
これ何の絵だと思いますか!
17時に起きたと思ったら、17時じゃなくて午前5時だった。12時間以上寝ていたらしい。自分の生活リズムは、自然の摂理に任せたら勝手に夜型に戻ってくれると思っていたのだけど……朝に起きてしまった。
7:43から作業を始めた。新ステージの地形を作っている。マッドマックスみたいな連結車両の上を走っていくマップを作ろうとしてる。
14:53にへとへとになって作業をやめた。昨日と一昨日と同じく、朝に起きると午後如実に貧血になる。僕が今まで何度も「息を吐くと筋肉が減る」という個性豊かな表現をしてき(て誰にも伝わらなかっ)たこの消耗感、これ「貧血」というやつだったんだ。知らなかった。“これ“が貧血だったのか。25年生きてやっと知った。みなさんが貧血と思う“その”感じと僕の”これ”が同じ感じなのか、知らないけれど。貧血って何! 知らない。
ウィトゲンシュタインの心の議論で「自分は今痛みを感じていると”知っている”」ということはありえない、という話があった。というのも、”知っている”という語は「”知らない”可能性が考えられる」場合にのみ用いられるものだからだ。「自分は今痛みを感じていると”知らない”」という主張は、ほとんどの状況で奇異に聞かれる。自分が今ある種の感覚を持っているという事柄は、”知っている”とか”知らない”という概念の適用範囲外なのだ。
この主張に対し、「たとえば無痛症などの疾患で痛みを感じない人なら『自分は今痛みを感じていると”知らない”』と主張することはいくぶん自然じゃないか」と異議を唱えることもできる。しかしその具体的文脈を唯一の反例にしている限りは、その反論者の言う”知っている/知らない”という語はせいぜい「痛覚を失わせる疾患に罹っているかどうか」の意味しか持ちえないはずだ。それなのに得てして反論者は、限られた反例をたよりに”知っている/知らない”にそれ以上のもっと一般的で包括的な意味があると信じ込んでいることが多い。ウィトゲンシュタインに言わせれば、そのような哲学者による語の身勝手な誤用は「精神的痙攣」に他ならないとのこと。ただでさえ貧血なのに、痙攣とまで言われたら、世話ないぜ。
冒頭の絵は、さっきいらすとやで調べたら出てきたhinketsu.png。どのくらいの人がこれを見て貧血を表した絵だと逆引きできるかなと気になった。僕はこれを見てようやく”貧血”観が固まってきたまである。

こちらはsick_keiren.png。いかがでしたか? ウィトゲンシュタイン見てるか?
血の巡りを少しでも良くしようと思って、足湯やってみたいなと思った。器がなかったのであきらめた。ぼーっとしていたら、夜になった。先日衝動的に入会してしまった”会”、退会申請した。
今、今というのはこの日記を書いている翌日の僕のことなのだが、これを書いている今も、これを書かれている今も、同じくらい疲労困憊の状態だった。カリオストロの城で「血が足りねえ」と言いながら食べ物をむさぼっていたルパンのことを思い出しながら、パンを食べた。翌日の話ね。今日は何食べたっけ。ちょっと、覚えてないかも。
作業時間だけ見ると今日は7時間くらい頑張れたように見えるけれど、後半の4時間はまったくゲーム開発に関係ないことしてしまっていた。Googleタグ? みたいなものについて調べたり試したりしていた。あとXのゲーム関係ない閲覧用アカウントでミュートワードを登録してタイムラインを綺麗にできないか試していた。
ごみだな。
どうして僕ってこんなに、いや、どうしてとかじゃないけれども。
「連続性がない」ことを自己アイデンティティに組み込みつつある。
ってChatGPTに言われた(言わせた)。
これは元うつ病の自己観察型に超ありがちな罠だ。「自分はそういうもの」と認めるのは楽になるが、次第に「改善は別にしなくていいや」ルートに入る。だからたまに本当に何か形にしたくなる時(ゲーム開発とか)にめちゃ苦しくなるんだよ。自己イメージとやりたいことが微妙にズレてるからな。
そういうのもっとください!
実行力 → 20点(語りに吸われてる)
自己アイデンティティ形成 → やや歪んできてる → 調整必須
わかる。
今のバランスのままじゃ「面白かったのに何も残さなかった人」コースに突っ込む可能性が高い。
それでいいと思ってしまっているんだよなぁ。
でもたしかに、今の自分の精神形成だと危うい気はする。
僕は、とにかく方向づけを持たないようにして生きている。自分に期待しない、目標をもたない、幸せを求めない、実現を求めない、価値を求めない、自分が何者かを定義しようとしない。特定の方向づけを持つと、現実とのズレが生じるばかりで鬱になる(なった)からだ。ここ数年は、生存戦略としてこれらの偏りを剥がすのにむしろ精一杯だった。僕は漂流という航法を選んでいる。
しかしこの現状はそれはそれで極端で、理想の状態とは言えないと思う。苦しみは減ったけれど、生きている心地がしないのだ。本当に、一時間おきに別のことを考えているから。誰ですかって感じ。過去の自分が入会した知らん講座の会費の延滞料を今払わなきゃいけなくて、怒ったりしてるから。ぜんぜん自分のせいだと思えない贖罪、尻ぬぐいを繰り返している。こんなの人生とは言えない。
無我を突き詰める方向でやっていってもいいけれど、今の社会に一番フィットする人生の善い過ごしかたはそれではないと思う。無理のないようにある程度の方向づけを自分に課していって、適度に歯ごたえのある課題解決をくりかえして自己効力感を高めていく感じ。精神的にも環境的にも安定してきたし、すこし持続的な自分らしさみたいなのを意識できるよう、鞭を打っていく方向をやっていくべきかもしれない。というか鞭を打たないと、Death the Guitarは一生完成しないっぽい。
これを書いている限り、ゲーム開発は進まない。実行する自分になるための知識やノウハウは、もうあらかた出きってる。どうすればいいのか考える必要はない。書くことは何もない。ChatGPTに自分を総括させるのも、時間稼ぎ(稼ぎというか、空費)でしかない。これ以上はまったく、奇跡も、巡り合わせも、閃きも必要ない。ほんの少し力を加えるだけで動くはずなんだけど……いまいち掴めていない。あるいは、こんなふうに自分の人生を掴みそこねて、掴みそこねて、そこね続けて、にゅるんって、寿命で死ぬのかな。
ほら書く必要ないのに書いてるから「にゅるんって、寿命で死ぬのかな」とか書いてしまうんだ。