語りえぬ痛み

2025 - 06 - 05

5時ごろに起きて、ティファの声真似をした。

9時。ここ数日まったく作業をやれていなくて、焦りと疲れと、息苦しさと、鬱。いつかcさんと話した「価値」の話を思い出した。作業をやれていない自分は、特定の文脈では価値がないな。

今ウィトゲンシュタインの入門書を読んでいるのだけど、自分が陥りがちなメンタルの状態や「価値」や「幸福」観の固着について助けになる内容で、読んで良かったなぁと思ってる。

ウィトゲンシュタインは、オタク人気が高いらしい。かっこいいから。わかる。存在感。

彼の仕事は前期と後期に分けられる。前期の『論理哲学論考』では「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」でさまざまな既存の議論を無に帰して、哲学界を地ならしした。

オタク人気の秘訣は、本人が性質ゆえにたいへんな生涯を送ったこともありそうだと思った。『論考』の最終的な主張は結構熱くて、絶望的な境遇の者を救いうる視座を与えてくれる。僕が読んでる『はじめてのウィトゲンシュタイン』がそう書いているだけかもしれないけれど、ウィトゲンシュタイン当人にとっての救いの模索でもあったようだ。そんな救いの哲学が、論理式の形で、徹底的な拒絶の手続きを経て導かれる。クラスに馴染めないオタク学生たちの琴線に触れるのも納得がいく。

前期ウィトゲンシュタインは、論理、存在、独我論/実在論、決定論/自由意志論、価値、幸福、死などを「語りえないもの」とした。「語りえない」というのは「それについて語ろうとすると、その語りは命題として無意味になってしまう」ということだ。たとえば「幸福」という語はあるけれど、その語がいったい何を指し示しているのかは説明できない。「幸福とは何か」「私は幸福なのか」などと問いを立てること自体は、ナンセンスとされるのだ。幸福の正体は、あくまで人々が幸福をめぐってあれこれわちゃわちゃする過程でおのずとその輪郭が「示される」ものでしかなく、幸福それ自体をダイレクトに説明して暴くことは原理的にできない。みたいな、感じの、理解。

前期ウィトゲンシュタインの仕事は巨人的なかっこよさがあったが、しかし後期の彼は『哲学探究』でその自論を否定することになる。

後期は「言語ゲーム」という概念を扱っている。まだ読んでいる途中だけれど、言葉はそれが用いられる個別具体的な文脈においてその意味を発揮し、その文脈と不可分であるので、それらの具体的文脈を退けて議論することは無意味だ、という主張。ですか?

後期の手つきでは、たとえば「私は幸せか」という問いについても、それを即座に「無意味」と一笑に伏しはしない。無意味の手前の相として、いったん「意味不明」というところに置かれる。その曖昧さのなかで、「あなたが知りたいその幸せってのは、ときめきメモリアルで『ストレス』が低いときの状態のことですか?」「いや、そういうことじゃなくて……」みたいに、その問いが有意味とされる文脈を個別的に検討していく。

ウィトゲンシュタインはあえて論者が「そういうことじゃなくて……」と言いたくなるような問いを投げかける。そのソクラテス的なやり取りを重ねると、しだいに論者は、自分の議論が言語を実際の生態系と剥離させ判然としないまま取り扱っていたことを自覚し、主張を取り下げることになる。このような手続きは「哲学を治癒する」という言いかたをされたりもするらしい。

後期のウィトゲンシュタインはそれはそれで、前期の抽象的で完全無欠っぽいところから下界に降りて実際的な手仕事に回帰したようで、かっこいい。アニメシリーズのエヴァへのアンサーとしての新劇場版のエヴァのような、円熟味。醸している。

今日は歯医者に行く。こいつ歯医者に行きすぎている。

どっちだよ!

自分のメモでは歯医者にかかる時刻が12時なのか15時なのかわからなかった。せっかくなので10時に早めに出て、徒歩でゆっくりクリニックに近づいていくことにした。え? そういう考えで出たけれど、それって12時か15時かわからないこととは関係なくない。まあ色々あって。

しかし、具合悪。

引っ越してからかかりつけの病院などが遠く行きづらくなってしまったのを案じて、パートナーが「自転車買う?」と提案してくれた。だから、自転車屋さんをはしごしながら、欲しい自転車を探した。

粗大ゴミとして置かれてる自転車があって、これ貰えばいいんじゃないかと思った。買うと高いし。棄てられた自転車を譲り受ける保健所みたいなのってあるのかな? 自転車ショップで新品を購入すると、むやみな自転車製造に加担することになり、そのぶん処分される自転車も増える。

「自転車屋をはしごしながら」ってさっき書いたけど、一店舗しか見なかった。ジョナサン行ってたら時間なくなった。ジョナサンでも時間なくて、ピザ注文したのに一口も食べられなかった。むやみな行動で廃棄ピザを増やした。

11時58分に歯科クリニックに着いた。予約は12時で合ってたらしい。

今日のトロヤの診察の主訴は、以前治療したはずの上の歯茎が痛みだした件についてだった。歯科医は僕の歯茎を見てウワーと言った。しっかり腫れちゃってますね。

「調べたんですけど、根尖性歯周炎というので合ってますか?」「そうそう」「とても難しいらしいですね」「普通は歯の中にある管に装置を通して、根元の患部を消毒するんですが。トロヤさんの場合は、昔ぶつけたか何かの影響で、歯の中に普通あるはずの管が埋まっちゃってたんですね。それで難しくて、前回は歯茎から切開して消毒したわけですが……」

また腫れて痛みだしたということは、前回の手術では患部の菌を根絶できなかったということだ。根尖性歯周炎は自然には治らない。

放っておくと歯髄壊疽(えそ)の状態になる

勘弁

「再手術ですかね……?」「いや手術っていうか、歯の裏側から穴空けて清掃する感じかな、レントゲン撮りましょうか。いやCTにしましょう」

歯の裏から穴空けるのは手術じゃないのか。恐ろしい治療のことだいたいすべて手術だと思ってた。CTを撮ってもらった。

撮影後、しばらく待たされた。裏で、歯科医と妻(ここは夫婦が経営するクリニック)が僕のCT画像をめぐってごにょごにょ相談しているのが聞こえた。つらかった。

「歯の中に管がない」という僕の前歯の状態はそれなりに厄介らしくて、前回の治療は、三度失敗した。四度目の外科的な切開でようやくうまく消毒ができた。と思われたが、今日(こんにち)また痛くなってきてしまった。

腫れてるねと言われたときから、けっこう絶望的な気分だった。受けた痛みや恐怖の経験が多すぎて、自分のなかで歯医者は金を払って苦痛を買う店みたいな印象になっていた。四度目の切開は、あれはあかん。麻酔を継ぎ足しながら掘り進めていく感じで、何度も激痛が走った。あれでもだったのか? あれ以上のことをやる必要が? それとも、抜(ばっ)……?

やはり、抜? ここに書いてある「場合」、今の僕の状況と同じすぎている。

先生が戻ってきた。「まず経緯から、順を追って説明しますね」と言われた。経緯から順を追って説明するってことは、結論が絶望的ってことだろ。

結論としては、またやることになった。切開。「ただやっぱりね、ひじょうに難しくて、成功するかどうか……ってところです」「前回も難しかったですもんね……」「トロヤさんは管が途中塞がっちゃっているので。コンマ何ミリって世界の話になっちゃうので……」

「こういうの(?)が得意な、専門のお医者様とか、他でいたりしますか」「いやァー、どうしてもトロヤさんの場合、経緯を説明しなくちゃいけないんで」「あー文脈…」「他のところ行くと、即、抜歯って言われると思います」「もはや抜歯のほうが良いみたいな状況では、ないん」「まだうまくいく可能性があるので、いったん試してはみたほうがね。ハイ。もったいないんでね」「なるほど……エ今日ですか?」「いや今日じゃないです。道具がないんで、改めて」

改めて、後日、治療することになった。

アー。アー!!!!

ウワーイヤダ!!!!!!!

本当に

本当

クッソオオオオオオオオオ

成功率は低いが、痛いことは確定していることを、される! トロヤさんの場合、管が塞がっちゃってるんで! コンマ何ミリの世界で! 悪かったな。コンマで。

先生も「いやァー」と、険しそうな態度を露わにしていた。たしかに向こうからしても最悪かも。管が塞がった患者が来て。過去問に無い、コンマ何ミリをあらそう難治療を、自分がやらなければならない。医者ってこのようなとき、どんな心境なんだろう。めんど〜とか思うのかな。医者によるか。僕だったら思うな。思う者は、志さないか。僕にはできない、医者って立派な仕事なんだな。

嘆きすぎだ。失敗しても死に至るわけではない。前歯が死に至るだけだ。28本ある歯のうちの1本だ。1本じゃ花束って言えないわ。本当に気にしなくていい。僕は25年生きてる。日本人男性の平均寿命は81歳だから、進捗率としては、すでに8本は失っててもおかしくない。中世ヨーロッパでは抜歯は床屋の仕事だった。

気にしなくていい。

歯茎の診察のあと、歯列矯正のリテーナー(マウスピース)が割れた件で、今度は妻のほうの先生が来た。どうして割れたのかわからないんですと言ったら、今いったん、着け外ししてみてくださいと言われた。着け外しを実演したら「その外しかただめです。それだと確実に割れます」と言われた。僕の外しかたが乱暴だったみたい。そうなんだ。作り直しのため、一万円を請求された。そうなんだ。

帰宅中

あーもう、

あーオ

どう、ど

うそやで

今日、暑くてしんどくさい。

前歯を失うことを恐れる気持ちは僕の弱さだからどうでもいいのだけれど、叫びたいのは、まっすぐに嫌だって言いたいのは、痛みが予約されていることだ。

痛みがすごいやだ。やめろやって思う。腰の痛みは天罰みたいだから精神で受け容れられるようになったけれど、歯関連の痛みは突然刺すように来るし、痛みを加えた者の顔がわかるので、悪の印象が強烈についてしまって、それがすごく怖いのだ。施術では痛みの種類が異なる様々な道具が用いられ、それが見えないところで適宜選ばれていることも怖い。次どれがくるか予期できない状況で「この痛みを受けた人は、こんな痛みも受けています」と違う角度の痛みを加えられる。天罰ではないきわめて人為的な、拷問だ。白状することがない拷問。

出産の痛みもそんな感じなのかな。出産の場合、最後にその痛みを加えてきた犯人の顔がわかる。

子供は頭部が重い。

自転車に乗る場合、ヘルメットもつけよう。富士山のまわりをロードバイクで一周していたとき、三回くらい転倒した。そのときは地面が凍ってたし徹夜で判断が弱まっていたとはいえ、三回くらい転倒したのは事実なわけで、転倒した回数だけ命に関わるコイントスが行われたのだと思う。

帰宅した。

ランダムすぎ。死ねってこと?

人生ってラン、

ランダムが多い。

面白くない。

腰痛やADHDの苦しみはまだ宿命的な味わいがあるが、歯は関係がない。僕のテーマと。ランダムに来た、ただのうざいイベント。歯の中に管がない? この私が? なんで。ティファの声真似したから? ここまでランダムだと、神も生まれる。日頃のおこないが気になってくるわけだ。メジャーリーグ ドジャース 大谷翔平選手じゃなくて、この私の歯茎がだめになっている。そのようなことが気になってしまう。Switch2も販売開始した。

実際のところ「なんで」とか無いのだと気づくのには、すこし時間がかかる。

気に病むのをやめよう。気にしてるから気になっている。ネガティブの自己増幅装置になっていることがわかる。野放しにしているとモンスターになる。

いさぎよく寝て、明日に挑戦。

これからもよろしくね。