに抵抗をおぼえる人が多い。だから、時として精神科の受診を人に勧めることは、相手の主体や個性をまるで無いもののように扱う「冷たい」こととして解釈されうる。
安易なラベリング行為への目線は、ヴィーガンやフェミニストへのそれと同じく、それに対する嫌悪感や冷笑みたいなのだけがエコーチェンバー的に増幅して、不当に定着してしまっているのを見る。精神科に対する抵抗感も、なんとなくそれの巻き添えをくらってるかもしれない? 苦しみは自分のもので、社会の規範や構造によって苦しまされているとは思いづらい。昔は社会の当たり前の風潮とはちょっと距離を置いた価値観を受容するオルタナティブな場としてインターネットが機能していたけれど、最近のネットはマジョリティがマジョリティ向けの倫理的ステートメントを磨いて陳列するのが一番ウケるうえに、開かれすぎてマジョリティの規範の目が光らない場所が限りなく減ってしまったため、いまや社会以上に社会な空間だ。
みたいな。何が言いたいんだっけ。「精神科行け」って話か。うーんなんというか、もっと気軽に行っていいと思うぜ。別に、初診でまるきりあなたがあなたでなくなるようなことはないと思う。精神疾患や精神医療のあり方にたいする批判意識を持ちながら、同時に精神科に通うということもできるし、それはとても良いことだし、積極的にしていいんじゃないでしょうか。実際に命を絶ってしまう人は多くが「ふと」死んでしまうと思うので、僕としては理屈を捏ねるよりも「そんなヤバイ場所じゃないよ」ということをアピールしていけばいいのかな? でも、ヤバイ場所じゃないとも、言い切れない……(揺)。
苦しみや希死念慮を切実そうに語る人に対して「なるほど、あなたはそう思うんだね」というのが、嫌いなんだ、僕は。「正義の形は人それぞれ」「感じかた、考えかたは人それぞれ」などという個人主義や安価な相対主義は、行政やボランティアによる社会的弱者支援の足を引っ張りかねないからだ。「なるほど、あなたはそう思うんだね」という台詞は、実際のところ他のどの主張とも変わらず「思想の押しつけ」の暴力を含んでいるのに、まるで「これを言う自分は押しつけの暴力には与していないぜ」という陶酔を感じさせる麻薬成分を含んでいる。
上手く書けているだろうか? 安価な相対主義の暴力……たとえば、ヴィーガンを嫌う人々の言い回しの鉄板で「お前ら(ヴィーガン)が動物を食わないのは勝手だ。正しさは人それぞれだからな。でもそれを、人に押しつけるなよ」というものがあるじゃん。しかし、僕はその考えは、何かとおかしいと思うわけ。まず第一に、倫理というのはそもそも、人に押しつけるものだ。動物の命の権利を重んじる人は、動物が不当に食べられることを防ぎたいのだから、動物を食べる多くの他者に対してメガホンを持ち「食べないで」と自分の考えを訴えかけるのは当然というか、むしろそれをしないほうが筋は通っていない(それをしないことが倫理的に批判されるべき、という意味ではない)。そして第二に、本当に押しつけをしているのは、肉を食べる僕たちマジョリティのほうだからだ。「動物を食べることは当たり前」という価値観は、井戸端の世間話やメディア広告、学校教育などあらゆるところにあらゆる形で蔓延している。ヴィーガンはこのような表現に日々曝露し続けてきたのだ。マジョリティはこれらを「思想」として読み込まないから意識しづらいけれど、それは特定の人々に対してはしっかり「思想の押しつけ」であって、その圧倒的な濃度に比べたら、僕たちが感じているヴィーガンからの押しつけなんて、毛ほどの痛みでもないでしょ。「正しさは人それぞれ」などという謳い文句は、謙虚でもなんでもない。ということ、?
そういうのを、言いたかった。めっちゃ話逸れている。でもそう、結論は特にない。今考えたことを書いた。すみません、予防線を張るような書き方になってしまって。日記だから、なるべくリニアに書きていきたいのだ。
電球が自殺を考えていたのは、過去の話だ。電球からしたら「トロヤの方がふらっと死にそうで心配」らしい。山は「電球もトロヤもどっちも心配してるよ」と言った。僕は誰も心配していない。彼らが死ぬことはないだろうと確信しているわけではないが、死んでほしくないと思っていないというか。僕の見ていないところで死んでいたことを知っても、イヤーンまじすかって思うだけな気がする。この書きかた、語弊を生みそうだな。
僕は2人のことは大好きなのだ。ただこの「大好き」は、彼らとの相互作用がとても楽しくて幸福で仕方ないという意味なのだと思う。僕の愛着の対象はその相互作用だ。形あるものではない。身体や主体としての彼らについては、僕の共感の射程圏外という感じがする。彼らの死は、僕にとってはあくまで相互作用の機会が失われることであり、気に入っていたピンボール筐体のあったゲームセンターが廃業してしまうような感覚だ。イヤーンまじすかと思うが、まあそんなこともあるわなと受け入れる。そして次第に思い出から薄れていくが、たまに思い出してはエモくなる。そんな走馬灯の題材になる。オイ、書けば書くほど語弊を生みそうだぞ。
でもあれか、語弊とかじゃなくて、本当にそうなんだ。人の命を心配するということは、ピンボールが遊べなくなることを残念がるに留まらず、潰れてシャッターが降りてしまったゲームセンターに胸を傷ませるということだ。僕はなんかその想像の展開が弱いのかな。ピンボールが遊べなくなるとそれは悲しいけれど、常日頃ピンボールのこと考えてるわけでもないし、解体されたゲームセンターの跡地などを見たら「オーいいね」とすら思ってしまうかもしれない。この他者と共感の距離感も、ある種の防衛規制だったりするのかな。
代々木公園を出たら今度は新宿中央公園に行った。遊具があった。

別に終電を逃す流れではなかったけど、始発までカラオケボックスで過ごそうと誘った。誘ったのは僕だけど僕はカラオケが嫌いなので、基本的に画面を見たりスマホいじったりしていた。でも、気が向いてたまに歌った。
疲れが限界を迎えて、目を瞑って横になって半眠りした。電球と山は歌い続けていた。シャルルが聴こえた。カラオケの現場でシャルルが歌われなかったことないな。あの曲のメロディラインは、歌うことの楽しさが最大化されている。その後、「お袋が着メロにしていた曲」を歌うみたいな流れがあって、ドリカムとかが流された。
早朝にカラオケを出た。電球の東京観光ついでに歌舞伎町を歩いた。

傍点が小さい。
歌舞伎町はカラスとゴミが多かった。歩くだけで疲れる街だ。気怠さを含んだ空気が沈澱している。電球も「……」という顔をしていた。山は眠気の強まりによって不機嫌になっていた。

5時にラーメン屋なんかやってるの? と思ったが、水商売の従業者が仕事上がりに寄る時間帯なので、早朝こそ営業していると山が教えてくれた。3人で朝帰りのラーメンを食べた。
豚骨スープを啜っていると、背後で新たな客の一団が入店してきた。そのうちの一人が店員さんに近づいて何やら尋ねていたが、よく聞こえなかった。しかし、それに対する店員の返答は聞こえた。店員は「もしラーメンが出ちゃったりしてたらご遠慮いただくんですけど、そうじゃなければ大丈夫ですよ。ラーメンが出ちゃったりしてたら、申し訳ないですがお断りさせていただく形になっちゃうんですけど」と言っていた。ラーメンが出ちゃったりしてるって何。歌舞伎町だと当たり前のことなのかな。
帰って寝るのが楽しみなくらい、疲れた。新宿駅でお別れをした。楽しかった。
寝るぜ。