8時に起きて学校に向かった。
今日はやることがいくつかあった。授業で作業をしたあとは、図書館に借りていた本を返してからすぐに大学を出る予定だった。家に帰る前に市役所に行く用事があるので、その手続きをして、あとは市役所に近いかかりつけの内科で血液検査を受けようかなと思っていた。せっかくだし、自分が貧血かどうかを生理学的に判定してもらおうと思ったのだ。あと、口座にまたお金が入ったので、カウンセリングと精神科にお金の支払い。それと数日怠っていたDiscordの返信もやらなきゃなと思っていた。
たまたま朝型の生活リズムをとらえていたので、気持ちよく登校できて嬉しかった。炒飯のおにぎり作ってもらったので、お昼はそれを食べようと思った。
↓↓↓強い重力↓↓↓
上に書いたタスク、何ひとつできずに20時まで大学にいた。教室で席に着くなり、日記を書くことに夢中になっていた。昨日の日記だ。昨日見たサプリの「コスパは良いが、それ以外にメリットなし」といういかにもゲーデル的なAmazonレビューが個人的に気になって、ずっとこのこと考えてしまった。日記を書きながら、LaTeXの記法や、存在の証明について、積分についてなどいろいろ興味が連鎖して、気がつけば閉館時間になっていた。
なァーアーアァォンッ
もやってない。自分に呆れるのにも飽きた。
僕の授業は二限だったのだけれど、二限終わりのチャイムが鳴ったあとも僕は机のパソコンに張りついて席を立たなかった。昼休みも席を立たなかった。三、四限の時間に知らない学生たちが別の授業をやっているあいだも席を立たず、五限の時間には有志の学生が企画した何かの座談会みたいなのが催されていたがそのあいだも席を立たず、やがて誰もいなくなったが席を立たなかった。閉館の時間にようやく席を立った。

空腹を思い出して、おにぎり20時に食べる。
帰った。市役所が空いてる時間ではない。また今度だ。内科のほうは、別に行かなくてもいいか。
今日は依存者だった。ふと思いあたっただけの「自己参照の詭弁の証明をしてみる」という即席の遊びの快楽に溺れて、本来向けるべきゲーム開発の仕事から逃げてしまった。ドパミンを持っていかれた。やっていることは本質的には1=2の証明のようなもので、嘘でしかないのに。自己満足のエンタメ。
授業中、ラボ内で進捗を報告しあうフェイズがあった。そういえば、前回の授業から、ほとんどと言っていいほどDeath the Guitarのビルドは進んでいなかった。僕は何か話の種になりそうなものを提出せねば……と思って、過去に書いた計画書を引っ張ってきて「ビルドが進んでおらずお見せできるものがないのですが、とりあえずこういうのを考えています……」と言った。
すると教授に「みんな『こういうの考えてます』って魅力的なアイデアを出せることはわかっているんだよ。でも、実際に手を動かして形にしたものを持ってきて『今週はこれができました』って見せてくれないと、進捗報告にはならないよ」と言われた。僕は「本当におっしゃる通りだと思います」と言った。

サプリはこれを買ってみた。ヘムって何。非ヘム鉄とヘム鉄では鉄分の含有量や吸収率が異なるらしい。生まれてこのかた、ヘムか否かなんて考えたことなかったよ。知らぬ指標が増えた。飲んでみるけれど、どうせ数多のレビューと同じく「効いてるのかはわからないが、なんかいい気がする!」みたいな感想を抱きそう。
古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』を読み終わった。「はじめての」と言うだけあって、めっちゃわかりやすくて面白かった。ウィトゲンシュタインが実際に著したり遺したテクストは本来どれも超難解なわけなのだから、わかりやすく読める本というのは、それだけ無数のディティールを削ぎ落とした大要しか書かれていないということだろうけれど……それにしても読んでよかった。
次は何読もう。手元に大学の図書館で借りたハキム・ベイ『T.A.Z.:一時的自律ゾーン』がある。アこれ今日返却するつもりだったやつじゃん! 忘れていた。返却期限今日だったのに、せっかく大学に行けたのに、リュックに眠らせたまま持ち帰ってきてしまった。延長はすでに使ってのこれなので、期限超過は必至だった。また貸出禁止みたいなペナルティを受けるやつだ。もう、大学で本を借りるのやめようかな。『T.A.Z.』は読む気が失せたので、別の本を探すことにした。
うっすらと、自分が世界から突き放されているような感覚があって、そわそわする。梅雨どきで体調を崩しているのもあると思うけれど、ほんとに屍みたいな日々を過ごしてる。生きた心地がしない。
ここ1,2週間の自分の日記を読み返した。この人ぜんぜん何もしてないな。怠、惰。
あまり気にしないようにしてるけれど、一般社会人がこの日記を読んだら、人によっては僕のこと殺したくなるんじゃないだろうか。こんな有様でのうのうと生きてる者の存在が信じられるだろうか。やるべき仕事から目を背けてぽかーんとして、毎日違う何かに没頭してる。それを悪びれる様子もなく?綴って公開している。そんなふうに安価な「面白み」に自分の窮状をいちいち転化して気持ちよくなってるから、成長しないんだぞって、突っ込むことができる。
TikTokのこと嫌ってるくせに、僕自身がTikTokのように脈絡のない日々を過ごしまっている。僕の書く記録は、その日暮らしで、道化で露悪的で開き直り調子で、進展がない。反省もその日の反省でしかなく、後悔もその日の後悔でしかない。新聞の四コマ漫画と同じで、たくさんの信念や自己意識が、持ち越されることなく、寝て起きたらリセットされている。
日記の構成は、終盤の展開が似ていることが多い。ぜんぜん関係のない気づきみたいなのにたっぷり文量を割いたあと、最後に、「そういえば一日何の作業もやってないな」と自分のことに思いあたり、間に合わせのように甘い自己嫌悪のモーションだけとって「寝る」と締めくくる。トホホ〜とアイリスアウトして次へ行くのだ。今書いてるこれも同じ。
今日は夜帰宅して、何もしてない自分に愕然としたけれど、少なくとも家でできることは今日中にやるぞと思った。うんとこしょと医療系の振込を二種やった。ホラ成功体験だよ! どちらも遅滞していた支払いだったけれど。
ありま猛『連ちゃんパパ』がコロナ禍にバズってたときに、「呆れるほどクズな行為を重ねる主人公に、制裁がないことが凶悪」という評価のされかたを見た。これが『ウシジマくん』だったら主人公はとんでもない目に遭っていたぞ、みたいな。僕も誰かから、制裁を願われていたりするかな。
制裁ってすごい語だよな。物語における制裁概念って興味深い。作中でワルイ行為をした人物に対して、プロットが天罰を下したり、読者が「痛い目に遭え」と期待したりする。そのような因果応報の力場に対しどのようなスタンスを取るかに、作者の個性や時代性が表れる。連ちゃんパパは良かったな。
頂き女子りりちゃんの獄中手記が読み応えあると一部で評価されていたのも印象に残っている。あれは、ある意味制裁をすでに受けた者による表現として、読む者が試される感じがあった。
楽しいことひとつもない。
とっちめてやる。
「懲らしめる」って「懲りる+しめる(使役)」で「懲りさせる」ってことかな。「二度とやるまいと思わせる」ということか。
「懲罰」は「こらしめの罰を加えること」らしい。熟語の構成的に「罰に懲りる=二度とこんな罰を受けたくないと思う(ほどの厳しい罰)」というニュアンスなのかな? と一瞬思ったけれど、そんなことはなかった。こりさせるのは罰ではなく、罪のほうのようだ。懲という漢字単体で、すでに「こりる」と「こらす(こらしめる)」両方の意味を含んでいるみたい。
アンパンマンがよく言う「やめるんだばいきんまん」が、そのときばいきんまんがおこなっていた個別的な悪事に対して単発で「やめろ」と言っているのではなく、今までの悪事を踏まえたばいきんまんの行為の傾向性について「そういうことするのを、いい加減やめろ」と言っていたら、すごいな。アンパンチの意味も変わってくる。「トラブル解決」の域を超えた「制裁」の実践になってくる。ばいきんまんをその場から退場させることだけではなく、彼を「懲らしめる」ため、拳をもって痛みを与えることが目的になってくる。
でも実際は違うのだろう。アンパンマンは毎話リセットされ永遠に続く、進展のない物語だからだ。アンパンマンの介入は、ばいきんまんを”どかす”以上の侵襲性をもたない。暴力的でもないけれど、浄化もしない。それゆえ、ばいきんまんは一生懲りることはない。性懲りもなく、悪事を続ける。
アニメでよくみる「もうこりごりだ〜」という定番台詞は、しばしばアイリスアウトを誘発する。これは皮肉だ。なぜならアイリスアウトは本質的に、物語世界から時間的な展望性を奪いとる記号表現だからだ。アイリスアウトしている限り、誰の信念も引き継がれない。「こりる」なんて未来は、永久に訪れない。