やっていない者

2025 - 05 - 18

14時に起きた。散歩する。

通行人によって捨てられる飲みかけの飲料容器って、こういう塀の端っこなどの「然るべき」っぽい位置に置かれてることが多い。ポイ捨てをする瞬間に、その者のなかで「祭壇」が見出されていることの、なんというか厚かましさ。

川の水が多くなったら、近づくのはやめる。オーライ!

川岸に行くために、草地を進んだ。

河原。石がたくさんあるー。

せっかく川のそばに来たのに、しゃがんで1時間くらいスマホいじってた。僕の人生の「それ以外」の部分だ。情けない。スマホのバッテリーが切れたので、引き返した。ため息が止まらなかった。こいつ、何しに川に来たんだろうね。

くたばれ

永井均『倫理とは何か』読み終わってめっちゃ面白かった!!!!!!!!! 名著だ。

真善美と並べたときの「善」について、これがいかにして成るか、成り得ないか、語り得ないかが書いてあった。倫理特有の面白さというのがあるなぁ。社会契約説や功利主義、ロールズの無知のヴェールなどは、社会の構成員それぞれの利己主義の帰結として道徳規範の成立を導くことを目指したものだけれど、どう頑張ってもその思想の基盤には論点先取やトートロジーがある。だから「道徳的な善さ」という価値は整然と説明しきることがのきない、前提をぼやかした欺瞞的観念であらざるを得ない。だけれど、言葉というものを使っている時点で我々はすでにある種の契約を成立させており、色々な前提・欺瞞はすでにインストール済みで(今の自分と未来の自分を鳥瞰的に把握して連続体としての自己を意識すること、自己を他者や共同体との位置関係で把握して、自己の普遍化を他者や共同体に適用すること)、それゆえに、語り得ない「道徳的な善さ」は我々の内側から引き出せる。「現に」そうなっている。みたいな……ゲーデルエッシャーバッハ的な気持ちよさのある展開だった。

フリーレン4話見た。

mono見た。

机が高すぎ。

『mono』、今期アニメで一番か二番くらいに好きだ。写真真ん中の人(名前わからない)が落ち込んで道にへたり込んだときに、画角の最前面をモブの子供とその母親が通りながら「ママ、なんであの人道で座ってるの?」「人に指差しちゃだめよ!」「なんで人に指差しちゃだめなの?」という会話をしていなくなった。

これが『ざつ旅』だったら「人に指差しちゃだめよ!」で終わらせてたんじゃないかな。「なんで人に指差しちゃだめなの?」まで言わせるのがmono特有の滋味の部分だと思う。こんな感じのフォーカスが横滑りするような変な台詞の転がしかたに、つかみどころのなさ、作者の肩の力の抜けた狂いみたいなのが現れていて、めっちゃ気持ちいい。映像も、作者の変さに全ベッドするような遊びかたをしていて、素晴らしい共犯関係だなぁーって思う。

『ざつ旅』『日々は過ぎれど飯うまし』『mono』を三本並行で見ていると、どれも同じ女子n人組の日常系アニメ枠と言えど、全然似たり寄ったりじゃない、それぞれ違う世界が作られていることがわかって面白い。

終わり。

スマホ6時間いじり続けた。一日が終わった。作業のこと忘れてた。

俺はゲームクリエイターじゃないし、女の子でもないし、日常もおくっていない。

トイレからパートナーの「やったー」という声が聞こえた。出てきたパートナーに何か良いことあったのと尋ねたら、特に何もなかったらしい。「発声練習」という意味不明の供述。

パートナーは口癖が多い。「こまこまこま……」とか「アッchchchchchchch、chchchch……」とか「ウワァ〜〜! 死、ワァ〜〜!」とか。しょっちゅう。口癖というより、たぶん一種の心の受け身のようなもので、頭によぎる好ましくない観念を振り切るために、「鳴らしてる」ようなものなんだろう。思えば「やったー」もよく言ってた気がする。別にやってなかったんだな。

僕もやってない。いや、やったことはある。スマホをとにかくたくさんぺたぺたと触り続けたということだ。日記やらCosenseやら、書いていると止まらない。でもスマホと触れ合ってるばかりでは、僕の存在の条件は永久に未達のままだ。

やめようと思った。散歩のときはスマホを持たない。ようにする。ウグ! イヤダ! 写真撮れない。音楽も聴けない。苦しい! でも、やめる! 散歩にスマホは持っていかない!

日記もさっさと書き終われ。

急いで書いてます。日記書く時間も縮めなきゃ。そういう段階の話だから。

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