歩くギャングスタ―
寝る直前、朝日の差し込むリビングで猫を撫でていた。近くに祖母がいたので、話しかけてみた。「姉に赤ちゃんが産まれたの、知ってる?」祖母は「知ってる」と言った。「自分がひいおばあちゃんになった気分はどう?」と訊いたら、祖母は「遅い」と答えた。「私は22歳で●●(父の名前)を産んで、●●も22歳の時に○○(姉の名前)が産まれた。だから計算上、私が66歳になる頃にはもうひいおばあちゃんになってる計画なのに、あんたたちがいつまで経っても子供を作らないから、私、いつの間に75歳になっちゃったじゃない」と言った。祖母の脳内ではそんな計算が行われていたのか。僕が「時間がかかったぶん、きっと姉はしっかり旦那と関係性を深めてるよ。だからおばあちゃんや父みたいに、離婚して子供に苦しい思いをさせる危険性は低いんじゃない?」と言うと、祖母は「それはそうかもね」と言い、その流れで元祖父との離婚前の思い出を楽しそうに語りだした。老人は、頼まなくても思い出を喋る。僕はベッドに入って寝た。
起きたら17時だった。渋谷でご飯の予定があったが、今日は髭を剃るのをさぼった。ご飯の相手が親友だからだ。今日も話したい人と話して、回復するのだ。
渋谷に来た。二日連続だ。
ふぐ料理専門店。親友の会社の優待券で大幅な割引ができたので、僕はその恩恵にあずかりに参上したのだ。親友はふぐを食べるのが初めてらしく、どんな味がするのか興味津々の様子だった。

「てっぴ」と「てっさ」。どちらも美味しかった。味はほぼ無かった。

てっちり鍋がはじまる様子。こんな籠と紙だけの器に出汁を入れても大丈夫なんだ。親友に「てっちりの『てつ』は鉄砲の『鉄』から来てるんだよ。ふぐも鉄砲も『あたると死ぬ』からね」というトリビアを披露したら、「『ちり』の方は何なの?」と訊かれ、僕は詰んだ。
「ちり鍋」の名の由来は、新鮮な魚の切り身を熱湯に入れると、ちりちりにちぢれて縮む様子から来たとされる。
ちり鍋 – Wikipedia
持ってこられた鍋用のふぐ肉が、動いていた。これまだ生きてる! と言ったら、お店の人は「お客様に新鮮な味をお届けするために、ついさっき捌いて持ってきましたので」と笑った。お客様のためなら何でもするというのか。AEDを使えばまだ蘇生できるんじゃないのか。箸で掴むと、鼓動が伝わって手が勝手にピクピクと動いた。鍋に入れると、動きは止まった。
ひれ酒を飲みながら、話した。親友は今の仕事内容が自分に向いているらしく、休日も好きなことを満喫していて、毎日楽しいと言っていた。羨ましくて「どうすれば僕もその状態になれるんだ」と訊いたら、親友は「幸福とは、やるべきことをやっている時間のことだよ」と答えた。与えられた仕事を淡々とこなすことが、真の幸福なのかもしれない。「お前はゲーム作りを『やるべきこと』にしようとしているのだから、それをやるんだよ」と言われた。やる気を出す一番の方法は、やることだ、と。正論野郎め。彼にふぐの味の感想を尋ねたら、「鯛の方が美味い」とのことだった。
お店を出たら雨が降っていた。最近はこんなことばっかりだ。予兆もなく、雨雲が現れる。話し足りなかったので、一緒に代々木公園に向かって歩いた。

赤ちゃんのつくりものと目が合った。
コンビニで、なんとなくポケモンカードのパックを買った。

イベルタルだ! いいんじゃない? でもU(アンコモン)だ。そんなにレアじゃないのか。今のポケモンカードは、イベルタルでさえアンコモンなのか……! 親友の方は、5枚の中にゴクリンとマルノームが入っていて、すぐにでも進化可能だった。

代々木公園を歩いた。代々木公園は予備校時代に何度も歩き回っていた。新宿~渋谷エリアで手持ち無沙汰になったとき、考え無しにこの公園に来てしまう。そろそろ代々木公園以外の歩きスポットを見つけたいんだけど……。
そんなこちらの手札の少なさをあざ笑うかのように、代々木公園には何もない。圧倒的な「無さ」が、安直な我々を迎え入れる。ここは何もなく、それゆえに大らかな場所だ。何もなさを味わいながら、親友と話を続けた。
「木の下って雨宿り場所になるけど、木は一時的に雨粒を保留してるだけで、雨が止みだした頃には逆に木の下だけ雨が降ってるよね」という話や、広島県にある芸備線というローカル電車の話、「最近のTwitterでは『昔見たこんな感じの○○(アニメやキャラクター、映画)の名前が思い出せないんですけど、わかる人いますか?』というフォーマットでわざと曖昧なイラストを描き、有識者を釣ってバズを狙う自演投稿が流通している」という話などをした。親友は傘を回しながら喋っていた。僕はトイレに行った。

小便器の溝に、何かいた。触覚らしき2本の線だけが飛び出して、うごめいている。姿は見えないが、確実にそこにいる。僕は「キャー」と言った。
小便器のこの溝って、ゴキブリに居住可能な広さがあったんだ。というか、小便器にあるこの溝のことを、生まれて初めて意識したかもしれない。今まで数えきれないほど利用してきたのに、この溝のことなど記憶の片隅にもなかった。「小便器の絵を描いて」と言われた人のうち、何人がこの溝を描けるだろうか。溝に隠れた彼(男子トイレだから彼と仮定した)は、そんな意外な気づきを与えてくれた。
公園を出た。まだ話し足りないというか、僕としては歩き足りなくて、東大駒場キャンパス方面に向かって歩いた。駒場キャンパスは以前、吉田寛氏のデジタルゲーム研究会を聴講しに訪ねたことがあって、僕は好きだった。背の高い木がたくさん生えていて、澄んだ場所だった。こんな夜中に入ってもいいのかわからなかったが、僕と親友が通っていた(僕は中退した)国立大学のキャンパスは24時間いつでもどこからでも入り放題だったので、国立大学なら行けるんじゃないかな~、みたいな期待を抱いて向かった。

途中でなんとなくスプラトゥーン3のシール付きウエハースを買った。ウツホが出た。僕はすりみ連合の中ではウツホが一番好きだったので、嬉しかった。嬉しいといっても、別にコレクションしているわけでもないので、1ミリほど心が浮き上がっただけだ。親友といると、時々こういう無作為のなんとなく行動が起こる。この前二人で隅田川沿いを歩いていたとき、彼が「歩くより走るほうが疲れない」と言い出して、共に全力で走ったことがあった。
駒場キャンパスに着いたが、期待通りにはいかなかった。どの門も全然開いていなかった。正門も塞がれていて、近づくと警備員の方に「入れないですよ」と止められた。いざ入れないと判ると、そりゃそうだよな、という気持ちになった。
そこで親友とは別れて、帰宅した。新しい一日の準備を始めなければ。
大学の前期の成績通知が届いていた。見たところ単位は問題なさそうだった。
昨日と今日で、人と話すことのありがたみを味わった。あと歩くことも。歩きながら人と話せば最強なのだ。苛んでくる辛い現実を忘れられた2日間だった。実際この現実は都合よく忘れていただけで、確固としてあるものであって、明日からまた立ち向かわなければならないわけだけど……でも案外、歩きまわったり人と関係ないおしゃべりをしてごまかしながら付き合っていくのが、リアルというものかもしれない。少なくとも今の自分にはそういう方法しかとれない。だから、この2日は現実をすっ飛ばして遊んだ。罪悪感は無い。罪悪感は足を引っ張るだけだ。
インタビュアー「ご自分を、お好きですか?」
– 嫌いじゃありませんね。少年時代には自己嫌悪というものは非常に強かった。だけど自己嫌悪ってのは非常に非生産的な感情だと思って、よしちゃったんですよ。それから好きになりました。
三島由紀夫